開店時刻は店主の気分次第。閉店時刻も然り。就業規則なんてあってないようなもの。店主が昨日は白と言ったものが、翌日はなぜか黒になるなんてこともざら。店を大きくする気がないといえど、計算事は得意ではないと豪語する男が一人でやりくりするには限度があるだろう。
 この店の店主である真一郎が気前よく切った領収書を整理しながら、この店の未来をなまえはぼんやりと憂う。書かれた数字は読めるときもあれば、暗号と化しているときもある。これもまた彼の気分次第。
「しーん。これなんて書いてるの?」
「あー? ……たぶんエンジンオイル、たぶん」
 バイクの前にしゃがみこんだ真一郎に領収書をぷらぷらと見せる。昨日のこと思い返していたらしい彼がもう一度だけ「たぶん」と口にした。エンジンオイル。確かに読めなくはないが、ここがバイクショップだと知らない人間が解読するには難解な形をしている。
 真一郎の幼馴染であるなまえは、本業の傍ら、この店の事務仕事を無償で手伝っている。前述の通り、計算事を含んだ事務仕事は不得手な彼がなまえに泣きついたのが事の発端。仕事柄そういうものを扱うことがあるとはいえ、なまえとて計算事は胸を張って得意だといえるわけでもない。返事を渋ったものの、結局頷いてしまったのは惚れた弱みというもの。相手が真一郎でなければ、こんなこと金を積まれてもごめんだと断っていた。なぜ休みの日にわざわざ仕事と似通ったことをしなくてはいけないのか、と。
 取引先ごとに伝票を振り分けては、工具を扱う背中を盗み見た。
 いまよりもうんと昔。物心ついた頃には、すでに「真ちゃん」「なまえ」と拙い発音ながらに呼び合うほどには仲が良かった。家族公認。互いに仲良しだと明言するくらいには一緒に過ごしていた。いまとなっては笑い話であるが、プールはもちろん、お風呂だって一緒に入っていたとなまえは母親に聞いている。
 真一郎となまえがまだランドセルを背負っていた頃は、彼よりもなまえのほうが体も大きかった。二人並んで真一郎の家で空手を学んでいたから、腕っぷしも大差ない。どちらかといえば、体が大きかったなまえの方が優勢に立つことも多かった。
 それも束の間のこと。
 中学校に進学したあたりからだ。真一郎の身長がうんと伸びて、なまえの身長が止まった。体つきも徐々に丸くなるなまえとは違い、骨張った関節と筋肉質な体躯になる真一郎。明確になっていく男女の差。それでもなにかあればなまえは真一郎に相談し、真一郎もなまえに本音を打ち明けるような、そんな親しい関係が続いていた。
 真一郎がチームを作ったときだって、そう。
「ブラックドラゴン」
「おう。黒龍と書いて、ブラックドラゴンって読むんだよ。かっけえだろ」
「うーん……」
 そういうお年頃だよねと言わんばかりの相槌を打つなまえに、真一郎は重ね重ね「かっけえだろ?」となまえの肩を小突く。
「まあ、かっこいいは人それぞれだし」
「なんだよ」
「私はリーゼントとか苦手だし」
「あのなあ」
「それに真ちゃんが総長ってのもなあ」
 などと言っていたのも、いまは昔。なまえが知らない間に佐野真一郎は、ずっと大きな男になっていた。街ですれ違うときも、決して柄がいいとは言えないメンバーで歩くこともしばしば。
 悪ぶった男性がかっこよく見える時分でもあったからなのか、なまえの同級生からの評判も上々であったのが、さらになまえを悩ませた。リーゼントとはいえ、真一郎の見た目は整っているほうであり、その彼の周りにいるメンバーも選り取り見取り。断じて見た目が悪いとは言い難く、なまえを見かけた真一郎に声を掛けられるたびに「あの人達は誰?」「名前は?」などと詰められることも少なくはなかった。
 いわゆる不良になっても、真一郎の根っこの部分が変わることはない。気さくなのも、なまえを見かければ話しかけようとするところも、なにも変わらないまま。
 もとより人好きのする人間だった。
 なまえの家族からの評判も高く、なにかにつけて「真一郎くんと一緒なら安心ね」と言っていた。小学生のなまえは、真一郎よりも自分の方がずっと強いのにと唇を尖らせていたが、いまは違う。なまえより低い場所にあったつむじは、もう背伸びしてもなかなかお目にかかれない。男性らしい声色で名前を呼ばれるたびに、男女であることを実感する。
 どれだけ見た目が変わろうとも、なまえにとって安心できる場所である真一郎に恋心を抱くのは、そう難しいものではなかった。
 それでも幼馴染から抜け出すには、いまひとつ勇気が足りないままだった。
 昔を思い出してしみじみしたところで、目の前の伝票が捌けるわけではない。昔から真一郎を慕ってくれている人間がこぞって利用する店だからだろうか。毎月それなりの売上を叩き出している。それを証明するように、みかん箱のなかでは書類が小さな山を作るのだ。
