昔見た映画のワンシーン。敵に追われる主人公が片思いする女性との電話を盗聴されて、結果的に彼女にも危険が迫ることになった際のやりとり。まだ付き合ってもいない、彼に好きとも言われていないのに「どうして私まで追われるの?」と女性が尋ねる。するとすぐに彼はこう答えた。

「俺の喋り方でバレた。――君が好きだと」

 追ってくる敵を鮮やかに返り討ちにするほどの力を持っている男であっても、たったひとりの大切な女性の前では何も取り繕うことはできないのだということが伝わるこのシーンは、映画の冒頭、たった数秒なのにやけに記憶に残っている。たとえ敵に追われるような生活になるとしても、こんなことを口にしてくれる人と一緒になれるのなら幸せだろうと思った。そりゃあもちろん、誰かに追われる人生なんて送りたくなんてないけど。

 この映画を見たのはもう何年も前のことなのに突然思い出したのは、映画の主人公とは正反対の感情も抑揚もへったくれもない声で「今日、メシ」と電話越しに言われたからだった。この一言が意味するのは「今日、おまえの家にメシを食いに行くから用意しておけ」という身も蓋もない要求だ。最初の頃はもう少し長い言葉で伝えてくれてたような気がするが、どんどん簡略化されていつのまにかたった二つの単語に収束されていた。

 相変わらず端的に自身の用件を伝えるだけですぐに通話を終わらせる彼は、もし電話を盗聴されることがあったとしても言外に含まれる感情を読み取られるようなことは無いのだろう。
 そっけない一言がきっかけで好きな映画のワンシーンを思い出すなんてとんだ皮肉だとは思いつつも、身体は自然とキッチンへ向かってしまうのだからどうしようもない。



「……一時間後に来てってメッセージ送ったじゃん」
「んー? ああ、そうだっけ」
「てか鍵渡してあるんだから自分で開ければいいのに」
「わざわざ出すのだりぃ」

 春千夜によって数度インターホンが鳴らされたのは、エプロンを頭からすっぽり被って、冷凍庫から取り出した豚肉をレンジで解凍し始めてすぐのことだった。

「まだ何も出来てないよ」
「別にいい」

 革靴を脱ぎがてら、玄関扉を開ける私の頭を大雑把に撫で付けた春千夜はひょいと慣れた様子でスリッパに足を通して廊下を進む。扉に鍵とチェーンをかけてからその背を追うと「ん、」と振り返った春千夜が、手首に巻き付けていたピゲの腕時計を落とすように渡してきたので慌てて両手でキャッチする。

「あっぶな!」

 落とすまいと必死に手をぎゅうと握りこむ私の姿をちらりと見て鼻で笑った春千夜は、緩く間延びした声で「ナイスキャッチ〜」と口にしてそのまま洗面所へするりと入る。私の年収を優に超える額の高級腕時計をポイッと投げるようなこの男が「家に入ったらすぐに手を洗うこと」という約束をきちんと守ってくれるようになったのは、大きな成長なのかもしれない。

 洗面所の水音を背に、そんなことを考えながらキッチンへ戻る。もちろん、春千夜から預かったピゲは丁寧にテーブルへ置いてから。本当はハンカチでも敷いてその上に置きたいところだけど、前にそう置いたときに春千夜に死ぬほど笑われて以来やっていない。ひとしきり笑って「俺より丁重に扱われてんのがウケる」と口にした春千夜がハンカチの上に鎮座する腕時計の写真を撮っていたのは多分一生根に持つ。


 青い丸皿には千切りにしたキャベツを敷いて、その上に豚の生姜焼きを乗せる。白い花の形の小鉢には昨日の残りのかぼちゃの煮物。それから小松菜となめこのお味噌汁と、白いご飯。
 ローテーブルへふたり分のお皿をとんとん並べて座ると、ソファからむくりと起き上がった春千夜が上から覗き込むように身体を寄せてくる。

