色鮮やかで変わった生地の布を何枚も並べて、三ツ谷は真剣な顔をしていた。そんな彼にお構いなく、私はいつも通り三ツ谷に話をかけている。
 営業で外に出る時、ときおりこうして三ツ谷のアトリエに立ち寄っていた。三ツ谷は一日のほとんどの時間をここで過ごしているから、差し入れを口実にやってくる。三ツ谷は嬉しそうではないけれど嫌な顔もせず迎え入れてくれる。
「聞いてよ」
「いつも聞いてるだろ」
「彼氏の部屋に私と使った覚えのないコンドームが落ちてたんだけど」
 こないだ付き合っている人の家に行ったら、見覚えのないそれがベッドの脇に落ちていた。彼氏に訊ねたら、遊びに来ていた男友達が置いて行ったと言う。
 とうてい信じられる話ではなかったけれど、彼氏がそうだと言えば嘘だと確かめることもできない。疑っていたけれど「そうなんだ」と言うしかできなかった。
「友達のなんだって」
「お前それ信じたの?」
「だってそう言うんだもん」
「お人好し」
 呆れたように三ツ谷は言う。本当にいつもそうだ。付き合っているとはいっても、大事にされてると思ったことはない。それなのにどうしてまだ付き合っているのかといえば、好きだからという理由しかなかった。いや、好きかどうかなんて、もうわからない。何度か別れることを提言したことはあったけれど、大切にするからと言ってそれが叶ったことはなかったし、もしかしたら今度は大切にしてもらえるかもしれないと何度も信じた。
 今回のことだって、こういうことは初めてではないから三ツ谷はさして驚くこともなく、どちらかというと呆れている。はじめのうちは、そういうことがあれば「別れろよ」と言ってきたけれど、一向に別れる気配のない私を見て、それすらも言わなくなった。
 三ツ谷の綺麗な指先が、色とりどりの布の上を走る。真剣な眼差しは自分の好きなものへと向けられていて、私にその眼差しを向けたことはない。三ツ谷を見ているといつも寂しい気持ちになるのは、その情熱が羨ましかったからだ。
 三ツ谷に「もう来るな」と言われたら、ここに来ることはなくなると思う。けれど彼はいつも何も言わずに話を聞いてくれるから、つい話をしに来てしまう。三ツ谷の言うことはいつも正しい気がして、本当にダメな時はきっと言ってくれるだろうと思っていたから。
「なまえ、仕事も大変なのによくそんな奴と付き合ってられるよな」
「彼氏のこと好きだからかなあ」
「……フーン」
 もう「別れろ」と言わなくなった代わりに、何かアドバイスをくれるわけでもなく、ただ淡々と私の話に相槌を打って、思ったことだけを口にした。
 ある日、いつも通り仕事中に三ツ谷の元に立ち寄った。いつもと違ったのは、私の左眼にかけた眼帯だ。私が行っても「また来たのかよ」と言って作業を続ける三ツ谷は、その日は私をひと目見てからその瞳を丸くした。
「どうしたんだよそれ」
「めばちこできた」
「眼帯するほどひでえの?」
「お客さんのところに行くのに、腫らした目のまま行くわけにはいかないから」
 そう言ってまた三ツ谷にお茶とお菓子を差し出した。ここで手伝いをしている人たちの分も含めて多めに買ってくるけれど、今日は三ツ谷しかいない。
「で、今日はこの時間だから直帰できんだろ」
「うん」
「んじゃ行こうぜ」
 どこに? と言う前に三ツ谷が「いつものとこ」と歯を見せて言うから思わず笑った。成人してからずっと二人で飲む時は神南にあるチェーンの居酒屋だった。大衆向けのところだから私のような生活に疲れたOLが仕事帰りに寄っても遜色はない。むしろそういう人たちの集まりだ。
 キリの良いところで作業を中断させた三ツ谷が立ち上がる。そろそろ出れるのかと私も立ち上がった。かばんを持って出口に向かおうとしたら、三ツ谷が「ちょい待って」と私を引き止める。
「どしたの?」
「こっちきて」
 ちょいちょいと手招きをされ、彼の方へと行くと近くにあった木製の椅子を三ツ谷に差し出された。背もたれを持って「ここに座れ」と言われたため言われるがまま座ると、三ツ谷の手が私の髪に触れた。
