負けた。

赤也は明確に突きつけられた事実にふわふわした心持ちだった。当たり前のように勝って来たし、当たり前のように先輩達は、俺は、勝って、勝って勝って勝って、そして、常勝を貫き通した暁には、笑っているものだと思っていた。いや、望んでいた。幸村部長が倒れた日から失われた立海テニス部の明るい部分。赤也は心の奥底でそれを望んでいた。本人も気付いていなかったのかもしれないが、赤也は人一倍、明るい部分を求めていた。先輩達は優しい。でも厳しい。でも楽しい。そんな先輩達が赤也は大好きだった。憎まれ口を叩かれながらも、いつしかそれも無くてはならないものになっていた。制裁はイヤだけど。でもそれさえも自分を強くする糧となった。しかしいつからか、それは暗く、重さを持ち始めた。中学生が背負うにしてはとても重たい物に変化していった。

病に伏せり、入院していた幸村部長に会うたびに、背に重みは増した。

真田副部長だって、柳先輩だって、あの丸井先輩や仁王先輩までも、重さを積み重ねていった。勿論ジャッカル先輩も柳生先輩も人一倍責任を感じてしまう優しい人だから、言わずとも、そうなっていった。

だから、赤也はそれを軽くしたかった。

軽くする為にはどうしたらいいのだろう。
赤也はあまり頭がよろしいとは言えない。だから難しい事はわからない。でも単純な事なら自分でも思いつく。みんなが望んでいる事をやればいいのだ。そうしたら、みんなが喜んで、幸村部長も喜んで、また元のテニス部に戻るのではないか。そう、考えた。

だから、勝たないと。

元から気性の荒いプレイスタイルだったが、本格的にスイッチが入り始めたのもこの時だ。避けられない方が悪い、だってそうだろう?俺はただ、負けないために球を打ち返しているだけ。相手のその後なんて知らない。勝てばいいのだ。勝てば、幸村部長が喜んで、そうしたら、真田副部長と柳先輩が安心して、それを見て他の部員も安心する。これで万事解決なのだ。そう、思っていたのに。

目の前に広がる光景は、あまりにも滑稽に映った。

どこかすっきりしたような幸村部長が、青学のチビと、握手している姿。

可笑しいだろ、だって、負けたのに。

俺は、人を傷つけてまで、勝ちを得たのに。

「……赤也?」

柳が、ぼんやりと幸村を見ながら涙を流す赤也を見て声をかけると、赤也は涙で真っ赤に充血させた目を柳に向けた。

こんな悲しい思いを抱くなら。

「アンタ達と会わなきゃ、よかっ」

そこで赤也の視界はブラックアウトした。
完全なる暗闇に落とされた赤也の涙は暗闇に落ちて溶けた。










「おーい赤也ー。補習終わってんぞ」
「うわぁ!」

そんな中、急に世界が揺れたかと思えば耳元での大声に赤也は飛び起きた。その勢いに、起こしてくれたクラスメートである中山も、うわ、と小さく驚いて少し後ずさった。そんな事も御構い無しに赤也はキョロキョロと辺りを見回す。教室。夕暮れ色に染まった、自分が所属するクラスだ。赤也は寝惚けたようにふわふわする頭で首を傾げた。

「あれ、俺、全国大会で、青学に負けて、」
「はぁ?何寝ぼけてんだよ。英語の補習だろ、ほ、しゅ、う!」
「いや、でも確かに俺、」
「はいはいはい!起こしてやったんだから文句言うなよな!俺は部活行くけど、赤也は?ま、行ってもだけどさ、テニス部なんて」
「…は?」
「…悪かったって。赤也は本気なの知ってるよ。ま、程々に頑張れよ。じゃな」

自分の大好きなテニス部を貶されたような言葉に、何故そのような事を言われなければならないのか訳がわからず眉をひそめれば、中山は少し悲しそうに眉を八の字にさげ、赤也の肩をぽん、と軽く叩き、教室から出て行ってしまった。馬鹿にされたようには感じなかったが、冗談めいた言葉にも思えなかった。全国二連覇を達成する程に強豪であるテニス部をあんな揶揄するなんて。赤也は更に首を傾げた。

