道を挟んで向こう側にあるペットショップは、顔がいい店員が二人もいると、同僚のあいだでは少し騒がれていた。休憩時間になるとわざわざ見に行く同僚もいて、帰ってくるなり本当にかっこいいとうっとりしていた。
 そういった、周りにいる人たちが話す噂では聞いていたけれど、実際にまじまじと見たことがない。犬猫に興味がないのにわざわざ見に行くこともできないし、見に行ったとして顔を品定めするようなことはできないからだ。
 そんなことすら出来ない自分はわりと品行方正に生きてきたと思う。ごく普通の一般家庭に育ち、友人にも恵まれ、何不自由なく、敷かれたレールなのか、自分で敷いたレールなのかわからない上をまっすぐと歩いてきた。間違ったことはわざわざ選べないし、なるべく人も傷つけたくない。
 よく言えば育ちが良い、悪く言えば世間知らず、かもしれない。

 羽宮くんと出会ったのは残業を終えて職場を出た後の帰り道にある、コンビニだった。カフェラテが飲みたくてコンビニに寄り、レジでお金を払おうとして小銭をその場にばら撒いてしまった。ひと通り小銭を拾い、最後に手から溢れてころころと転がって行った先にいたのが、彼だった。
 彼の履いていたスニーカーの爪先に百円玉が当たって倒れる。そしてそれを拾い、彼は私を見て言った。
「……落とした?」
「あ……はい。すみません」
「はい」
 どぞ、とぎこちなく、その大きくて綺麗な指先が、私の手のひらに百円玉を落とした。
 ひと目見た時、きれいな人だと思った。背がすらりと高く、長い髪の毛を後ろに束ねていて、それがまた色っぽい。それに加えてそこはかとなく感じるなんとも言えない空気感を持っていて、私が今まで通ったレールの上で出会ってきた人たちとはまるで違う人だとすぐに感じた。

 その人が道を挟んで向こう側にあるペットショップの店員だとわかったのは、その翌日のことだった。仕事の昼休みに外へ出ると、ペットショップのガラスを拭く彼がいた。その目立つ風貌に、すぐに昨日の人だと思い出した。
 ちらりと見た歩行者用信号が、青のままちかちかと点滅している。反射的に動き出した足が彼の元に向いて、信号が赤に変わる前に、そのペットショップの前までやってきていた。
 お財布を携えて小走りでやってきたそこに、昨日小銭を拾ってくれた人がいる。私に気づいた彼も手を止めて、こちらを見た。少し息が切れて苦しい。誰かを見つけてそんなふうに走ったのは、今までの人生で、初めてだったから。
「こんにちは、ここで働いていたんですね」
「昨日の?」
「あ、はい。昨日はありがとうございました」
 私の言葉を聞きながら、彼の視線が手元に移る。財布一つしか持たない私に、何かを察したようだ。
「この辺で仕事してんの?」
「道挟んで向こうのビルの中にいます」
「……へー」
 ゆっくりと彼が見る向こう側にあるビルに、私の職場がある。損保系生保でそこそこ大きなところに勤めている。可もなく不可もなく、ずっと一人でも生きていけるような、安定した場所を選んだ。
 彼は、生き物が好きだからここにいるのだろうか。
「犬とか猫が好きなんですか?」
「うーん。別に普通」
「……」
 じゃあなんでこの店で働いてるの? とはさすがに会って二回目の相手には聞けなかった。
 本当はこの時に、そこまで踏み込んでいたら、その先もっともっと入れ込むこともなかったのかなと思う。そんなことを後で思ったって無駄だとわかっているけれど、思わずにもいられなかった。
 だからといって羽宮くんと出会いたくなかったわけではないし、私は彼の、そんなところに惹かれていたのだと今は思う。