「髪いじっていい?」
「うん、三ツ谷に髪さわられるの好き」
「行くのは煙草くせぇ飲み屋だけどな」
 三ツ谷が手櫛で私の髪を整える。彼は駆け出しのデザイナーだが、昔から妹たちの面倒を見てたおかげで、長い髪の毛だって三ツ谷の器用な手にかかれば魔法みたいに可愛くなる。そしてその手が大きくて、指先は長くて骨張っていて、触れられると気持ちが良かった。
「どうすっかな」
「三ツ谷の好みにしていいよ」
「手癖でやったら幼児みたいになるぞ」
「せめて二十代の大人なOL風にして」
 そんなことを言い合ってけらけら笑いながら、三ツ谷は手を動かす。どこからか取り出したコテとバームで自分の髪からふわふわといい香りが漂った。ものの十分程度で三ツ谷によるヘアアレンジは終わり、改めて鏡を見たら希望通りの“二十代の大人なOL風”になっていた。ただし、眼帯付き。
「眼帯がなけりゃもう少し見栄え良くなったんだけどな」
 三ツ谷の言葉を聞いて、虚しい想いが駆け巡る。本当は私だってこんな煩わしいもの外したいよ。けど外せない。そんなみすぼらしい自分の姿を、三ツ谷にだけは見せるわけにはいかなかった。
「変じゃない?」
「変なわけないだろ、オレがやったんだから」
「すごい自信だね」
「何年ルナとマナの髪やってきたと思ってんだよ」
 三ツ谷の手先の器用さは、生まれ育った環境のおかげか、天性のものかはわからない。けれどきっとそういうことが元々嫌いではなかったのだと思う。出会ったのは中学生の頃で、三ツ谷はよく傷を作って学校に来ていた。眉毛にも剃り込みが入っていたし、見てくれは怖いのに中身は他の同級生と同じく、中学生の男の子だった。ただ、周りの同級生より多少大人びていて、手先が器用ではあったけれど。大人びていた理由は三ツ谷と付き合っていくうちに判明して、とても納得した。妙に悟っているその性格は、他の同級生よりほんの少し境遇が変わっていたからだった。
 三ツ谷には中三の頃からなにかと話し相手になってもらっていた。下の子達がいるからか、聞き上手で話せば聞いてくれるし、的を得た意見が返ってくる。そんな三ツ谷に甘えて、私は成人して数年経ってもなお、三ツ谷に彼女がいない時は顔を出してはくだらない話を聞いてもらっていた。
 店では何を話したのかすぐに忘れるようなくだらない話をして、なのに何故か盛り上がってたくさん笑って二時間ほど滞在してから店を出た。帰るために駅に向かっている最中、自分の職場の近くを通る。そこを抜けて、地下鉄の駅はすぐそこというところだった。
 地下に入っていく階段のそばに立つビルの路地に、見覚えのある背丈の男がスマホを片手に立っていた。ひと気がないそこでビルの壁を背にしていた人を見て、誰だかわかる。大きな身体にかっちりとしたスーツ姿だ。すぐに気付く。
「どこ行ってたんだよ、なまえ」
「どこってお店……」
 私と三ツ谷の前にふらふらと出てきて、行く道を立ち塞ぐ。低い声で、私の名前を呼ぶのは昨日も一緒にいた恋人だ。
「酒くせー。飲んでた? 俺はお前の目を心配して来てやったのに」
 彼氏は私の口元に鼻を近づけ、確かめるようににおいを嗅ぐ。三ツ谷は黙って私たちのやり取りを見ていた。気まずいが、今はどうすることもできない。三ツ谷に“帰って”という意味を込めて、空いていた右手の甲で三ツ谷の脇腹あたりを叩いた。けれど三ツ谷は、そこに足を止めたままだ。
「ご、ごめん……」
「何一丁前に眼帯なんてつけてんだよ。大したことないんだろ本当は」
「……一応お客さんに会う仕事だから」
 彼氏が私がしていた眼帯を見て、悪態をつく。つい数時間前に三ツ谷に言ったことを思い出して、もうこれ以上何も言わないでと願うしかできない。今日の彼氏はとても機嫌が悪い。理由は明白だ。隣にいる三ツ谷のことが目に入らないわけがない。