「…んだよ、意味わかんねぇ」

赤也は誰もいない、どこか寂しくなった教室の真ん中で呟いてみたが、その行為さえ寂しく思えて来て頭をふるふると振った。そうだ、部活に行かなければ。今から行ったら外周くらいは参加出来るだろう。その後球出しして。ラリーをして。タイブレーク形式のミニ試合。それくらいは出来る。赤也はくたびれた鞄に雑に筆記用具を仕舞うと、それをもち、教室から走り出た。向かうはテニスコート。補習ならば柳先輩が把握している筈だから、遅刻に関するお咎めは無いだろう。補習を受けてしまったことに説教はされそうだが。赤也は今から真田の顔を思い浮かべて身震いをした。言い訳を考えとかないと。

そうこう考えている内に玄関口まで来た赤也は、急ぎ足のまま自分の下駄箱を開け、また雑に履いて走り出した。履き口を踏み潰しているのは大目に見て欲しい。

「はっ、はっ、はっ、」

そうだ、あれは夢だったんだ。

俺たちが負けるなんて。

「へ、へへっ、へへへ、」

自然と笑みが溢れた。
赤也は物静かな辺りの様子に気付かないまま、男子テニス部、と書いてある部室の扉を開けた。

「うぃーっす!遅れてすみませ、あれ?」

がらんとした部室。
いつもは多くの部員達の荷物でごった返す室内が綺麗さっぱり、閑散としていた。なんだ、今日はミーティングだっけか。立海テニス部はミーティングの場合は視聴覚室を借りてする事が多く、そこから直帰するので部室には来ない部員が大多数を占めるのは確かだが、どこか、寂しい。

「おっかしいな…ミーティングとか聞いてねえよ…」

そもそも補習を受けた記憶も、その前の記憶も無いのだが、そこはあまり気にならないらしい。赤也はぽりぽりと後頭部をかきながら部室内の長ベンチにどかりと腰を降ろした。

「……あれ」

そしてふと、レギュラー陣が使っているロッカーに目をやると、不自然なものが。

「…なんで幸村部長のロッカーんとこに俺の名前…?」

赤也は荷物をベンチ脇に下ろすと、幸村が使っているであろうロッカーの方まで歩み寄った。もともとこのロッカーは名札を扉に差し込むタイプの物なので、悪戯しようと思えば簡単に出来る。多分、仁王先輩か丸井先輩だと見当を付けた赤也は、さっさと取り払って真田にバレないようにするのが吉と踏んだ。

「へへ、毎回毎回騙される俺じゃねえぜ!…あれ」

しかし、また違和感。
切原、と書かれた名札の下には誰の名前も無かった。なんだ、幸村部長の名札さえも隠したのかよ、と呆れたように溜息を吐き、ならば自分のロッカーに幸村部長の名札があるのでは、と5つ隣の、少しだけ他のロッカーより薄汚れた扉のロッカーに向かった。ちなみに何故薄汚れたロッカーなのかというと皆から後輩なんだから余り物でいいだろだのなんだの言われた結果である。ジャッカルが苦笑しながら代わろうかと聞いてくれもしたのだが、それはそれで断った。一応、自分も少しは先輩後輩関係を意識しているのだ。

「……あれ、これ小松の名札じゃん」

自分のロッカーである筈の名前欄には、同じ学年の小松の名前。もしや準レギュラーの分までシャッフルしたのでは、と赤也は溜息をつい漏らした。いくら何でも面倒臭すぎる。これは仁王先輩たちに直して貰おう。赤也はとりあえず証拠を残しておこうと幸村のロッカーに自分の名札を差し込み直した。それをぼんやり眺めて、きゅ、と唇を噛む。

「幸村部長…」
「あれ、赤也!おっせーよ!」
「っ!!に、新田…!」
「補習だったのは知ってっけどよ、もう部活時間終わるぞ!」
「は?今日ミーティングじゃねえのかよ」
「は?誰から聞いたんだよそんなん」