 山を崩しながら書類を整理していく。暗号を生み出す男は、バイクを弄ることには長けているが、山崩しを手伝ってくれたことはない。
「真ちゃんさあ、事務員とか雇わないの?」
「んな余裕ねえよ」
「でも私が手伝えなくなったら、この店の確定申告とか帳簿とかどうするの?」
「手伝ってくんねえの?」
「……もしもの話だってば」
 なまえの予想よりもずっといじけた声で尋ねられて言葉に詰まる。捨てられた仔犬のような、といえば聞こえはいいかもしれないが、相手にしているのは成人を過ぎた男性。
 だが、きっと真一郎に頼られる度になまえは手伝ってしまうだろう。果たしてそれが幼馴染を打破する足がかりになるのかは、また別の話。ただ真一郎がなまえだけに頼んでくる。その優越感が、特別感が、身に沁みて忘れられないだけ。
 なまえは、訪れるかもしれないもしもの話を続けるつもりだった。それができなかったのは、いつぞやの彼らが店を訪ねてきたから。
「繁盛してるか?」
 来客を知らせるアラームに重なって、ちゃかすような言葉が聞こえた。決して小さくはないドアをくぐるようにやって来た武臣たちをなまえは、ついじっと見つめてしまった。
「見りゃ分かんだろ」
「俺ら客だから。もっと態度良く接客してくれよ、店長」
「お前らに振りまく愛想がもったいねえっての」
 にっと笑った慶三につられてか、真一郎も楽しげな笑みを漏らしている。
「久しぶりに遊びに来たってのに、そりゃねえぜ」
「遊びに来んな。売上に貢献しろ。金使え、金」
 ぐっと背伸びをしながら立ち上がった真一郎にならって、なまえも席を立とうとした。
「なまえちゃんも久しぶり」
「お茶ならいい。適当に買ってきたから」
 手に持っていたビニールを掲げた若狭になまえは会釈を返した。
 十代だった頃よりも、ぐっと大人っぽくなったとはいえ、少々強面なのは変わらない。ただ昔のような獣のような雰囲気はない。気軽に近づけるとは言い難い様相なのはそのままだが、気の良い仲間としてここにやってくる。もちろん今回が初めてではない。
「茶請け的なやつも買ってきてるから、俺らのことはお構いなく」
「そしたらお言葉に甘えて作業続けるけど、なにかあれば声かけてね」
「お。じゃあ、すまんなまえ。表のプレート、クローズにしてきてくれ」
「真ちゃんに言ったわけじゃないのに……」
 ぶつくさと文句を溢しながらも、OPENと表記されたプレートを裏返しに向かった。
 本日は営業終了。これからは、彼らのための時間が始まる。

 楽しげな会話をBGMになまえは事務作業を進めた。
 やんちゃが過ぎた話もあれば、心情的には聞きたくない色恋のあれそれ。時折下品な話題に反れた場合には「私もいるよー」と声を出した。それも程よいスパイスになっていたらしく、会話が途切れることはなかった。
 そんな様子になまえも気の良い友人の顔を思い浮かべていた。そういえば、最近会った友人は一児の母になると言っていた。仲間内では早い方ではあるものの、改めて子供がいてもおかしくない年代であることを実感した。
 まだ目立たないお腹を撫ぜながら友人が言った「大切な人との信頼の証」という言葉とその光景が忘れられないでいる。なまえが信頼し合いたい相手は、二人の関係をどう考えているのか。後ろめたい関係でもないが、ちょっと引っかかりを覚えることも事実。はたから見れば利用されてるとも見えなくはない状態を憂いているのは、恐らくなまえだけだ。
 彼らが帰り支度を始める頃には、なまえの作業も終盤に差し掛かっていた。昔から静かな環境よりも、ある程度の騒がしさのなかで作業をする方がうんと効率がよくなるタイプの人間だった。少々聞き耳を立てて手を止めてしまう場面がなかったわけでもないが。
 真一郎だけでなく、なまえにも手を振って帰って行く姿に心内で手を合わせて拝む。あなた達のおかげで作業は捗りましたし、新たな真一郎をしれましたよ、と。
 ある程度分別されたゴミを片付けながら、なまえがしみじみと呟いた。
「やっぱ、なんか昔より落ち着いたよね」
「誰が」
「みんなだよ、みんな。昔はギラギラしてて絶対話しかけれないけど、今なら声かけれるもん」
「そんなもん?」
「そんなもん」
 昔の彼らのことを思い出して、さっきまでの姿と比べてみる。身長はもちろんだが、体つきだって以前よりもがっちりとしている。髪型だってそうだ。いかにも不良ですという見てくれだった頃と比べれば、まだ今のほうが落ち着いて見える
