「あ〜あ……うちが高層階にあったらな……」

 大げさなくらい悲愴な声で呟くと、お母さんに肘で軽く小突かれた。全然痛くないけど、うちのお母さんはすぐに手が出る。フィジカルツッコミ派なのだ。
 エレベーターが混むたびわたしが毎度このセリフを言うので、ぎろりと横目で睨みつけながら、お母さんの口元も少し笑っている。ため息を吐いてお母さんに寄りかかると、「汗臭いからひっつかないで」と小声であしらわれた。腕に引っ掛けたビニール袋のヒモがぎち、と食い込む。買い出しの手伝いしてあげたのに、お母さんは冷たい。

 ポーン。エレベーターの到着を報せる通知音とランプが灯るやいなや、前に並ぶ人たちがぞろぞろと開かれたドアの中に吸い込まれていく。わたしとお母さんの前に5人くらい人を残して列の流れは止まった。

 朝の7時半頃から8時過ぎまで、それから、今くらいの夕方6時から7時あたりまではいつもこうだ。通学通勤、幼稚園の送迎など、人の出入りが多い時間帯はどうしてもエレベーターホールが混雑する。うちのマンションは高層階、低層階ごとにエレベーターが別れていて、それに加えて全階停止のエレベーター(わたしは各駅停車と呼んでいる)が3つある。階層別エレベーターの内訳はというと、高層階用のエレベーターが3つに対して、低層階用は2つしかない。

 おわかりいただけただろうか。

 明らかに高層階の方が優遇されている。エレベーターホールから上がっていくときならまだしも、マンションの外に出ようとしたとき、上から乗ってくる高層階の住民の方が圧倒的にエレベーターに乗車しやすいのだ。小学生くらいの頃はラッシュを避けるために早起きをせねばならず、不公平だと散々両親に文句を言った。中学生になってマンションの階ごとの販売価格の差を知り、衝撃を受けた。マネーイズパワー。格差社会。覚えたばかりの難しい言葉を使いたがるわたしをお母さんはデコピンで黙らせた。

 大学生になった今となってはもうこの混雑も慣れたものだ。ポーン。通知音とともに、今度ランプが灯ったのは各駅停車のエレベーターだった。中から小さな子どもと手を繋いだ主婦らしき女の人と、その後ろから学ランをまとった男の子が1人出てくる。どこかふわふわした足取りで、制服を着ていなければ酔っ払っているのかと思うような様子だ。なんとなくその子を見ていると、こちらの視線に気づいたのか、不意にその子がこちらに顔を向けた。目線がかち合った直後、こちらにタタッと近寄ってくる。思わずお母さんの方にそっと体を寄せると、トン、と肩を叩かれた。

「おねえちゃん、久しぶり」
「……は、え?」

 親しげにかけられた声に、小さく首をかしげる。近くでみると思ったより背が高く、にこにこ愛想よく笑う顔と反して、髪は黒に金メッシュ、耳元では鈴みたいな形のピアスが揺れていた。学ランを着ているからには歳下だろうことは間違いないが、『いかにも』な風体に気圧されてしまう。黙ったままのわたしに、男の子は眉を下げ、「え〜もしかして忘れちゃったの?」と、わざとらしく拗ねたような声を出した。なんのことか全く頭が回らないわたしをよそに、男の子が叩いたのと逆の方の肩をお母さんに思い切り引っ叩かれる。男の子のそれと違い、お母さんの一撃は普通に痛かった。文句の1つでも言ってやろうとした瞬間、お母さんが興奮気味に口を開いた。

「ヤダ、カズくんじゃない!」
「えっ」
「ママさん久しぶり〜」
「えっ」

 ひらひら手を振る男の子の倍くらい激しくお母さんが手を振り返している。年甲斐もなくピョンピョン小さく跳ねるから、さっきスーパーで買った特売の卵やら冷凍食品やら野菜やらがガサガサと音を立てている。お気に入りのフィギュアスケーターのエキシビジョンチケットが当たった時と同じくらいはしゃいでいるお母さんから、もう一度男の子に目をやる。

「おねえちゃん、髪、染めたんだね」
「あ……うん。だいぶ前です、ケド」
「似合うじゃん」

 手を振るのをやめ、首筋にかかっていた髪の毛をさっと払う。詰め襟と、長いえりあしとで隠れていた首筋にタトゥーが走っているのが見え、わたしはそこでようやくはっとした。