ばん、と派手な音をたてながら部室に入ってきたのは汗だくになったユニフォームをぱたぱたと仰いでいる新田だった。ぶつぶつと文句を言いながら用具入れの中をがさごそと漁っている。赤也は新田の言葉に首を傾げながら、また違和感溢れる部室内を見回した。荷物は無いに等しい。赤也は逆側に首を傾げた。そんな赤也を訝しげに見た新田は、お目当てのポカリの粉を手にして口を開いた。

「で、今日は部活出ないのか?」
「いや、出る出る。今何してんの?ラリー?」
「いんや、基礎練。今日はコート使えない日だろ」
「は?」

また違和感。
強豪である立海テニス部にコートが使えない日なんて無いはずだ。女子テニス部とソフトテニス部は曜日毎に分けてるようだが。

「何訳のわかんねぇこと言ってんだよ。俺らは毎日使えるじゃん」
「……現実逃避?」
「ハァ!?」
「部員数総勢12名の弱小テニス部に、コートを毎日振り分ける訳無いだろ。何、寝ぼけてんの?補習寝てた?」
「は…?」

新田の真剣な顔から発された言葉に赤也は頭がぐちゃぐちゃに掻き回された。部員数総勢12名?弱小?今日はエイプリルフールでもないし、そもそも新田は生真面目な奴で、こんな嘘を吐くような人間ではない。赤也は余計に混乱した。新田の顔がぼんやりとぼやけてくる。だが、次に吐き出された新田の言葉に、赤也は言葉を失った。

「本当、しっかりしろよな、部長なんだから」









赤也は弾かれたように走り始めていた。

新田の制止の言葉など耳に入らず、一度出た筈の生徒玄関をまた潜っていた。確証は無いけど、多分、多分。あの人はあそこにいる。
確かに言われてみれば、部室内に優勝旗は無く、トロフィーも数が随分少なく思えた。そして柳先輩がいつも綴っている部誌も無かった。なんとなく部室内が寂しいと思ったら、いつもあった筈の物が無かったんだ。赤也は走りながら、動悸によって発された汗とは別の汗が流れているのを感じた。

「なんで、なんで…っあ!」
「ん?」

お目当ての場所に行く為に駆け上った二階へ続く階段の先に、見知った後ろ姿を目視した赤也は思わず声をあげた。その切羽詰まった声に、職員室のそばにある生徒会室へと向かっていた柳蓮二は不思議そうに振り向いた。

「柳先輩!!!!」
「お前は…確か二年の、」
「何してんすか柳先輩!部活は!?」
「な、離せ、切原、」

がしりと掴まれた腕に力が籠もる。嫌な予感が当たらなければいい。だが、切原、と呼ばれた事になんとなく、わかっていた事だった。

「茶道部に何か用でもあるのか?」
「っ!アンタは!テニス部でしょ!?」
「……何を勘違いを」
「アンタは!俺より強くて!幸村部長と真田副部長と一緒に!三強で、俺と、ダブルス、組んで、て……」
「切原」
「止め、止めてくださいよ、ねえ、冗談だろ?」
「切原」
「……」

尻すぼみになる声と共に、柳の腕を掴んでいた手の力が緩んだ。どんなにごねても、柳は自分の名字を頑なに呼んだ。それが暗に答えだと言わんばかりだ。赤也は頭をゆるゆると伏せた。そんな赤也を見ながら訳がわからないといった顔をした柳は、そっと、赤也の手を自分の腕から外す。赤也もそれに抗う事なく、だらんと腕を下げた。何処にも力が入らない。じわりと視界が滲んでいくのがわかる。柳はそんな赤也を薄目で見やった後、そっと、目を伏せた。

「……俺が昔テニスをしていた情報をどこで得たかは知らないが、俺は、テニスは止めた」
「……あ、そ」
「すまない、用がある。失礼するよ、切原。……俺もお前のように強ければ」
「……は?」
「此方の話だ。ではな」