 初めて名前を聞かれた時から羽宮くんにはずっと下の名前で呼ばれてきたから、私が羽宮さんと言うと決まって嫌な顔をした。だから百歩譲って「羽宮くん」と呼ぶことにした。本当は一虎と呼んでほしかったらしいけれど、照れ臭くてそう呼ぶことができなかった。
 彼の名前を知ったのはとてもひょんなことだった。店の前を通るたびにひらひらと手を振ってくれる彼に私も振り返すなどという、ごく普通の日常を送っていたら、ある日猫みたいな目をした店員が彼と私を交互に見てから、つかつかとこちらに向かい歩いてきたのだ。
「すみません、あの人と知り合いですか?」
「あの人?」
「羽宮ですよ、羽宮一虎。うちの店員なんですけど、あなたのような知り合いがいるような人じゃなくて」
 ガラス張りの向こう側で、羽宮一虎と言われる彼は、こちらの様子を伺いながら犬を抱えている。出てきた男性店員は額に汗をかいていただろうか。のちに聞いた話では、この人は店員ではなくペットショップの経営者の松野さんという人だった。
 松野さんは本当に信じられないというような眼差しで、私を凝視した。
「まあ、知り合いですけど。先日ちょっと困ってたら助けてくれて」
「は!? いや……すみません。そうなんすね……」
「どうしてそんなに驚くんですか?」
「その、いや、あまりにも普通なもんで」
 しりすぼみになっていく松野さんの声色に、失礼なことを言っていることに気付いたのだということがわかった。
「えっと、これからも一虎くんをよろしくお願いします」
 何故か深々と頭を下げられた。
 よろしくされるようなことは何もない。この時、私と羽宮くんは何もなかったし、本当に知り合い程度の仲だったからだ。けれど大人の男性に頭を下げられて動揺してしまい、つい「わかりました」と言ってしまったような気がする。よく覚えていない。ただ、なんとなく放っておいたらいけない人なのかもしれないというのは察した。そして、私のような知り合いがあまりいないということの意味は、ついこないだ道で会った時にハイネックのトップスから垣間見えたその首の痕を見た時、頭の隅を過ぎった。

 羽宮くんと初めて食事をしたのは、仕事終わりにたまたま駅前でばったり彼と会った日だ。
「おつかれ。今からメシ?」
「そうです」
「オレも。一緒に行かね?」
 羽宮くんは無邪気に笑って私を誘った。
 どうせ家に帰宅しても冷凍ご飯に納豆と豆腐をかけて食べるだけだ。人とご飯に行くなんて久々で、私は二つ返事で頷いた。
 駅の改札を潜る前だった私たちはそのまま引き返し、二人の職場をさらに通り過ぎて、羽宮くんが松野さんとよく行くという定食屋に連れていってくれた。
 一日の終わりの街中で、羽宮くんの隣を歩くのは不思議な感覚だ。隣を見上げると端正な顔立ちをした男の人がいる。羽宮くんは夜がとても似合う人だと思った。それはけして綺麗な意味でもなんでもなく、夜の街の混沌としたネオンだとか、大勢が行き交う都会の夜が彼を隠してくれるような気がしたからだ。
 高校を卒業して都会に出てきてから、人が多い場所には自分の経験からは想像できないような人が多くいることを知った。羽宮くんもその一人だった。何者かもわからない。あの日コンビニで出会うまで、彼がどんな生き方をして、どういう道を辿ってきたのかも、なにもだ。今まで出会った人とは違うことだけはわかる。小銭を拾ってもらっただけなのにこんなにも気になる理由は、この人がどのような人間なのかを、この目で確かめてみたかったからかもしれない。
 羽宮くんにメニューを渡されて、お品書きに書かれた美味しそうな名前の料理名を見つめる。昼休みから何も食べていなかった私の胃袋は、今か今かと夕食を待っている。
「悩むな〜」
「決めてやるよ」
「うん」
 このお品書きに書かれているものなら正直どれでも良かった。しかし羽宮くんが「んじゃコレな」と言って注文したのはあろうことかトンカツ定食で、私は口をあんぐり開けて羽宮くんに抗議をした。
「こんな時間にトンカツって!」
「何で? ここのやつうまいのに」
「夜の油は罪悪感が……」
「?」
 羽宮くんは本当に何の悪気もなさそうで、というか女心がまったくもってわからないような人で、悲しみを通り越してかわいい人だった。
 とにかく無邪気な人だった。年はおそらく私とそう変わらないのに、若い頃で時が止まっているような気がした。羽宮くんといると、自分の知らない世界への興味が疼く。首から覗く、その痕の意味を知りたかった。けれど私のような人間が聞いたらいけない気がして、まだ聞くことができない。私の人生はずっと可もなく不可もない道だった。それが一番しあわせな道だと信じて止まなかったからだ。
 食事をした帰りに、おいしかったと言うと、羽宮くんは満足そうに笑う。そのあどけない表情に胸の奥の方がむずむずとした。
「羽宮くんは、毎日この時間?」
「まあだいたい」
「またあそこ一緒に行きたいな」
 照れ臭くて、ちいさな声でそう呟いた。羽宮くんは一拍おいてから「いつでも付き合う」と言ってくれて、今度はうれしくて胸の奥の方がうずいた。