「……ワ!ほ、ホントだ!カズくんだ!」
「デカい声出さないの!!」

 わたしの倍デカい声を出したお母さんにどつかれた。カズくんは「気づくのおせぇー」とケラケラ笑った。





 カズくんは、うちと違って1番上から数えて5つ目の高層階に住む羽宮さんちのひとり息子だ。いつも口元に笑みを浮かべていて、小さな頃はマンションの住民会のアイドルだった。羽宮さんちは住民会の集いに頻繁に顔を出すわけではなかったけど、年に1、2回、バーベキューや子どもたちのためのお楽しみ会に参加していた。頭が良くて愛想のいいカズくんはおばさま軍団に囲まれて、将来はジャニーズかジュノンか、なんて毎度ワーワー騒ぎ立てられるものだから、カズくんママはいつも困ったように笑っていた。

 カズくん自身も誰かから話しかけられれば応えるものの、すすんで同年代の子どもたちとの遊びに混ざろうとせず、マンション住民の子どもたちの中ではお姉さん組だったわたしがよく声をかけに行っていた。美少年好きのうちのお母さんに小突かれたからというのが最初のきっかけだが、人見知りの気のあるカズくんが懐いてくれたのが嬉しかったということが大きい。気位の高い綺麗な猫に懐かれた、みたいな。

 小学生の頃。マンションの外で低学年の子たちがキックボードやらローラーブレードに乗って遊んでいる中、ベンチで友達たちとゲームをやっていると、カズくんが帰ってきたのが見えた。1人エントランスに向かうカズくんに大声で「おかえりー!」と叫ぶと、パッと顔を上げて、カズくんは立ち止まった。黒いランドセルにてかてか夕陽が反射しているのがなんとなくさみしげに見えて、思わず手招きすると、カズくんは少しためらった後こちらへやって来た。わたしの友達たちに小さく会釈をした姿がなんとも大人びて見えて、可愛らしい外見とお行儀のいい仕草とに友達はみんな目尻を下げた。わたしの隣にぴったり座って手元を覗き込んでくるのがかわいくて、カズくんを見かけるたび一緒にゲームしようと誘った。
 わたしの影響でかカズくんも大層ゲームを気に入り、カズくんママと約束した通知表の点を取ったカズくんは、ご褒美にわたしとおそろいのゲーム機とカセットを買ってもらっていた。その頃には、わたしは全クリしてそのカセットで遊ばなくなってしまったのだが、それに気づいたカズくんは、珍しくむくれて1週間くらい口を聞いてくれなかった。カズくんの学年が上がるごとに通じなくなった手ではあるが、この時はパピコはんぶんこで仲直りした。

 白い肌に、小さくてほっそりとした体。汗をかくたびサラサラの黒髪から、石鹸みたいな、赤ちゃんみたいに少ししめったにおいがして、わたしを見上げる瞳の大きさといったら、小さなお顔からこぼれてしまいそうなほど。お人形さんみたいにかわいいカズくんが、わたしといる時は年相応にわがままを言ってむくれたり、後ろをついてはわたしの服の裾を引っ張って甘えたりするのに得意になっていた。羽宮さんちと同じくうちもひとりっ子で、カズくんが「おねえちゃん」ってわたしを呼ぶから、弟ができたみたいで。

 そんな自慢の『弟』は、小学校から中学校に上がるくらいのタイミングで、突如ハードな風貌に様変わりした。
 サラサラの黒髪はグリングリンのパンチパーマに、細く長い首筋には虎模様のタトゥーが這い、プレッピースタイルから一変、『カッコイイ』英語やプリントにビッチリ彩られたダボダボの服、もしくはテラテラした開襟シャツに身を包むようになったのだ。

 カズくんが激変した理由について、お隣の山下さんなんかはうちのお母さんに「ついに芸能界デビューして、今は役作りのタイミングなのでは」と推理を披露していた。さらに名探偵気取りの山下さんは、ゴミ出しの時にカズくんママに直接詰め寄ったらしい。山下さんの猛攻に対して、カズくんママがまたいつも通りただ困ったように笑うから、おばさま軍団の中では『カズくん芸能界デビュー説』は確固たるものとして囁かれていた。