そっと吐き出された言葉は確かに赤也の耳に届いた。そういえば、柳先輩って青学のデータマンの人と幼馴染みで、しかも半分喧嘩別れのような物をしたのだっけ。確か関東大会の決勝で言っていた気がする。傲慢な動作で伏せていた顔を上げれば、どこか寂し気な背がしずしずと廊下を歩いている姿が目に写った。

「……バカみてぇ」

ぼそりと呟いた言葉は柳に届く事なく、夕暮れに染まった廊下の黄昏れた空気と混じり合い、そして溶けるように消えてしまった。あんなに近くにいた敬愛する先輩の背もまた、すぐに見えなくなり、赤也は一人廊下の真ん中できゅ、と唇を軽く食んだ。

「何をしている」
「わあああ!?ふ、副部長!」
「む?」
「…っ」

しかし、そんな侘しい空気を切り裂くように、がらり、と職員室のドアの開閉の音が大きく響いた。静まり返った廊下に突如響いた音に赤也が肩をびくつかせると、ドアを開けた当人である真田弦一郎は訝しげに眉をひそめた。いつも真田から怒声を浴びている赤也は、反射的に叫んでしまったという訳だ。そして、叫んだ後に気付く。柳先輩がテニスをしていないというなら、勿論、この人だって。赤也はまた唇を軽く食んだ。

「何故俺を副部長と呼んだ。お前は弓道部と何ら関係はないだろう」
「えっ、真田副部長弓道部なんすか?」
「……そうだ。何だ、知らずに呼んだのか。可笑しな奴だ」

ふ、と小さく笑った真田に、赤也は驚いたように目を大きく開いた。普段赤也に対する真田の態度なんてこんなものではない。くどくどとお小言を言うか怒声を浴びせるかだ。勿論、どちらも顔は般若面。それが、笑った。確かに自分に対して笑った。無性にむず痒くて、わなわなと唇を震わせる。そんな赤也を見て不審がった真田は、少しだけムッとしたように目尻を釣り上げた。あ、ちょっといつもの副部長かも、と思った矢先に、怒声は耳をつんざくように自分に降りかかってきた。

「なんだお前は!いきなり見ず知らずの他人にそのような態度!たるんどる!」
「ヒィ!す、すみません!」
「どこの部活だ!部長共々叩き直してやろう!」
「ヒィィテニス部ッス!」
「何?テニス部だと?」

何故か、勢いが止んだ。
思わずぎゅっと瞑っていた目を恐る恐る開くと、少し考え込むような顔をした真田がジッと此方を見下ろしていた。なんだか柳先輩のさっきの背中みてえだ。寂しそう。赤也は無意識に溜め込んでいた空気を少しずつ吐き出した。

「……テニス部は二年が部長を務めているらしいな」
「……ッス」

認めたくねえけど、と心の中だけで呟いた。俺の中で部長はあの人だけだ。例えそれが自分だとしても、三強である先輩達に勝つまでは認められないし、認めたくない。

「(それなのに……なんなんだよ、これ)」
「そうか。……俺も、テニスは小さい頃にやっていてな。とある事がきっかけで止めたのだ」
「とある、事ッスか?」
「ああ」
「なんなんすか、それ」

赤也が何の気も無しに聞くと、真田はまた寂しそうな、だがどこか強張ったような顔付きになった。

「共にテニスをしていた友が病に臥せってな。」

そしてどこか遠くを見るような目つきで赤也の背後にある窓の向こうの夕日を見ながら、いつもとは考えられないくらいの小さな声で、呟くように言葉を零した。その言葉に赤也は驚きで目を大きく開く。まさか、あの。

「それからだ。あいつは、諦めた顔をするようになった」
「……へぇ」
「だが、あいつはたまにテニス部の話をする時がある。二年の部長が楽しそうに、でも絶え間無い努力をしている、とな。その時だけ、どこか羨ましそうな顔をするんだ」
「それって、」
「……俺では力になれん事もある。頼みを聞いてくれないか」










赤也はとぼとぼと階段を上っていた。

一喜一憂とはこの事。負けた事実が無くなっていて嬉しくなった反面、あんなに大好きだった先輩達までもがいなくなり、気分は転覆。混乱した挙句に柳先輩には拒否され真田副部長には珍しく頭を下げられた。何もかもが自分の世界と違っている。