 大人とは、なにをもって“恋人同士”と呼ぶのかわからない。初めて出会ってから三ヶ月経ち、初めて食事に行ってから二ヶ月経った頃。ペットショップの前で羽宮くんと話していたら松野さんが「付き合ってんスか」と怪訝な表情で伺ってきた。
 好きだとか付き合おうだとか、そういうことにはなったことはない。ただ一緒に食事に行くことは増えた。たまには家まで送ってくれることもある。その内には家に上げてお茶まで出した。けれど一線は超えてない。
「いや、付き合ってな「そうだよ」」
 へ? とおそらく松野さんと同じ顔をして、返事をかぶせてきた羽宮くんを見上げたと思う。
 私たち付き合ってるの? いつから? なんて喉まで出かかっている。「な」と言われて、脳裏に浮かぶさまざまな疑問が消し飛んで、そうかもしれないと思ってしまった。羽宮くんの目は、そう言わせる何かがあった。自分の知らない世界の人に、いつのまにか惹かれていった。
 帰り際に松野さんに「もしも何かあったらオレに言ってくださいね」と耳打ちされた。松野さんからしてみれば、羽宮くんの隣にいる私の方が特異な存在らしい。私は「わかりました」と頭を下げて、前を行く羽宮くんを追いかけた。振り返ると松野さんは、やれやれといったように手を振ってくれていた。
 そんな風に羽宮くんとの日々が徐々に私の人生を侵食していった。それなのにやっぱり私は彼のことをよく知らなかった。
 同僚と食事に行くと行ったら寂しそうな顔をした。田舎の家族が来る時に一緒に食事に行こうと誘ったら、オレはいいとそっぽを向かれた。
 家にいる時の羽宮くんは、私から離れようとしなかった。もともと何を考えているのかわかりにくいところはあったけれど、二人になると彼は私を離そうとしない。キッチンに立った時も、無邪気にずっと隣でたわいもないことを喋っていた。
 夕飯を作っていたら横からちょっかいをかけてくるから、やめてと言うために振り向くと、羽宮くんの端正な顔立ちがゆっくりと私の方へと下降してきた。それにならって目を閉じれば、かさついた唇同士がくっつく。そしてやがて湿ったくちづけになって行き、私は彼の首元の虎を撫でた。
 こんなにはっきりと刺青を刻んでいる人は、私のまわりにはいない。羽宮くんの、唯一目で見てわかる、私と世界が違う証拠のようなものだった。それすらきれいで好きだった。その後ろに見える影すら素敵だと思った。彼の後ろ暗い過去を何も知らなかった私は、そんなめでたい思考でずっと一緒にいたのだ。
「なまえ、オレの虎好き?」
「うん。大好き」
 羽宮くんの、その吸い込まれるような金色の瞳が好きだった。私が大好きと言うと、彼は満足そうにして私の首元に顔を埋める。夕飯を作っている最中にもかかわらず、舌を這わされて反応したら、羽宮くんに手を取られてベッドに投げられた。
 そのまま夕飯も食べずに裸で抱き合い、何時までそうしていたのかわからない。くたくたになって意識がなくなったあと、先に起きたのは私だった。下着以外は身に何もまとわないままベッドを這い出る。作りかけの夕飯のことを思い出して、薄暗い部屋を抜けてキッチンに立った。鍋の中を覗くと煮込んでいた最中のシチューの具材がすっかり冷めきっていた。まだルーも入れてない。温め直そうと鍋に火をかけた時、キッチンに置いたままのスマホがぴかぴかと光った。