「すげー和食」
「文句言うな」
「文句じゃねェって、感想だよ感想」

 ソファからずるりと落ちるようにしてラグへ腰を落とした春千夜はシャツの袖を捲りあげ、手元の割り箸を持ち上げた。うちに春千夜専用のお箸は置いていない。彼と知り合った当初、まさかこんなにコンスタントに家に訪れるようになるとは思っていなかったからだ。そのままずるずると、買い揃えることなく月日が経ってしまった。こだわって買ったお気に入りの食器の傍らに毎回割り箸を置き続けるのはどこかアンバランスな作業に思えてしまうけれど、私と春千夜の関係を考えればこれくらいのちぐはぐ加減が丁度いいのかもしれないとも思う。

 早速味噌汁に口をつけた春千夜に倣うように私も箸を取りつつ、軽く横目で彼の顔を窺う。ちぐはぐなんて言葉とは真逆の造形をしたうつくしい横顔は、食事中でも崩れることはない。長さも量も備わった睫毛が伏せられて、目元にはかすかに陰が落ちる。薄い唇を開いて、小さな顔の割に大きく誂えられた口をもぐもぐと動かして頬を膨らませる春千夜の姿を見るのは好きだ。

「うまい」

 けど、こうして飾り気のない素直な言葉で褒められるとどうしていいかわからなくなる。だからつい目の前の卓上に並ぶ茶色ばかりの料理とは正反対の色をした、彼が普段から携帯しているどぎつい色の錠剤を思い浮かべて「……マンチだからでしょ」と、可愛げの欠片もない返事をしてしまう。ああいった薬の作用で、特に空腹でもないのに何を食べても美味しいと感じてしまう状態のことをそう言うらしい。こんなの、普通の人と、普通に生きていく上では不要な知識だ。

「ハァ? おまえンとこ来る前に食ってきたことねーわ」

 売り言葉に買い言葉。まさにそんな勢いで返ってきた言葉にすら一喜一憂してしまうのは私が彼に惹かれているからに他ならない。そうなんだ、私の家に来るときはそういうモノに頼らなくてもいいって思ってくれてるんだ。

 ――なんて、思ったのと同時に、テーブル上に置かれた彼のスマホが振動して着信を知らせる。
 どうやら仕事用ではなくプライベートで使っている方のスマホのようだった。無防備に置かれた画面に視線を向けると、女の子らしき名前が表示されていた。喜びに緩んだ頬を真横から叩かれたようなタイミングに、背筋がすうっと冷たくなる。可愛い名前の子だね、なんて口にする余裕はなく、それでも出来うる限り平静を装った声で「どうぞお構いなく」と伝えてから私も自分のスマホを手繰り寄せた。

 春千夜が何人もの女の子と関係を持っていることはよく知っていた。自分はきっと特別でも何でもなく、そのうちの一人だということも。

「明日? あァ〜……、多分行ける」

 私の目の前で他の女の子と電話をするのだって、特に珍しいことではない。最初の頃は、隠す気とか無いんだこの人、って驚いた。だけどこれまでの人生で出会った誰と比べても春千夜は異質で、特別で、まったく違う世界の住人なのだと思えばそんなの大したことではなくなった。
 春千夜と決して短くない期間を過ごした今では、彼が他の女の子と話している場面を見ることは一種の確認作業だと思えるようになってしまった。「今日、メシ」と私に指示するときと同じ温度の声音で他の女の子にも話しているのだと、確認する。そこでようやく私はほっと息を吐くことができる。

 もしも、いつか。とろけるような甘い声で、彼が他の女の子の名前を呼ぶ日が来たら。彼の中で特別な女の子が出来たら。私なんか簡単に捨てられてしまうのだろう。ずっと目を背けていた事実に向き合うと、私ばっかりが春千夜のことを頼りにして求めているのは何だかアンバランスで、ひどくこわいことのように思えた。

