ちょうど日付が変わった頃。終電がもうそろそろなくなるだろう時間帯に彼女から電話がかかってくれば、大抵の男は「迎えに来て」という可愛いわがままだと思うに違いない。オレもそうだ。けれど、彼女の電話から聞こえてくるのは、彼女から紹介されたことのなる男友達の声だった。いつもより若干テンションが高く、周りの喧騒に負けないように声を張った男の声。
「あ、場地さん! すみません、そろそろ起きるかと思ったんスけど、なんか珍しく酔い潰れてて……起きそうもないんで、このまま俺が送っていきます。え? いや、バイクじゃちょっと、厳しそうで……。他にも送っていくやついるんで、ついでですから、大丈夫ッスよ!」
ほーーーーん。
少し上げた腰を下ろして、いつでも出られるようにポケットに入れていたバイクの鍵を取り出した。テーブルの上に置くと、ガチャンとわりかし大きな音を立てる。彼女に押し付けられた太々しい顔をした、太った猫が笑っている。
電話をかけてきた相手とは、わりとよく会うし仲良くもしている。オレよりも年上だが、東卍時代を知っているせいで彼女に紹介されたときから敬語で話す。別にいいと言っても治らないので、もう諦めた。
「そうか。わりぃな、面倒かけて」
「いえいえ! ホントついでなんで!」
「着きそうになったら連絡くれ。下までソイツ持ち行くわ」
「はい! じゃあお疲れ様です!」
「おー」
通話を切って、スマホを置く。テレビの音量を少し下げて、少し残ったポテチを摘む。それが思っていたよりもデカくて、袋に戻し、食べやすいように指先で砕いた。真っ二つになる予定だったデカめのポテチは、木っ端微塵に砕けた。
はぁあ、というデカいため息と共に、砕けたポテチを摘んで口の中に入れた。まぁ、どうせ噛むんだし、いいんだけどよ。
付き合って三年。世の中ではそろそろ倦怠期といのがくる時期らしいが、オレたちには縁のない話だったし、このままうまくいくんじゃねーかな、と思っている。未来のことはよくわかんねーけど、そのうち結婚して子どもデキて、みたいなことは、考えないわけじゃない。だが、このままじゃダメだ。これからも、これまで以上にうまくやっていくなら、成長しなきゃあダメだ。
置いたばかりのスマホを掴んで、電話をかける。
とりあえずまぁ、パーに聞くか。
▽
圭介の様子がおかしい。
わたしが酔い潰れて友達に家まで送り届けてもらったあの日から。
もう、このたった一言で、わたしに非があることくらい自分でもわかる。友達に家まで送ってもらい、圭介にアパートの下まで迎えにきてもらい、起きることなく爆睡し続け、昼に起きた。「すんませんした」とベッドの上で綺麗な土下座をしたわたしに、圭介は「おー、珍しく酔い潰れてたな」と笑ったけれど、その後「一旦帰るわ」とあまり帰らない自分の家に帰っていった。ほぼ半同棲のようになっているわたしの家から、土曜の午後、これからお昼を食べてテレビでも流してダラダラするか、というタイミングで自分の家に帰った。ヤベェ、と、ひとり頭を抱えた。この時点で怒らせたかもしれないと思ったのだが、圭介は怒ったときには目が違う。それに怒ったら怒ったと正直に言うし、わりと口喧嘩もする方だ。だから、たまたま都合が合わなかっただけに違いないと、自分に言い聞かせたのだ。
しかし。月曜日の夜。仕事が終わったら帰ってくるかもしれないというわたしの予想は外れ、圭介は来なかった。少し怖くなって「来ない?」とメッセージを送れば、「パーとペーと三ツ谷と飲む」と工事現場のヘルメットを被った猫がこちらを「ヨシ!」と指差した。
怒ってないとすれば、絶対、確実に、九割九分九厘呆れてる。
年上のくせに、いつまで経っても圭介に甘えてるからそういうことになるのよ! と心の中の天使が怒る。悪魔は腹を抱えてゲラゲラ笑っている。わたしが悪い。わたしの中にいる天使と悪魔、そしてわたしの満場一致の意見だった。
謝るなら会って謝ろう。とにかく早いに越したことはないと圭介に都合の良い日を聞けば、「明日休みだから明日行く」とすぐに返事が来た。ペットショップXJランドは年中無休、シフト制だ。年末年始とお盆には営業しないが、動物たちがいるので人員を減らして出勤になる。大変な仕事だ。
わたしはいつもより念入りに部屋を綺麗にして、前日にはビーフシチューの仕込みをした。前に作ったとき、ビーフシチューとハッシュドビーフとハヤシライスの違いで大盛り上がりになったから。
ビーフシチューを食べ終わり、ふたり並んでカフェオレを飲みながら天気予想を見ているタイミング。謝るなら今かもしれないと考えていると、圭介が「あー、のさ」と小さく喋り出す。