「(あ、)」
「なぁジャッカル、バイト終わったら打ちに行こうぜぃ!お前、バイトの為にテニス部入れなかったんだから、たまにはいいだろぃ?」
「わかったわかった、約束な」

いつものようにばたばたと階段を降りてきたのは、見慣れた赤と優しい笑顔だった。二人は自分に気付く事なく、容易くすれ違っていく。

「あっ、その後ジャッカルん家で飯食わせてくれよ!勿論、ジャッカルの奢り!」
「俺かよ…ったく、俺が作るんなら、タダでいいぜ」
「ま、しゃーねーな。今度おじさん達にケーキ作って持ってってやるよぃ」
「サンキュ、ブン太」

どんどん声は遠ざかっていき、果てには消えてしまった。ついこの前まではあの中に自分もいたのに、なんて、寂しくて寂しくて泣いてしまいそうになる。ぐず、と鼻を鳴らしながら止まっていた足を動かし、階段をまた上り始める。目的の場所まであと少しだ。赤也は少しだけ滲んだ視界を払拭するように腕で雑に目を擦った。

「そんなに擦ったら、目、赤くなるぜよ」
「う、わ、に、にお、せんぱ」
「なんじゃ、知っとるのか」

階段を上りきった途端に気怠そうな声が聞こえてきた。聞き覚えのある声に驚き、声の方を見てみれば、階段脇の壁にもたれかかるようにしゃがみ込んでいる仁王雅治の姿があった。本人は地毛だと最後まで自分を騙していた、綺麗な銀色がゆらゆらと動いている。傍らには使い古された鞄が無造作に置かれていた。勿論、ラケットバッグの姿は無い。赤也は無意識に溜息を吐いていた。

「悩めるのう、少年」
「はぁ」
「テニス部じゃろ、お前さん」
「えっ、知ってんすか?」
「どうかのう」
「はぁ?」

この人はどこに行ってもよくわからない所は変わらないらしい。赤也はまた溜息を吐いてこの場を去ろうとした。自分の知ってる先輩ではないのなら用はない。目的の場所まで行かなければ。だが、その足は仁王の待ったの一言で止まった。

「なんすか」
「やぎゅーがの、委員会で遅いんじゃ。暇つぶしに話さんか」
「はぁ?!俺にも用があるんすから、無茶言わないでくださいよ!」
「まあまあ、座りんしゃい」
「……はぁ…ちょっとっすよ」

言い出したら聞かないのは知っている。結構この人は頑固だ。諦めたように溜息を吐き、渋々といった表情で仁王の隣に座れば、何故か仁王はまじまじと此方を見つめてきた。

「お前さんは何でテニスしちょるのか聞いてもええか?」
「は?なんでって、楽し、い、から…」

本当に?最近、お前は、テニス、楽しんでた?

心の中で誰かが囁いたような気がした。誰が言った訳でも無いのに、どきりと大きく心臓が鼓動する。変に言葉を切り、黙り込んでしまった赤也に問う訳でもなく、仁王はじ、と赤也を見つめている。それが何故か責められてる気がして、赤也は俯いてしまった。

「なんじゃ?楽しくないんか?」
「い、いや、えーと」
「俺ものう、テニス部じゃった」
「え?」

一年も経たずに辞めたから、お前さんは知らんだろうがのう。仁王は眠くなってきたのか、うつらうつらとした表情でぼそぼそと話し始めた。それが何故か夢を見ているような感覚で、赤也もどこか現実ではない世界に迷い込んだかのように感じる。静寂の中に眠たげな声。少しだけ、頭の中が揺れた気がした。