 そのスマホを手に取って見る。メッセージは学生時代の友人だった。久しぶり。元気? 今度みんなで渋谷で飲もうよ。そんなたわいもない内容だったけれど、久々の連絡が嬉しくないわけがない。最近は仕事に明け暮れて、それ以外の時間は羽宮くんと過ごしていたことが多かった気がする。
 元気だよ。いつでも大丈夫だから、計画立てようね。最近、彼氏ができ_
 と、打ったところで自分の手からスマホが消える。スッとなくなって行った方を目で追いかけると、私のスマホを手にした羽宮くんがそこに立っていた。
「起きたの?」
「誰?」
「誰ってなにが?」
「今打ってたメッセージの相手の奴は誰だっつってんだよ」
 羽宮くんの声には抑揚がない。今まで聞いたことのないほど冷ややかな声色だ。凍てつくようで、前にも後ろにも行けなくなる。
 横では鍋の中身が再びぐつぐつと煮えている。ルーを入れなきゃ。けれど、今はそんなことをしてる場合ではない。
「大学の時の、友達……」
 据わっている目でじっと見られて、私はただ聞かれたことに答えるしかできない。羽宮くんは「フーン」と言ってから、そのスマホを私たちの真横にあった鍋の中に放り込んだ。ぽちゃんと控えめな音を立てて、煮立っている鍋の中に自分のスマホが沈んだ。
「は、え……」
「寂しいから勝手に隣からいなくなるなよ」
 そう言って、何事もなかったかのように羽宮くんは私のことを抱きしめる。深夜の静けさの中、ぐつぐつと鍋の中身が煮えていく音が私の耳に届く。その瞬間、以前松野さんが言っていた「なにかあったら……」という言葉を思い出した。
 なんてことをしてくれたのだろう、とか、やっぱり羽宮くんてどこか変わっているかも、とか、松野さんが言っていた“何かあったら”の“何か”とは何を想像してのことなのかとか、瞬時に頭の中を巡った。巡ったけれど、私が今触れている羽宮くんの体温があたたかくて、寂しいと言った彼の眼差しも嘘ではないと確信があった。私にとって、それがすべてだった。
「ごめんね。どこにも行かないよ」
「うん、約束して」
「約束する」
 後になって思えば、まだこの時はいくらでも引返すタイミングはあったのだ。羽宮くんの言う“約束”が、この先の私の人生を大きく左右することになる。私は予感していた。いつか羽宮くんのすべてになることを。わかっていて抗わなかったのは自分自身だった。
 知らない道を歩いてきた人だと思った。きっと私はそれを知らないでいた方が幸せなのだと思った。
 鍋の火を消して、私たちはまた布団の中へと潜り込む。真っ暗で狭い二人きりの世界だ。
「明日、新しいスマホ買いに行こうな」
 そんな狭い世界で羽宮くんは、何かを確かめるように私を抱きしめた。耳元で囁かれて、黙って頷く。
 真っ直ぐ敷かれたレールから、一度脱線してしまえば戻ることは困難だ。だからそのまま前を見て走った。彼の中にひそむ狂気に触れながら、私もまた、それに染まっていく。



Knockin' on heaven's door

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