 山下さんの推理はその日の夕飯でお母さんから我が家に共有された。あのカズくんがパンチパーマってなんの冗談だよ、見間違いでしょ、とわたしもお父さんも笑った。

 しかし翌日、バイトの上がりの時間に『カッコイイ』バイクでカズくんが迎えに来てくれたことで、わたしは正しく現実を理解した。実際はなんのひねりもなく若さゆえのハシャぎすぎ、有り体に言えばグレちゃっただけなのだということを。だから、おばさま軍団の『カズくん芸能界デビュー説』が事実とは異なることを、わたしはかなり早い段階で知っていた。

 あえて真実を言い回るような真似をしなかったのは、激変したのは見た目だけで、カズくん自身の中身はあんまり変わってなかったから。
 なにより、あのカズくんが、同年代の『友達』とこんなことした、あんなことしたって楽しそうに話すからだ。わたしにくっついているか、家でひとりゲームをやっているかだった、あのカズくんが。
 無免許でバイクに乗ったり、夜中友達と遊び回るのは間違いなく良くないことだ。それでも、やめなよ!とか強めに注意したり、羽宮さんちにお宅の息子さんは云々とか密告するようなことはしようと思わなかった。
 まあ、わたしがまだ子どもで、倫理観がふにゃふにゃだったせいもあるかもしれないけど。

 ちなみに、カズくんが『カッコイイ』バイクで迎えに来てくれたバイトは即日クビになった。それから、何度も誘われたけど、カズくんのバイクの後ろに乗ったことはない。カズくんがバイクに乗ることを止めないなら、わたし自身乗ろうが乗るまいが結局は同罪だと思うけど。
 わたしがあんまり断るので、カズくんもわたしといる時はバイクを押して横を歩いてくれるようになった。

 そういう背景があってかは知らないが、カズくんは中1の頃、カナダに留学に行くことになった。突然のことで理由はわからない。留学に行くということを知ったのはカズくんが日本を発ってからで、ついちょっと前にコンビニで買った肉まんを一緒に食べたのに、カズくんからそんな話は1つも出なかった。
 高校の時、1個上の先輩が退学処分になって、そのままオーストラリアに留学することになったと聞いたから、もしかしてそういうやつかな、とぼんやり思った。ケータイのメルアドと番号しか知らないから連絡するすべもなくて、次に会えるのがいつかもわからない。カズくんが日本を去ったということを聞いた日はさみしくて、ちょっと泣いた。

 だって、グリングリンのパンチパーマで、首に虎がいて、『カッコイイ』バイク乗ってる、留学のことを教えてくれない薄情者でも、カズくんはわたしのかわいい『弟』に変わりないのだ。





「帰って来たなら連絡して欲しかったよ。いつ帰って来たの?」

 そんなカズくんが、またわたしの目の前に現れた。留学に行くのも帰ってくるのも突然で、全然心の準備ができていない。呆けたような気持ち半分、薄情者めと恨みを込めた気持ち半分で、ベンチの隣に座るカズくんを見つめる。大きくなってもカズくんがわたしにぴったりくっついて座るのは変わらず、学ラン越しにカズくんの体温が伝わってくる。
 暦上は10月なのに、今日は結構暑い。わたしたちの手には箱アイスのチョコミントバーがある。さっきお母さんとスーパーで買ったやつ。箱の中から2本だけ抜いて持って来たのだ。───カズくんと会うまでは、重い、重いってわたしにスーパーの袋を持たせてたくせに、お母さんはわたしたちにアイスを渡すと、「ごゆっくり〜」とか言いながら、両手に袋を持って嬉々としてエレベーターに乗り込んだ。

「あ〜。ホント一昨日とかだよ。ゴメンね、連絡できなくて。ケータイ最近契約再開したからさ。んで、ついでに機種変した。見る?新しいヤツ」

 機嫌良さげにわたしの顔を覗き込むカズくんの二の腕をたしなめるように肩で押す。

「新しいヤツの話は後でいいよ。普通さ、留学行くなら日本出る前にちゃんと話すでしょ。帰って来たよ〜の連絡は、一昨日とかなら、バタバタしててできなかったのかもしんないけど」