 それは帰った彼らだけではなく、真一郎にも言えること。一昔前に流行った歌謡曲ではないが、触れるもの皆傷つけそうな雰囲気すらあったのに、最近は柔和な面持ちに見えた。
 未だに以前のような彼らであったなら、なまえは名前を呼ばれただけで体を強張らせていただろう。なまえも同様に大人になった。昔は不良っぽいワルに惹かれていた部分もある。ただ歳を取るにつれて、好みも落ち着いた男性に変わってきた。……いや、なまえの場合、真一郎が変わるにつれて好みも変わっていったともいえるが。
 なまえの隣に並んで、同じようにゴミを片付ける真一郎の横顔を盗み見た。あの頃のようにガチガチに固められた髪の毛はなく、さらりと揺れる前髪は彼の端正な顔立ちを際立たせている。染められたことのない黒が爽やかさすら演出いるからだろうか。店の大きな窓越しに時折彼に見惚れる女性の姿を見かけるのだ。その光景がなんだか歯痒いような、寂しいような。消化しきれない感情がぽつりと浮かんだ。
 空き瓶を手にした真一郎が「そういえば」と思い出したような声をあげる。
「なまえって昔、あいつらの顔が好きとか言ってたよな?」
「あー……、ちょっと怖くもあったけどみんなかっこよかったし。まあ、今は大人の色気? みたいなのも加わってるから、よりかっこよさが際立つっていうか」
「へえ」
 ――あ、不機嫌な声だ。
 そのことに気付いてしまってなまえの胸が妙に浮き足立つ。長年の付き合いだからわかる、声色の変化。たった一言だけど、鮮明な違い。
 なまえが彼らを褒めたからヘソを曲げているのだろうか。そこにはなまえが欲しているような感情が混じっていてくれたらいいのに。
 下手な期待がバレないように、だけどそうであってほしいと願うように。絞り出した声が震えていないことを祈った。
「なに? 妬いてるの?」
 自嘲じみた笑いが混じった言葉だった。
「妬いてる。俺だってお前に褒められたいし、好かれてたい」
 あまりにどストレートな返答で、頭が理解することを拒むくらいの衝撃だった。
 信じられないという表情のまま真一郎の方を見やる。もしかすると冗談まじりで、彼はこちらを向いてほくそ笑んでいるかもしれない。そんな簡単に長年の付き合いに変化が訪れることなんて――。
 そう考えていたなまえを裏切るかのように、なまえの視界に映る真一郎は、至極真面目な面持ちでなまえのことを見つめていた。黒曜の双眸が緩いカーブを描く。
 刹那、世界から喧騒が消えた。
「実は、その頃からずっと妬いてたって言ったらどうする?」
 たった数秒。だけどなまえにとっては永遠にも感じられた時間だった。
 やっとの思いで吐き出した言葉は「嘘だ」なんて可愛げのかけらもないもの。期待がバレないように塗り固めたものを投げ掛けたのは他の誰でもないなまえのくせに、期待通り、いやそれ以上の展開に泡を食っているのだ。
「なんでこのタイミングで嘘つくんだよ」
 馬鹿じゃねえの、に続く真一郎の言葉でじわじわと実感していく。
「なに簡単になまえちゃんなんて呼ばれてんだよ。へらへらしてるのもムカつく。特にワカが好みなのか知らねえけど、ちょっと見て恥ずかしそうにしてんのも腹立つし」
「や、あの」
「ったく……。せっかくお前に害虫が寄ってくるたびに潰してたってのに、身内が一番厄介な害虫だったなんてオチありかよ」
 言葉が紡がれるほどに体温が上昇するようだった。まるで真一郎のせいでなまえに彼氏ができなかったような言い草じゃないか。当の本人は不機嫌さを隠すことなく、これまで溜め込んでいたものを吐き出していく。
 やれあの時は嬉しそうだっただの、なまえが好意を抱く前に関係を絶たせただの。エトセトラ、エトセトラ。
 実際問題、真一郎が危惧するまでもなく、なまえに彼氏ができる可能性などなかった。なにせなまえは真一郎に恋心を抱いて以来、彼一筋。他に目移りなどすることなく今日まで至っている。
 積もり積もった真一郎の妬み嫉みは、とどまることを知らない。
「……もうむり」とどうにか絞り出したなまえの呟きが終止符だった。
「むりってなんだよ」
「だって……だって、そんなの、真ちゃんが私のこと好きみたいじゃん」
 両の手で頬を押さえたなまえの顔は茹で蛸のように真っ赤に染まっている。無意識下でこれまでの不満を垂れ流していた真一郎が己の言葉に隠されていたものに気付いて、目を丸くしたのちになまえ以上に赤面した。
 それから数拍ののちに、先ほどまでとは比べものにならないほどのやさしい声音で告げる。
「なまえのこと好きみたいじゃなくて、好きなんだよ。ずっと昔から」



春がくるのはあなたのせいです

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