「免許取り行ってくるわ」
「あー」から「免許」までのコンマ数秒でこの間の話やわたしの生活態度、お互いの今後のことなどありとあらゆるパターンを想像していたわたしは、思いもよらない「免許」というワードに目を丸くする。
「……免許? なんの? 動物系?」
「いや、車の免許」
「車の免許!?」
「おー」
圭介はずずず、と音を立ててカフェオレを飲む。天気予報を見ながら、マグカップを両手で包んだ。
「こないだオマエ、すげー酔い潰れてたろ」
「はい。本当にごめんなさい。これからは気をつけます」
「いや、ぶっちゃけそれは……良いっちゃ良いんだけどよ。心配になるから爆睡するほど飲まねーでほしいけど」
「は、はい。本当に気をつけます」
「オレはなまえが酔い潰れたことより、迎えに行けねぇことのがキチィ」
テーブルの上にマグカップを置くと、わたしの方に顔を向けた。
「久しぶりにちょーーーーっと腹立ったな」
「エッ、ごめ、」
「オマエにじゃなくて、なんつーか……アイツにっていうよりは、車の免許持ちに? オレはいつでもオマエのこと迎えに行きてーわけ。朝早かろーが夜遅かろーが、どこにでも行ってやりてーの。他のヤツができてオレに出来ねーとかイヤなんだよ。それに、車よりバイクのが事故の死亡率たけーし……」
真っ直ぐと向かってくる言葉に、目が熱くなる。なんなら顔も熱いし、身体中が熱い。バチっと視線が交わり、圭介がぎょっと目を見開いた。
「なんで泣きそうになってんだよ」
「嬉しいさと……愛しさと……心強さで……」
「微妙に篠原涼子すんな」
これは、普段ヤキモチを妬かない圭介の、ちょっとしたヤキモチなんじゃないだろうか。同僚に対してではなく、同僚の持っている免許に…? 嫉妬してる…のかな? というのがまた圭介らしく思えた。
わたしも圭介もそんなにヤキモチを妬くほうじゃない。そもそも圭介の交友関係が限られてるというのもあるし、仲の良い女の子はだいたい友達の彼女だったりするからだ。たまぁ〜〜〜〜に店に来る女性に秋波を送られているらしいが、千冬くんがさりげなく遠ざけてくれているらしい。圭介は鈍くて気づいてない。
そんな圭介に、いや、圭介の周りの人たちにヤキモチを妬くことがあるとすれば、わたしの知らない中学、高校時代を知っていることくらいなものだ。わたしの方も友達は多くないし、何人かいる同僚の男どもは圭介に紹介している。だから今になって、こんなにささやかで可愛い嫉妬をされるなんて、予想もしてなかった。と同時に、やっぱり自分の不甲斐さなを忘れないように脳みそに刻みつけることにする。
少し顔の赤みが引いた気がする。はぁ、と腹の奥底に溜まっていた熱い息を吐き出すと、圭介がわたしの肩に腕を回した。こつん、と頭がくっついた。
「例えばだけどよ」
「うん」
「ケ……」
「毛?」
「ケッ、コン、とかってなると……やっぱ車あった方がいいらしいぜ」
「…………は!?」
「ハ!? てなんだよ!? オレは真剣に……」
わたしがズズッと鼻水を啜ると、圭介はテレビの横に置かれたティッシュを持ってきてくれた。一度離れた腕が、今度はわたしを丸ごと抱きしめた。
「ほんと、すぐ泣くなぁ」
「う゛……」
差し出されたティッシュで鼻をかむと、わたしの手から丸めたティッシュを奪いゴミ箱に投げ捨てた。ナイスコントロール。
「これがプロポーズとか、言わんよね」
「言わねーよ。ちゃんとすっから、ちゃんと待ってろ」
「……う゛ん゛」
「泣くな泣くな。つーか、免許取り行くって話してたのに、なんでこんな話になってんだよ」
「圭介のせいじゃんかぁ!!」
「あー、はいはい。鼻かめ鼻」
圭介はゲラゲラ笑って、ティッシュを二枚取るとわたしの鼻に当てた。ほれ、と言われるままに鼻水をかむと、ズビーッという汚い音にまたゲラゲラ笑う。
圭介の手がわたしの頬を撫でて、ぼたぼた流れていた涙をぬぐう。涙のせいで少し視界がぼやけているけれど、わたしを見て笑う圭介もちょっとだけ涙ぐんでいる気がした。案外涙もろくて優しいところが、大好きなんだよなぁ。そう思うとまた涙が出てきて、圭介が「きりねーなぁ」て肩口にわたしの顔を押し当てた。
「圭介」
「お?」
「……なんでもない」
「ハッ、なんだそりゃ」
背中に腕を回して思いっきり抱きつくと、圭介はまた笑った。嬉しそうに、……幸せそうに。
圭介が免許を取ったら。車を買うかもってなったら、引っ越しをしたいって言ってみよう。わたしたち二人だけで暮らせる部屋じゃなくて、ちょっと少し広い部屋に引っ越してみませんかって、言ってみようかな。