 だからつい、何かに縋りたくなってしまった。
 「明日仕事のあと暇? 肉食べに行かない?」と数時間前に友人から届いた食事の誘い。明日は特に何も予定は無かったものの、メンバーを尋ねたところ「私と、私の彼氏と、彼氏の男友達」というなかなか攻めたラインナップを提示され、途端に腰が重くなり返事をしていなかった。友達とその彼氏はともかく。彼氏の友達には会ったことがない。

 けど、この流れに身を任せてみるのもいいのかもしれない。神も仏も信じていないくせに、このタイミングでの誘いは神様のお告げかも、なんて都合のいい解釈をして自分を奮い立たせる。そしてつい先程までは断る方向に傾いていた天秤を土台からひっくり返すように「行く!」と半ばやけっぱちなメッセージを返して、スマホをテーブルに伏せた。



 カーテンの隙間から漏れる朝日に照らされたこんもり膨らむタオルケットを撫でると、ああ、とか、んん、とか、言葉になる前の半端な掠れた声が寝室に響いた。

「私、もう会社行くけど家出るときは鍵しめてってね」

 私の呼びかけに反応したのか、タオルケットからはみ出た春千夜の腕がベッド上で何かを探すように上下左右に動き回る。そしてその手がぱったり止まると、「おまえマジ、いつの間に起きたんだよ……」と気怠げな低い声がタオルケットの内から聞こえてきた。

「一時間前かな」
「……ヤり逃げされた女の気分」
「朝からなんてこと言うの」

 タオルケットからのろのろと顔を出した春千夜の丸出しになったおでこに手のひらをぺちんと当てる。寝起きで意識がぼんやりとしているからか、叩いたことに何か言ってくる素振りはない。それを良いことにしみもにきびも無い真っさらなおでこをすりすり撫でると、重たげな睫毛がゆっくり持ち上がった。くっきり刻まれた二重まぶたの下にある瞳が私の姿を捉えて、「なまえ」と寝起き特有の鼻にかかった声で呼びかけられる。返事をするより早く春千夜の指が手首にぐるりと巻き付いて、そのままダイブするようにベッドに勢いよく引き込まれた。待って、私、髪も巻いたし化粧も済んでるんだけど。

「うわっ、」

 咄嗟に手を突いて顔から飛び込むことは避けられたものの、春千夜に抱き込まれる形でベッドに寝転がってしまった。乱れた髪の毛が視界の端に入り、すぐに起き上がろうとした私の腰に長いおみ足を巻きつけてホールドした春千夜が「耳元でうるせェ」と理不尽な言葉をぶつけてくる。

「……今日、おまえ何すんの」
「さっきも言ったけど仕事だってば、もう行かなきゃ」
「その後は」
「恵比寿でご飯食べる」
「誰と」
「友達……、と」

 どう答えるべきか逡巡し、ほんの少し言いよどむ。自分から聞いてきたくせに「ふうん」と興味があるんだかないんだか分からない相槌を打った春千夜が、掴んだままだった私の手首を持ち上げてまじまじと視線を向ける。ずるりと這い上がるように手首から前腕に辿り着いた春千夜の指先が、内側の柔らかい部分でぴたりと動きを止めた。前腕の内側。春千夜のそこには、ススキと月の刺青が刻まれている。彼が一等大事にしている王への忠誠の証だ。もちろん私の身体には刻まれていない。それなのに春千夜の指は、何もないただ柔らかいだけの部分を押すように撫で付ける。

 そして、何食わぬ顔で薄い唇をぱくんと開いた、次の瞬間。

「いっ!?」

 前腕に感じる強い痛み。目の前にある春千夜の小さな顔は吸い寄せられるように私の腕にくっついていて、すっと通った高い鼻を邪魔そうにしながらがじがじと無遠慮な力加減で噛み付いている。力いっぱい腕を引いてみてもびくともしない、柔らかい部分を齧り取られたかと思うほどの強さ。