 私はこのままこの人に連れて帰られるのだろうか。自分が悪い。彼氏ができてもかまわず三ツ谷に甘えて会いに来ていた私のせいだ。けれど三ツ谷がいたから今もこの人と恋人同士でいられる。私の心の安寧を保ってくれたのは三ツ谷なのだ。そんな勝手で三ツ谷が巻き込まれる。はやく帰って欲しい。こんな姿、一番見られたくない。
「あー、横からわりいけど、それものもらいって言ってたのもしかしてちげえの?」
「……」
「昨日、俺といる時にぶつけたんだよな。ずいぶん腫らして心配したよ」
 彼氏が平然とそんなことを言うから、虚しくて涙が出そうになる。今まで一緒に過ごしてここまでされたことは無かった。
 私と彼氏の一連のやり取りを黙って聞いていた三ツ谷が口を開く。三ツ谷は横にいる彼氏のことを見ようともせず、私の左眼の眼帯を指差した。何も言えなくて、思わず目を逸らして暗いコンクリートを見つめる。
「なまえ、見せて」
 返事を待つことなくゆっくりと三ツ谷に眼帯を外された。
「……これ、こいつにやられたのか」
「……」
 目の前に張本人がいるから、頷くことができない。けど結局、三ツ谷から目を逸らして俯いたら、それが肯定のサインになる。
 外気に触れたそこから、視界が広がる。少し腫れぼったい気がするけれど見えるものに影響はない。ただ、私には影響がなくともこの目を見た人は驚くかもしれない。今朝、鏡を見た時に一番最初に驚いたのは自分自身だった。
 目の上が真っ青になり、腫れている。まぶたには数ミリの擦り傷が残り、目尻の方まで痣は広がっていて、とてもじゃないけれど人前に出られるような外見ではなかった。慌てて朝早くからやっている薬局に行き、仕事の前に眼帯を購入した。
 この痣をつくったのは他でもない今目の前にいる恋人だった。昨晩、私が昔行った旅先の話をしたら、誰と行ったのか、昔の男かと詰め寄られて、さすがにそんな過去の話で何故そこまで言われなければならないのかと言い返した。そしたら余計に逆上させしまって、しまいにはスマホを投げられて私の目に当たってこの有様だ。
 どうしたらいいのかわからず、いつものように三ツ谷と話せば日常だと思える気がした。心配させたくないこともあったけれど、なにより恋人に傷を作るような人と付き合っていると思われたくなくて、ものもらいだと嘘を吐いた。
 ひらけた視界でゆっくりと視線を上げる。後ろから見ていた彼氏はホッとしたように「それくらいなら冷やしていれば治るな」と言う。私の顔を心配そうに見ていた三ツ谷が、次の瞬間には苦虫を噛み潰したような顔で額に青筋を浮かばせた。
 私が反応するよりも早くに三ツ谷が後ろに振り返る。ただならない空気を纏って彼氏に近づくその後ろ姿に、慌てて私は叫んだ。
「三ツ谷!!」
 その握りしめた拳を、三ツ谷が彼氏の顔面に食らわせる直前だった。三ツ谷の腕はぴたりと止まり、彼氏は顔を青ざめて身体を硬直させている。
 いま、三ツ谷がどんな表情をしているのかわからない。ただ、直情的ではない三ツ谷の行動に驚いて、自分の心臓がバクバクと激しく脈を打っていた。
「てめェ女の顔に傷付けることがどういうことかわかってんのか!?」
 顔面の直前まで振りかざした拳で胸ぐらを掴み、そうひと言吐いてから投げ捨てるようにワイシャツの襟を離した。
 私はずっとただの同級生だったから、三ツ谷がこんな風に怒るところを見るのは初めてだった。今目の前にいるのは自分の恋人と、ただの同級生なのに、本当に私のことを案じて言ってくれているのはどちらかなんて明白だ。やっと目が覚めていくような気がして、それと同時に涙があふれる。
「当てるつもりじゃなかったんだよ、元々はなまえが悪いし。な、なまえ」
「え……」
「はやく帰ろう。帰ったら冷やしてやるから」
 腕を引かれて足が動く。三ツ谷といるところを見られているから、このまま戻ったら今度は目だけじゃ済まないかもしれない。怖い、でも振り解かない。
 最初はこんな人ではなかったはずなのに、いつからかこんな風になってしまった。その変化に気付きながら目を瞑っていたのは私だ。私がこの人を元に戻してあげるべきなのかもしれない。