 不満を隠さず言うと、カズくんはキョトンとした顔をした後、ギャハハ、と大きな声で笑い出した。遠くで犬の散歩をしている人がこっちを向いたのがわかる。

「な、なに、そんな笑うような話?」
「留学って、ホントにみんな信じてるんだ?アハハ、母さんが必死こいて言って回ったんだろうな」
「え?」
「カナダだっけ?オレが留学行ってたの」
「カナダ……でしょ?」
「ちげーよ。オレ全然日本いたし」
「えっ、でも、カズくんが送って来たって、カナダのチョコとか、前カズくんママが配ってたけど」
「ウワ、ダセエ小細工こいてんなあ。オレはねえ、おねえちゃん。ネンショー行ってたんだよ」
「え、ええ〜!」

 思わずまたデカい声が出る。カズくんはわたしを一瞥して、アイスバーを齧った。もぐもぐ咀嚼しながら、カズくんは言葉を続ける。足元の砂利をスニーカーの裏で転がすカズくんの横顔は、髪の毛で隠れてどんな表情をしているのか見えない。

「ダチの誕生日プレゼントにさあ、バイクやろうと思って。店入ったんだよね。場地と二人で」
「ん。あの、それさ……」
「ウン、中坊だし金ないし当たり前に盗みに入ったんだけど」
「オオ……」
「誰か来たから、ヤベ〜と思ってボルトカッターでぶん殴ろうとしたら、そのヒト、そのダチの兄貴で」
「ボ……え、場地くんの?その、た、誕生日の?」
「誕生日のほう。てか、あー、マイキーわかる?」
「話聞いてたの覚えてるよ」
「そう、マイキー。マイキーの兄貴ね。オレ、気づいてなかったんだけど、横から場地にはっ倒されてさ」

 その後なぜ邪魔するのかと場地くんとカズくんとで殴り合いになり、結局止めに入ってくれたマイキーくんのお兄さんがとばっちりを受けたらしい。揉み合いになっている間に入ろうとして目元に拳が入り、転倒したとか。打ちどころが悪く微動だにしないその人にすがりつき、場地くんが大泣きしながらマイキーくんのお兄さんだということを説明してくれたのだという。
 マイキーくんのお兄さんは通報後に店内の様子を見に来ていたため、警察が到着したころには、荒れた店内の中で倒れ伏しているマイキーくんのお兄さん、大泣きしている場地くん、茫然自失で突っ立っているカズくんという地獄の様相だったそうだ。
 幸いなことにマイキーくんのお兄さんは意識を取り戻し、現在は後遺症もないらしいが、度重なる補導や常習的な無免許運転がバレ、更にはカズくんパパの意思もあり少年院に入ることになったらしい。

 留学に行っていると思っていたカズくん。蓋を開けてみたら事実は全然違った。

「だから事前になんも言えなくてゴメンね」
「いや……ウン、それは、まあ、あの、仕方ないよね」

 浴びせられた怒涛の情報群を処理しきれない。もごもごと言葉を返すと、カズくんは覗き込むようにわたしの顔を見た。

「さみしかった?」

 笑ってはいるものの、大きな目の奥に浮かぶ色は曖昧に揺れていて、わたしの表情をじっとうかがっているのがわかる。いたずらがバレた後みたいな顔だった。甘やかしてほしいようにも、叱ってほしいようにも見える。

「……さみしかった、けど、コメントに困る。正直」
「アハハ。そりゃそーだよな」
「悪いこと、あんまりしないで。あぶないから」

 歯切れ悪くカズくんに言うと、少しだけ目を見開いた後、カズくんは笑みを深めて下を向いた。それからまた、チョコミントアイスが垂れた砂利を隠すように蹴り始める。わたしはカズくんのスニーカーの紐を見ながら、アイスの木の棒を歯で挟んで、てこみたいにして折った。思ったより派手な音が出て、カズくんが「そのクセ変わんないね」とこちらに目線を寄越す。咎めるような口調にわざとらしくムッとした顔をして見せると、「口の中切っちゃうかも。あぶないよ」と続けられた。

 バイクで走り回ったり、泥棒に入ったりするより、全然あぶなくないよ。

 そう思ったけど、言わなかった。





「今日なんかやたらぼーっとしてなかった?」

 うちのバイト先の更衣スペースは、カーテンで仕切られただけのものすごく簡易的なものだ。駅近の雑居ビルの中に入っていて、店舗面積自体も狭めだから仕方ないのかもしれないけど。
 男の子とかぶっている時は化粧直しとかの時間を鑑みて、大抵女の子を先に更衣スペースに入れてくれる。いつも通り先に着替えを終え、椅子に座って化粧ポーチを開いた時だった。