「ばか、ホントばか! 痛い! なに!?」

 あまりの痛みに泣きそうになる私の姿を視界に捉えつつ、春千夜は最後にべろりとひと舐めしてからやっと腕を解放した。くっきりと刻まれた歯型を満足げに見つめた春千夜は「あー、……何となく?」と悪びれる様子もなく口にする。

「何となくでこんなことしないでよ。会社の人に見られたらどうすんの……」
「俺の時計してくかぁー?」
「するわけないでしょ」

 件の高級時計を指して意地の悪い笑みを浮かべる春千夜に、思わずじっとりとした視線を送ってしまう。そもそも腕時計で隠せるような場所でもないし。せめてもの抵抗の証として歯型の上にてらりと光る唾液を春千夜のTシャツで拭い取ると「信ッじらんねえ」と苦々しい顔で言われたけど、それはこっちの台詞だ。
 結局いつもより10分も遅く家を出ることになってしまったし腕には歯型をもらうしで、散々な朝になった。



 私と友人とその彼氏、そして彼氏の男友達という初めてのメンバーで行われた食事会は想像以上の盛り上がりを見せ、その結果私は終電を逃すという失態を犯してしまった。しかし幸いというかなんというか、友人と彼氏がふたりで暮らしているマンションが飲み屋から比較的近かったため泊まらせてもらうことになった。すると「それなら俺も行く」と彼氏の男友達も申し出て、結局四人でタクシーに乗り込んで家飲みでまたひと盛り上がり。

 こんな飲み方をしたのは学生以来だなあ、なんて思いながらテーブルに突っ伏す体勢で眠る友人の顔を見遣る。友人の彼氏も、その男友達もそれぞれラグの上に転がって寝息を立てている。

 壁掛け時計に視線を向けると時刻はすでに深夜二時を過ぎていた。時間も時間な上にお酒も口にしているし、私も本来ならとっくのとうに眠りこけているはずだった。だけどいくら待っても睡魔は訪れず、試しにソファの上で寝転がってみても目は冴えていくばかり。今日初めて会った異性が同じ空間で寝ているから、無意識に気を張ってしまっているのだろうか。

 こうなったら仕方ないと眠ることを諦めて起き上がり、スマホを手に泥棒のようにそろりそろりと足音を立てないようにベランダに出る。外に置かれた小さなベンチに腰を下ろしたところで、ようやく肩から力が抜けていくのが分かった。アルコール臭と寝息が充満する部屋から飛び出して清潔な外気を吸い込むと、火照った頭がだんだんとクリアになっていくようだった。

 友人は、私と男友達をくっつけたいと思ってるんだろう。
 春千夜の存在は友人にも話していたけれど、全てを包み隠さず教えることはできなかった。それこそ彼の仕事や私の他にも関係を持ってる女の子がいるなんてことは口が裂けても言えなかった。存在するのかしないのかわからない虚像を語るように話す私を見て、一般的な恋人同士とは程遠い付き合いをしていることを察してしまったのだろう。
 そして、それを心底心配してくれているのだということは今日の食事会での言動からもひしひしと伝わってきた。私と彼と友人カップルの四人でデートしたり、旅行に行ったり、こうしてただ誰かの家に集まってわいわいお酒を飲み交わすのはきっと楽しいに決まってる。現に今日だって楽しかった。

 だけど、やっぱり何かが違う。腕に刻まれた歯型に触れると、朝よりも凹凸が薄くなっていた。こんな歯型をつけられても許してしまうのも、料理を作って出迎えてあげたいと思うのも、隣で寝たいと思うのも、甘やかしたいのも、心配してしまうのも、一緒にいたいと思うのも。私の行動原理はすべて、春千夜だった。

 心の拠り所はたくさんあればあるほどいい。安寧や安定とは対極の地で生きる彼に己のすべてを預けるなんてギャンブルにも程がある。頭では理解しているはずなのに。春千夜だけに頼ることなく生きたいのに。彼と一緒に居られるなら無下に扱われたって構わないとさえ思っているのだから、どうしようもない。

