memo ねたつめあせ。 ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ 「彼女が声を上げない理由」 荒い息が鼓膜にしつこくまとわりつく。熱気の上がった部屋はいつにも増して気持ちが悪い。ただでさえ気に食わない空間に、より嫌悪が募る。五割増と言ったところか。 窓を開けて換気しようにも、この周囲の空気はお世辞にも綺麗とは言えない。意味が無いと諦めた。 「シャワー浴びるから」 満足気に息を調えている男にそう告げると、酒に酔った目を私にゆっくりと向けた。舐め回すような視線が気持ち悪い。蛇が身体に纏わり付くような感覚に思わず顔を顰めた。そんな表情を見ても、男は気を悪くすることもなく私の視線を捉える。 「今日も声出さなかったな」 「あんたが下手なんじゃない?」 嘲笑う様に言葉を投げるが、それでも男はにやりと口角を上げるだけ。 その顔に、私はまた顔を顰めた。男が喉を鳴らして静かに笑う。私のこんな態度にだって、彼はもう慣れっこだ。 彼は私の常連であり、私の生意気な性格を良しとする部類の一人。だからといって贔屓にするなんてこともなく、私はこの男も含めて等しく自分の客が嫌いだ。好きでもないタイプばかりが寄ってくるのは、紛れもなく私のせい。 「そんなところも嫌いじゃない」 かちりと、ライターの音。煙草に火をつけた彼は、そう言って紫煙を吐き出した。彼の顔からにやけが取れることはない。この顔が通常なのではと思うほどだが、人を殺す時の彼はただの極悪人だ。 「あたしは、金がもらえるなら何でもいい」 シャワー室に逃げ込む。男はそのうちに部屋を出て行くだろう。見送りなんてしたくない。此処での私は綺麗に洗い流して、いつも通りにしていなければいけないのだ。 なるべくお湯を熱めにして上からかけた。髪も、顔も、体も、全てが熱に包まれてゆく。 熱消毒。そんな言葉が頭を過った。この熱が、私の心に潜んだ菌まで殺してくれればいいのに。 週に二度、彼は来る。決まった時間、曜日。違えたことは、今までに一度だってない。 「グリーア、」 彼の甘い笑みが歪んでいた。他の男に抱かれたと容易にわかる赤い痕。首筋にそれを付けろと言うのはいつも私だ。男は喜んで私に痕跡を残してゆく。 あの常連にも、他の客にも。誰かと特定するわけでもなく、私は彼ら全員に痕を付けるように告げる。お陰で、私の身体には鬱血したそれがいつも身体中に咲き誇っていた。 「ちゃんと来て偉いね。ご褒美あげる」 歪んだ笑みをすっと消して、無表情になる彼。彼の頬に軽く口づけを落としてから首元の黒に触れる。巻かれたチョーカーは、私が彼にプレゼントした物だ。 首輪のようなそれからは、私たちにしか見えない鎖が私の手首にまで伸びていた。その鎖は脆くて弱くて今にも千切れてしまいそうなのに、不思議と今まで一度も千切れたことはない。 苦しそうに顔を歪めたブルトの体に擦り寄り、チョーカーを外した。そのままぐいと端を引き、彼の首を締め付ける。 深い青の瞳が私を捉えた。そこに感情は読めない。彼の瞳は海だ。それに飲み込まれ、藻屑となって消えてしまったに違いない。 彼の感情が壊れていく様は、なんとも言えず愛おしい。 ブルトが苛立ったように私の腕を払い、押し倒す。荒々しい口付けと、乱暴な手つき。赤い痕を引っ掻くブルトの指先。 彼は客のように痕を付けることはしないし、私も彼にだけはそれを命じない。その代わり、彼は私に残った痕跡を掻き消そうと痛いくらいに爪を立てるのだ。泣きそうに、苦しそうに、怒りすらも交えた表情で彼は私に口づけをし続けた。 ブルトの涙を見なくなったのは、いつからだろう。 ぶると。束の間、酸素を取り入れるために唇が離れた。その隙に彼の名を呼ぼうとするも、構わず、むしろそれを阻止するように彼は私のことを愛で始める。 何かを掻き消す様に、埋める様に、染める様に、無我夢中で。わざとらしいまでの嬌声を上げれば、彼は苛立った様にまた私に口付けをした。今度は深くて長いもの。私の息が乱れた。 彼は何てことないような風で、私の両手首をその冷たい手で掴んで、まっすぐに見下ろしてくる。 「他の男に聞かせた声なんか、聞きたくはない」 甘い笑みなんてどこにもない。いつもの人当たりが良さそうな表情はすっかり姿を眩まして、ただただ私のことを睨みつける様に、それでも愛おしく見つめているのだ。 彼の狂気に潜む愛を私は知っている。告げられた言葉に構わず私は声を上げた。ぐちゃぐちゃと感情の入り混じった瞳が恨めしそうに私のことを睨みつける。この瞳が愛おしい。 私が声を上げるのは彼の前でだけ。そう決めたのは、ここに来たその日から。でも、彼はそれを知らない。私が一人でしたくだらない決意を彼に話したことは一度もない。 これからだって彼が知ることはないだろう。いや、知らなくていい。 あなたが私のことでおかしくなるなら、私はなんだってしてあげる。嫉妬に狂うあなたが愛おしいから、私はあなたの前でだけ優れた娼婦を演じるの。 「すきよ、ブルト」 本音から零れた告白だって、数多の男に告げるような薄っぺらい愛の言葉に変えてあげる。 彼はその言葉に眉を寄せ、ギリギリと歯軋りをした。手首を掴む力が強くなる。痣になってしまうかもしれない。彼に纏わり付くのが首輪なら、私には手錠といったところか。 私のことだけを考えておかしくなればいい。縛り付けて拘束して、あなたが何処にも行かないように、私はこれからだってこの見えない鎖を守り続ける。 そうして、そのうちあなたの気が狂っても。 私は、あなたを愛してる。 |