「ん〜そうかも。ゴメン」
「や、別に皿割ったりとかしてないし、そこはいーんだけど」

 鏡を開き、下まぶたについたマスカラのゴミを指でとる。鼻の頭がテカテカになってたから、あぶらとり紙を当てた。
 同僚から飛んで来た指摘はごもっともで、昨日、カズくんと話してからぼーっとしてしまう瞬間がある。
 カズくんとまた会えたのは素直に嬉しいけど、『おねえちゃん』として、どう接するべきか考えあぐねているのだ。
 今までは、元気が有り余ってちょっとやんちゃするくらい、中学生だし、そういうお年頃かなと思ってたけど、きちんとお説教すべきなのかな、とか。家族でもないわたしが、出しゃばるのは違うかな、とか。でも、だったらへらへら横に並んでアイス食べたりしてるのって、『おねえちゃん』のくせに、無責任なんじゃないかな、とか。

 おでこにあぶらとり紙を当てて考えていると、シャッとカーテンが音を立てた。同僚が更衣スペースから出たのとほぼ同じタイミングで、バックのドアが開いた。
 顔を出したのは、さっきまで店内で飲んでいた先輩二人組だった。うっすら顔が赤くなっているものの、足取りはしっかりしている。大学生御用達のチェーンの居酒屋で、社割がきくこともあり、先輩たち以外にもバイトが飲みに来るのは珍しいことじゃない。わたしも結構お世話になっている。この先輩たちは中でも利用度の高い筆頭で、二人とも同じダンスサークルに所属しているためか、よく連れ立って店に遊びに来る。

「あ、お疲れ様です」
「お前らこそおつかれ。俺ら今日働いてねーし」

 さっき飲みついでにシフトを出しに来たと言っていた通り、二人はシフト表をボックスの中に入れた。他の店舗はメールでやり取りをするところもあるらしいが、店長がアナログ人間のため、うちはずっとこの紙の表制度を取っている。

「二人ともハイボール飲みすぎですよ。注文2桁いってましたよね?」

 同僚が言うと、先輩は「メッチャ濃くて引いた。早く帰れオーラヤバかったんだけど」とわたしを小突いたので、「サービスですって」と返した。わたしホールだから、そもそもお酒作ってないけど。

「コイツなんか今日ヘコんでるっぽいんで優しくしてやってくださいよ」
「いや、別にヘコんではない」
「え〜どうしたよ、カレシにフラれた?」
「いや、フラれたもなにも、いないですよ彼氏。知ってるじゃん」
「お前モテないもんな」
「でもコイツ、今日リーマンにメアド渡されてたんスよ」
「初老男性ね。それ今出されると逆に切ないからやめて」
「マジかよ。玉の輿?」
「返しテキトー過ぎ」

 使い終わったあぶらとり紙を丸めて投げると、先輩がそれをはたいて、隣の別の先輩に当たった。

 バックで無駄話をしている間に結構な時間が経って、ならもうどこか飲みに行くかという流れになった。わたしも同僚も早番だったので、まだ開いている店も多い。先輩たちと連れ立って雑居ビルの裏口を出ると、向かいにある有料の時間制の駐車場の前、自販機の横に、ものすごく見覚えのあるバイクが停まっていた。
 レーサーの人が乗ってるみたいな、いかつい、でもシートの後ろが跳ね上がった、明らかにそれとは違うような、ド派手なバイク。
 その前でいかにもなヤンキー座りをしている人影も、また特徴だらけで見間違いようがない。
 わたしたちの気配に気づいてか、もしくは同僚のしょうもない下ネタにゲラゲラ笑った先輩の無駄にデカい声に反応したのか、ケータイから顔を上げたカズくんとバッチリ目があった。

「オイ、お前そんなジロジロ見んなって」

 ふざけてわたしの肩に腕を回していた先輩に、耳元で囁くように注意をされる。同僚にも服の袖を引っ張られたが、わたしは立ち止まったままカズくんがこちらに向かって来るのを見ていた。車線を横切り、カズくんはニッコリ笑いながら、「おつかれ〜」と明るい声で言った。

「今日遅いって聞いたから、迎えに来たよ」
「いや、今日のシフトはどっちかっていうと早いよ」
「ふーん。女のコがこんな夜まで働いてちゃダメじゃん」
「居酒屋時給いいんだもん」