 諦めて三ツ谷に「ごめん、またね」と言った時だ。いつもの三ツ谷なら表情を変えずに私の言うことをただ聞いてくれる。そう思ったけど、三ツ谷の手が、私の手を掴む彼氏の腕を取った。
「行かせねえ」
「ああ、ここまでなまえをありがとう。もう二度となまえとは会えないかもしれないけど、この恩は忘れないよ」
「何ふざけたこと言ってんだてめェは。二度となまえにそのツラ見せんじゃねえ」
 三ツ谷が彼氏の腕を、無理矢理に私の手から引き剥がす。
「こんなふざけたヤローと一緒にいる必要ねえよ。行くぞ」
「っでも」
「いいから」
 三ツ谷に腕を引かれるがまま足を進める。後ろでは彼氏が私の名前を呼んでいる気がしたけど、振り向けなかった。三ツ谷は苛立っているようで、私の手を引いて最初に来た道を戻って行った。
 たどり着いたのは夕方までいた三ツ谷のアトリエだ。真っ暗で誰もいないそこに彼が電気をつける。オレンジ色の明かりが灯り、それまで何も話すことがなかった三ツ谷が小さなソファを指差し「そこ座って」と言う。そのままそこに腰を掛けると、うるさかった心臓がよりうるさく感じた。ゆっくり深呼吸をして呼吸を整える。一度流した涙はもう落ち着いていて、さっきまでの出来事が嘘のように思えた。
 三ツ谷に渡されたのはペットボトルのミネラルウォーターだ。キャップを外してひと口流し込む。心臓の音も、ようやく落ち着いてきた。
「……どうしてはじめからあいつにやられたって言わねえんだよ」
「余計な心配させたくなくて」
 聞こえはいいだろうが、情けない思いの方が大きかった。どう考えても、人の顔に傷を付ける人など付き合うべき相手ではない。
 三ツ谷も同じく、私の隣に腰を掛ける。ペットボトルに口をつけた後、私の言葉を聞きながら大きなため息を吐いた。
「それならオレのところにも、もう来るな」
「……え」
 三ツ谷の言葉に息が詰まる。
 やっぱり幻滅したのだろうか。いくら酷いように扱われても別れようとしない私のことを見ていたら、鬱陶しくなったのかもしれない。
「どうして」
「いつも心配してんだよ。変な男に引っかかって、それなのに好きだからって我慢してるのマジで意味わかんねぇし。そのくせ一丁前に傷ついてるから、話聞けば聞くほどずっと心配してた」
「……」
 隣に座った三ツ谷は、前屈みで膝に肘を当ててぼんやりと自分の足元を見つめながら言う。
「好きな女が自分以外の男に傷付けられた話聞いてんの、結構しんどいんだよな」
 諦めたように笑う三ツ谷が、いま聞き捨てならないことを言った気がする。その言葉を拾っていいのかどうかわからなかったが、聞こえてしまったものを無視することができない。目頭が熱くなり、止まったと思っていた涙がまたぼろぼろと溢れ出た。
 三ツ谷は私のことを好きだったの? 私はそんなことも知らずに、三ツ谷のことをずっと傷付けてた。
 出てきた涙を拭うために、痣がある左眼をこすったら思いの外ずっと痛かった。それに気付いた三ツ谷が笑って「バカだな」と左眼の涙をやさしく掬いとってくれる。
「泣くくらいならもうやめろよあんな奴」
「うん……うん」
 三ツ谷がセットしてくれた髪に、また彼の指が滑り込む。あたたかいその手に触れて、ようやく気付いた。
「やめるから、またここに来てもいい?」
「オレの気持ちに応える覚悟があるなら」
「ある……私、ずっと三ツ谷に髪触られるの気持ちよくて好きだったから」
「へえ。それどういう意味?」
 一転、三ツ谷が愉しそうに笑う。いつも飄々と話を聞いてくれていた三ツ谷のそんな表情を見たのは初めてで、ただならぬ尋問をされるような気がした。ずっと格好いい人だとは思っていたが、なんだか今日はまた違って見えて、恥ずかしくて俯いた。まだ解決しなければいけないことは山積みで、先行きは不透明だけれど、この人に会えなくなることは嫌だ。それだけはわかる。だから私は、ずっと近くにいた人に、ようやく手を伸ばした。



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