「けど、楽しくなかったんじゃ」
「だから辞めたんすか?」
「ああ」
「テニス好きじゃないんすか…?」
「数学よりかは、好きじゃ」
「なんすかそれ」

呆れたように溜息をつけば、仁王はお得意の、喉の奥で鳴くようにくつくつと笑った。

「そうさな、とても好き、ちゅう事じゃ」

その言葉に瞠目すれば、仁王はまたうつらうつらと船を漕ぎ始めた。相当眠いのか、若干、むにゃむにゃ言っているように聞こえる。赤也は言葉が出てこなかった。あの、仁王先輩が、テニス、好き、と言ったのだ。いつも飄々としながら自分の本音を一切言わない仁王先輩が、だ。というか好きだったのか。前々から不思議ではあった。体育会系には全く見えない仁王先輩が何故テニス部にいるのか、聞いた事もありはするのだが、強豪のテニス部にいりゃ学歴に添えられるじゃろ〜なんて思ってもないような事を言われたのだっけ。赤也はふにゃ、と破顔した。なんだか、こそばゆかった。

「なんじゃ、そのアホ面」
「ひでえ…」
「仁王君!どこにいるのですか!私の眼鏡を持ち逃げしていますね!?」
「おっと」

いつの間に手にしていたのか、分厚いレンズの眼鏡をすちゃ、とかけた仁王は鞄を肩にひっかけ、気怠げに立ち上がった。

「やぎゅーさんな、俺に顔が似とるのが気に食わんらしい。からかうと面白いぜよ」
「へ、へぇ…」

じゃあの、とひらひらと手を振った仁王は声のする方…基下の階の方に降りていった。ぱたぱたと上履きを履き潰した時に出来る音が階段に響き、それに反応した柳生が駆け寄ってくる音も響いてきた。仁王君!また君は!プリ。コンタクトの方がテニスはし易いですが、学生生活では眼鏡が無ければ!ピヨ。仁王君!!なんて、いつもテニスコートで聞いていた会話が、階下で繰り広げられている。赤也はぼんやりとそれを聞きながら、段々と遠くなっていく喧騒にまた物悲しくなりながらも、目的の場に行く為に立ち上がった。










4階の、実習室が並ぶ階。
その階の、一番奥にその教室はある。

赤也は第二美術室と書かれたプレートのかかる教室のドアを開けた。ガラ、と放課後特有の静けさを塗り替えるようにその音は教室内に響く。その音に、窓際にぼんやりと座っていた人物は虚気に此方に目を向けた。

「幸村、部長」
「……テニス部部長さんは、可笑しな事を言うんだね」

ほんの少しだけ目を細めて笑った幸村は、教室の中心にある椅子に目線だけで座るよう促した。赤也は素直にそれに従う。

「俺、放課後に美術室来たの初めてッス。なんか……不気味ッスね」
「そうかな。俺は綺麗だと思っているんだけど……」

無意識のうちなのか、よくよくはわからないが、幸村は悲しそうに笑った。この静かな空間が幸村にとってはキレイらしい。赤也は何故かはわからないが、無意識のうちに眉を八の字に歪めた。

「ええと、君は確かテニス部部長の切原君だね。俺に何か用?」
「えっ、あ、その…」
「……そうだな、少し、俺の暇潰しに付き合ってくれないかな」
「えっ、あっ、も、勿論ッス!!」

赤也が言い淀んでいると、幸村は何を思ったのか、くすりと笑った。そのあまりにも自然で、いつも見ているような幸村の笑みに赤也は思わず少しだけ、無意識にいれていた肩の力を抜いた。それを見た幸村も、またくすりと、笑った。

「そうだな、君、絵は好きかい?」
「絵、っすか」
「そう、絵」

幸村は自分の側に立てかけていたキャンパスをそっと撫でた。まるで愛しいものでも触るような手付きだ。何か描いてあるのだろうかと赤也はキャンパスに目を向けるが、そこには鮮やかで澄んだ青で一閃、引かれているだけだ。

「絵は……俺にはよくわかんねぇ」
「ふふ……だと思ってた」

幸村はキャンパス上の青をなぞりながら、また笑った。

「絵はね、俺の世界そのものなんだよ」
「世界?」
「そう、世界」

幸村はまた笑みを浮かべると、ぐるりと美術室内を目線だけで見渡した。赤也は何故か、そんな幸村から目を離せずに眉間に力を入れてしまう。

「ひとつひとつ、自分の綺麗な世界を描きあげて、飾って、それを繰り返して、……この教室をぐるりと自分の世界で埋め尽くして。とても鮮やかで、どこまでも無限に広がる世界だと思わないかい?しかも、何年も、下手すれば何百年も残って歴史を鮮明に残していける。俺の世界なんだ」