 他3人をまるで無視して、カズくんはわたしだけに話しかける。迎えに来ることはおろか、カズくんがわたしのバイト先を知っていることすらわたしは知らなかった。先輩たちの様子をちら、と伺うと、戸惑ったようにわたしを見ていた。カズくんに気圧されているんだろうなと思う。わたしだって、カズくんじゃない『こういう人』が夜道でいきなり接近して来たとしたら、正直怖い。
 笑顔を作って、「幼馴染なんです」と言えば、みんな、「あ〜」と若干ぎこちない相槌と愛想笑いとを浮かべる。

「ドーモ。おねえちゃんがお世話になってるみたいで」

 先輩たちに小さく会釈をしながら笑顔を向けるカズくんは、まるでわたしよりカズくんの方が歳上みたいな口ぶりだった。人あたりのいい雰囲気にすっかり肩の力が抜けたのか、先輩たちは、いやいや、とか、こちらこそ!とか、口々に調子よく反応を返す。

「つか、アレっすね、めちゃくちゃイケメンじゃん」
「おねえちゃんって、コイツのが歳上なんスか?」

 お酒が入って気が大きくなっていることもあるのか、先輩たちはカズくんに絡み始めた。さっきまで縮こまっていたのに、カズくんの懐柔スキルのキレは相変わらずだ。諌めるように先輩の腕を軽く叩くも、一切反応なし。カズくんの方を見てへらへら笑うばかりで、わたしの訴えは無視された。小さいころから、いつもわたしの友達や知り合いはカズくんの味方になってしまう。

「……あ〜カズくん、ごめんね。でもこれからわたしたちご飯行くから」
「ヤダ」
「え?ヤダって言われても」
「せっかく迎えに来たんだから帰ろうよ」

 遠慮がちに断りを述べると、カズくんはすっぱりと否定の言葉を口にした。わざとらしくむくれて見せる顔はいかにもあざといが、顔が整っているだけに様になっているのがずるい。口ごもるわたしの頭の上から、「あ、じゃあお兄さんも一緒に飲みいっちゃいます?」と、また調子のいい発言が飛んで来た。

「ちょっと、何言ってるんですか……」
「いーじゃん!逆になんでダメなんだよ」

 肩に回された腕にぐっと力を入れて揺らされる。腕の揺れるリズムに合わせてのどが圧されて、パシパシと軽く腕を叩いた。

「お兄さんかぁ。アハハ、そんなことしたらお兄さんこそ怒られちゃうよ。オレ、未成年だし」
「え」
「バイク乗ってるから上だと思った?オレ、中坊だよ。酒飲んだことないけど、酔ったらテンション上がってヤンチャしちゃうかも。そしたらさァ、お兄さん相手してくれる?オレ、ネンショー帰りだし、あんま加減きくタイプじゃないけど。それでもいい?」

 先輩の腕の力がふっと弱まり、さっきまでの盛り上がりが嘘のように静かになる。
 薄い笑みを浮かべながら、カズくんは先輩を見つめていた。睨んでる、まではいかないけど、試すような、半分バカにしたような、すごく嫌な目だ。明らかに挑発するような態度に、先輩たちは言葉を失っていた。わたしも同じくポカンと開いた口が塞がらない。だって、カズくんの発言はあまりにも物騒だし、そんでもってたまらなくダサい。
 力の抜けた先輩の腕を退けて、わたしは一歩カズくんに近寄った。

「カズくん、帰るよ」

 そう言うなり、カズくんの視線がパッとわたしを捉える。さっきまでとは一転して、わたしを見るカズくんの目は街灯の光を反射して、きらきらと輝いていた。先輩に代わってわたしの肩を抱こうとしたカズくんの腕をいなし、先輩たちに向き直って謝罪を述べる。みんな曖昧な笑みを浮かべて、気にすんなよ〜、とか、またな〜、とかなんとか言いながらその場を去っていった。
 角を曲がってみんなの背中が見えなくなったところで、カズくんを見上げる。少し唇を突き出して、「なんでアイツが肩組むのは良くて、オレの腕は退けんの?」と的外れな不満を投げてきた。