 握りしめたスマホを明るくして、春千夜とのメッセージ画面を開く。最後のやり取りは今日の昼。「家の鍵ちゃんとしめた?」「しめた」ただそれだけの文字の羅列を何度も読み返しているうちに、今、どうしても春千夜の声が聞きたいと思った。真夜中のベランダで座っている私を、ひとりじゃないと思わせて欲しかった。

 衝動のままに「起きてる?」とメッセージを送る。大した用もないのに連絡を取るのは初めてのことで、すぐに後悔の念が押し寄せる。春千夜のことだ、面倒くせえ女、と呆れて何も返してくれないかもしれない。少し待って既読がつかなければ諦めればいい。ごめん、間違えた、やっぱり何でもないって送ればいい。

 最悪の想定を頭の中で何度か繰り返していると、突然、暗がりの中でスマホがパッと明るく点灯した。視線を向けた先には春千夜からの着信を知らせる画面が表示されていて、驚きのあまりスマホが手から滑り落ちそうになる。画面が眩しくて読み違えたのだろうかと矯めつ眇めつ眺めてみても、画面には変わらず彼の名が表示されていた。画面をタップして恐る恐る「もしもし」と控えめに問いかけると、それに被せる勢いで「出るのおっせーよ」と言葉が返ってくる。本当に、春千夜だ。

「……どうした」

 こちらを窺う声の後ろからは車が行き交う音が聞こえる。外を歩いているのだろうか。

「なんか眠れなくて」

 改めて口にすると、我ながらなんて面倒くさい女なんだろうと思った。「それだけで電話してごめん」と謝ると、「べつに」と平坦な声で返される。

「いつもは三秒もありゃ、ころっと寝てるくせに珍しいこともあるもんだなァ」
「自分の家ならそうだけどさ」
「……今、どこいンだよ」

 テンポの良いからかうような口振りからやや間を置いて、低い声でそう尋ねられる。

「友達の家」
「トモダチ、ねえ」

 春千夜の口から飛び出すにしては些か違和感のある言葉に乗せられたどこか勘繰るようなトーンには触れずに、自分の気持ちを素直に吐き出す。

「春千夜の声聞いたら寝れるかなーって思って」
「ンだ、そりゃ」

 拍子抜けだと言わんばかりのため息まじりの声が耳を震わせた。それが何だか穏やかで心地よくて、自分が真夜中のベランダにいることも忘れてしまいそうになる。今なら本当に三秒で眠れるかもしれない。しかし続けられた春千夜の言葉によって、その思いは一瞬で霧散して消える。

「てっきり、今日俺が女と会うの知って牽制でもしてえのかと思ったわ」
「……あ。そうだったごめん! 電話切ったほうがいいよね」

 昨晩春千夜が女の子と電話していたことを思い出して、頭のてっぺんから爪先にかけて冷たいものが通り抜けていく。こんなの、更に輪をかけて面倒くさい女じゃん。咄嗟に終話ボタンに伸びかけた親指は「会ってねェから別にいい」という声ではたと止まる。会ってないんだ。確か昨日の電話のときは、春千夜の都合も良さそうだった気がするけど。急に予定が変わったのだろうかと問いかける前に、春千夜が息を吸い込む音が耳に入る。
 
「つーかテメェは、女と会うことに文句の一つも言えねえのか」

 そう言われて、閉口する。今までそんなこと考えてみたこともなかった。春千夜が私以外の女の子と仲良くしているのは当たり前のことで、それに対して異を唱えるなんてしようとも思わなかった。そんなことを口にしたら、もう春千夜の隣にはいられなくなるってわかってたから。それに、なにより。

「……そんなこと言う権利、私には無いし」

 ぼそりとひとり言のように呟いた私の言葉に対して、「は、」と息を吐き出した春千夜の声に被せるタイミングで、ガラリと背後のベランダの戸を開く音が響いて頭上に影がかかる。