赤也は幸村に倣い、教室を見回した。
まず目に入ったのは緑。どこまでも深い森林に日が射し、とても暖かな絵。隣。海の絵だった。まるで南国の海のような、白い砂浜に淡い青が重ねられたそれはとても光り輝いているように見える。隣は花の絵だった。花に疎い赤也には何の花かまではわからなかったが、それはどこか幸村に似ているような、儚げな印象を受けた。あれも、これも、どれも、とても、綺麗に描かれたものだった。

ただ、ただ。

「……アンタは、行った事あんのかよ」
「……なんだって?」

赤也は瞑目した。楽しかった。あの日々は、とても、とても、楽しかったのだ。

「……柳先輩の別荘はさ、なんか、自然ー!って感じで、俺写真しか見てないんすけど、先輩らめっちゃ楽しそうだった。俺も行きたかったっつったら、柳先輩じゃなくてなんでか丸井先輩に連れてってやるよって言われるんすけど、その後にジャッカルが!俺かよ!ってさ、いつものアレをやるんすよ。んで、夏はさ、……こんなキレイな海じゃなくて、湘南の、海なんだけど、でも、仁王先輩が、大事なのは心じゃとか、意味わかんねーこと言って、でも、そしたら柳生先輩が、何を勘違いしたんすかね、仁王くんがまともな事を〜って感動しちゃってさ、まじ紳士っすよね。……そんでさ、花、花も、アンタが、好きで、」
「ねえ」

赤也はびくりと肩を揺らした。夢中になっていたらしい。幸村はジッと赤也を見据えていた。

「君は何の話をしているのかな」
「……幸村、部長の話っす」

幸村は赤也の言葉に呆れたように息を吐いた。自分の知る幸村よりも遥かに冷たいそれに赤也は自然と目頭が熱くなる。

「俺は君を知らないし、テニス部の部長でもない。テニスをやってもいないし今後もやろうとは思わない。君の話を聞く限りでは、三年生がテニス部にいるような口ぶりだけど、確かテニス部は二年だけだよね?夢物語はよしてくれないかな」

夢物語。その言葉に赤也は頭の中が真っ白になった。どんどん侵食する白の曇りは視界の端から徐々に広がっていく。じわり、じわりと、幸村を隠すように。その中心にいる幸村の顔は、心底不快だと、不愉快だと、煩わしいと、癪だと、鬱陶しいと、腹に据えかねると、納得できないと、……まるで小さな小箱に大量の宝石を詰め込んだ、美的感覚から逸脱したものを手にしたような、そんな、顔。

「……なんで、泣くの?」
「え、あ、」

白い曇りは、涙に変わっていた。
ぽたり、ぽたり、制服のシャツに、靴に、床に、雫を垂らしていく。幸村は訳がわからないという風に表情を曇らせた。

「……ねえ、君は、」
「おーい!すまねえ!遅れた!」

幸村が口を開いた瞬間、それは響いた。
美術室の窓の向こう。そこから、紛れもなく赤也自身の声が響いたのだ。幸村は驚きに瞠目し、すぐに背後の窓から身を乗り出した。そこには紛れもなく、切原赤也がユニフォーム姿で、チームメイトと笑っていた。唖然とそれを見下ろす幸村に、未だ涙を零す赤也は口を開いた。

「なぁ、本当は、アンタら、テニス、したいんじゃねえの」
「なっ、」

幸村は窓の外のテニスコートから、"赤也"のいる教室の中心にある椅子を見やった。だがそこにはぽつんと椅子があるのみで、まるで最初からそこには誰もいなかったかのように、静かに鎮座している。椅子が鎮座している、というのも可笑しな話だが、それが一番ぴったりな表現だ。幸村はぱちくりと瞬きをした。