「別に良いも悪いもないけど」
「でもぺってしたじゃん、さっき」
「まあ、それはね。でも、アレ、今から3時間説教するから」
「えっ、なんで?」

 心底わからないといった顔で目を見開くカズくん。なんでって、どこから突っ込めばいいのかわからない。ため息を吐くと、カズくんは首をかしげた。

「『中坊』なのに、こんな夜中にいきなり人のバイト先来て。心配してくれるのは嬉しいけど。さっきの。あんな脅すみたいな言い方ないでしょ」
「だって舐められてんなと思ったからさ」
「舐めるとか舐めないとか、そういう話じゃないって……ていうか、少年院の話、そんな自慢みたいに話していいの?マイキーくんの、友達のお兄ちゃんにすごい迷惑かけたんでしょ」

 そう言うと、カズくんは傾けていた首をまっすぐに戻し、視線を地面に落とした。

「……確かにダセーけど」
「わかってるなら言わないで。あとで思い出して、夜寝ようとしてさ、ワーッて羞恥心に苦しむ日来るよ。絶対」

  小さな声で呟いたカズくんに、わたしも味わったことのある黒歴史の後悔の恐ろしさについて説いた。カズくんはうつむいたまま、目だけでわたしを窺うように見る。

「じゃあ、帰ろうか」
「……ウン。あのさ、オレ、メット用意したよ。おねえちゃん、いっつも後ろ乗ってくんねーから」
「ヘルメットがあるかどうかじゃなくて……」

 少年院自慢のダサさは理解してくれたみたいだけど、この点についてはまだ説明が必要らしい。心配して迎えに来てくれた気持ちは嬉しいけど、ヘルメットがあるからといってカズくんのバイクに乗れるかといえばそれは全く別の話だ。どこからどう話したものかと考えていると、おもむろにカズくんがしゃがみこんだ。ヤンキー座り、似合うな〜と思いながら、わたしもカズくんの隣にしゃがんだ。

「おねえちゃん、どんどんオトナになっちゃうんだね」

 カズくんは前を向いていて、わたしはカズくんの耳たぶにぶら下がった鈴のピアスを見ていた。

「オレがなんも言わなくても、他のコは後ろに乗せて〜っておねだりしてくんのに」
「あ〜。ハハ、カズくんイケメンだもんね。モテそう」

 わたしの相槌にカズくんはちら、と一瞬だけ目線をこっちにやって「ホントに思ってんのかよ」と鼻で笑った。

「オレがどんだけカッコつけても、おねえちゃんにはイキってるガキにしか見えねーんだろ」
「いや、イケメンなのはシンプルに事実だし、モテそうっていうのもホントの感想だよ」

 明らかに気を悪くしている様子のカズくんにそう言うと、「感想かぁ」と笑い混じりで返された。

「例えばだけどさ、オレがおねえちゃんより歳上で、ん〜、普通のリーマンとかでさ、そこそこの車で迎えに来てたら、おねえちゃんはな〜んもためらいなく助手席乗ってくれた?」
「『中坊』じゃなくて、免許持ってるサラリーマンのカズくんってこと?」
「ウン、そー。サラリーマンのカズくん」
「だったら、乗せてもらったと思うよ。合法だし」

 カズくんはアハハ、と笑って、そのあと長めに息を吐いた。

「ちっせえ頃のゲーム覚えてる?オレもおねえちゃんと一緒に遊びたくてさ、おんなじカセット買ってもらったのに、そん時もうおねえちゃんは雑誌とか読み始めて。なんだっけ、あれ。名前忘れたけど。なんかその雑誌のモデルのイベントとかもいってたよね。結局、カセットどころか、ゲーム機もほとんど使わなくなっちゃってさ」
「覚えてるよ。あれは、ゴメン。まさかカズくんもおんなじやつ買ってもらうとは思ってなくて」
「おねえちゃん、あん時一生懸命オレの機嫌とってくれたもんね」
「そうだったっけ」
「そうだったよ。オレ、バカみてーに後ついて回って、それでも全然、いっつもおせーっていうか、これならって思っても、おねえちゃん困らせるだけで」

 とぼけて返したわたしを、カズくんはじっと見つめる。こちらを覗き込むように首をひねったカズくんの耳元で、鈴がチリン、と鳴った。

「ねえ。おねえちゃん、オレ、どーしていいかわかんない」
「なにが?」
「オレ、そんな頭悪くねーつもりだけどさ。間違えてばっかだから、もう、おねえちゃんが決めて、教えてほしい。初恋って叶わないって、ホント?オレ、もうやめたほうがいいかな」



難問

- ナノ -