「ハァ!?俺が辞める!?誰だよそんな事言ったの!……新田?テメッ、俺が辞める訳ないだろ?折角最後だけコート貸してもらったんだしよ、早くテニスしようぜ!」

窓の向こうから聞こえる声に幸村は、ふ、と息を吐き出すように笑った。毎日毎日、飽きもせず、弱小にも関わらずテニスをする彼ら。そして、先程その"どこから来たのかわからない切原赤也"が話した、夢物語。

「……久しぶりに、真田でも誘って、テニス、するかな」

あの夢物語が現実になるのなら、悪い事でもないのかもしれない。

幸村は青く一閃されたキャンパスを横目に、美術室から一歩、踏み出した。












「……起きたか、赤也」
「柳、先輩」

赤也は気怠げに身体を起こした。
ここは学校のテニス部専用のバスの中らしい。一番後ろの座席に赤也は眠らされていた。よくよく見渡すと、レギュラー陣全員が此方を見ていた。みんな、紛れもなく立海テニス部のユニフォームを着ている。

「急に倒れたから心配したんだぞ。疲労が溜まっていたんだろう。立海に着くまでまだかかる。寝ていろ」
「あの、」

赤也はまた涙が出ているのを感じた。頬が一筋分、熱い。

「……怖い夢でも見たか?」
「赤也はお子ちゃまだからな〜」
「あの!」

丸井がからかった所で、赤也は声を張り上げた。

「先輩らは、テニス、止めないッスよね!?」

その問いに、数秒の沈黙の中一番に笑ったのは幸村だった。その次に、柳、丸井と続き、真田が帽子のつばを下げた。仁王は口角を上げ、柳生は微笑みながら溜息を吐き出した。ジャッカルが笑いながら口を開く。

「なんで止めるんだよ、赤也」
「そうだぜぃ。こんな楽しいのによ。いや〜でもやっぱり悔しかったよな〜。次は勝てよな、赤也」
「え、いや、俺、負けてない、」
「プリ」
「仁王くん、あなたもですよ」
「ピヨ」
「ふん。全く、たるんどる」
「弦一郎、先程赤也を心配しすぎて俵担ぎで走り出した動画がここに」
「なっ!」
「あ、それ俺にもちゃんと送ってよ、柳。まるでお父さんで笑っちゃった」
「幸村!柳!やめんか!」

ぎゃあぎゃあわいわい。赤也はその光景に、いよいよしゃくりあげてしまった。それに騒いでいたレギュラー陣全員が赤也に目をやる。

「赤也、さっき俺聞いちゃったんだよ。アンタ達と会わなきゃってやつ」

幸村の言葉に、赤也はしゃくりあげながらぴくりと肩を揺らした。言った。言い切ってはなかったが、確かに言った。赤也は罰が悪くなり、どんどん俯いてしまった。涙がぱたぱたと太ももを濡らす。

「どういう気持ちで赤也がそう言ったのかはわからない。ただ俺はね、赤也。凄く感謝してる。真田がいて、柳がいて、丸井がいてジャッカルがいて、仁王がいて、柳生がいて、そして、赤也がいて。だって、みんながいなかったら、俺はここにはいない。こんなに笑ってもいなかったかもね。だから俺は、出会えた事、ここまで来た事に後悔はない」

赤也は思わず美術室で会った幸村を思い出した。それを心配していた真田に、テニスに悔いを残していた柳。皆が皆、何か物足りないとでも言うような世界だった事を思い出す。そろそろと顔を上げれば、幸村は、朗らかに笑っていた。ぽろりと、また涙が一粒落ちる。

「幸村部長、これは、夢物語っすか?」

思わず口をついて出た言葉。幸村は驚いたのか、少し瞠目している。だが、すぐにまた笑った。

「馬鹿だなぁ、赤也は。これが夢物語だったらたまったものじゃない。負けちゃったけどね。それとも夢の方がよかった?」

赤也は、此方を見つめる先輩の顔を見渡し、目をごしごしと擦った。返事は決まっている。赤也は満面の笑みを浮かべると、言葉を紡ぐべく口を開いた。




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