「あ、なまえちゃん、いないと思ったらここにいたんだ」

 耳にスマホをあてたままの体勢で振り返ると、そこにいたのは友人の彼氏の友達、其の人だった。
 彼とは今日初めて会ったが、一日で友達と言えるくらいの仲にはなれたような気がする。会社員をしていて、明るくてフレンドリーで、お酒が好き。あと映画も好き。彼について知り得た情報を頭の中で並べ立てていけばいくほど、不思議なことに私の中に存在する春千夜の輪郭がはっきりと際立っていくようだった。

 ベランダに片足を下ろした彼が「って、ごめん電話してたんだね」と声のボリュームを落とした。その手に電子タバコが握られているのが目に入って、思わず声を上げる。

「あ、待って、もう切るから平気だよ。こっちこそごめんね」

 室内に戻ろうとする彼の服の裾を軽く摘んで引き止めつつ、ベンチから腰を上げる。タバコを吸いにわざわざベランダまで出てきた彼と、大した用もなく思いつきで電話をするためだけにここにいる私。どちらが優先されるべきかなんて分かりきっていた。春千夜に一言告げてから電話を切ろうと再びスマホを耳にあてると、電話の向こうは静けさに包まれていた。さっきまでは風の音や車が行き交う音が聞こえていたのに。

「私から掛けといてごめん、電話――」
「オイ」

 切るね、と言いかけたのを遮るように春千夜の低い声がぼとんと落とされる。寝起きで掠れた声よりも、空腹で不機嫌な声よりも、今まで聞いてきたどんな春千夜の声よりも低く、苛立っているように思えた。無意識に「え?」と聞き返すと更に苛立ちを内包した声で返される。

「だから、今の声はどこのどいつだって聞いてンだよ」
「友達、だよ」

 隣に立ったまま、電子タバコを口に添えて探るような視線を向ける彼に口パクで「きにしないで」と告げる。

「……そいつとふたりでいんのか?」

 春千夜の問いかけに答えるべく掃き出し窓越しに室内を見遣ると、友人とその彼氏はまだぐっすりと眠っていた。

「今はそうだね」

 返事の代わりに聞こえたのは空気を圧縮したような重厚な音。どこかで聞き覚えがある。次いでエンジン音が唸りを上げたとき、ようやくさっきの音は彼が愛車のドアを閉めた音だったのだと理解した。

「今から迎えに行くから、荷物まとめとけ」
「え?」
「恵比寿っつってたか? ンなら20分もありゃ着く」
「いや、……え、なに?」
「何度も言わせんな、迎えに行くから今すぐ位置情報送れ」

 迎えに行くって言った。春千夜が。こんな真夜中に。私なんかのために。喜びよりも困惑が勝って、情けなく震えた声が出る。

「もう、夜中のニ時だよ? いいよ迎えなんて」
「テメェが良くても俺が良くねえ、以上。黙ってひとりで玄関にでも座ってろ」

 相変わらず人の返事を聞かない春千夜は自分が言いたいことだけ早口で告げると、すぐさま通話を終了させた。これじゃあ電話の意味が全くない。手元のスマホを呆けた顔で見下ろしていると、横から声を掛けられる。

「電話終わった?」
「あ、うん。……なんか、知り合いがたまたまこの近くにいるみたいで、迎えに来てくれるって」

 こんな深夜に迎えに来るなんて、ただの知り合いではないことは明白だった。それでも彼は深く追求せずに「そうなんだ」と電子たばこを咥えた口で控えめに笑った。
 春千夜は来ると言ったら来るし、やると言ったらやる。例え止められたって、自分の考えを容易に曲げる人ではない。はあ、と深く息を吐き出して気持ちを切り替える。ここに居ても眠れる気はしなかったし、ちょうどいいかもしれない。

 春千夜は位置情報を送れと言ってたけどさすがに友人の家の真ん前まで迎えに来てもらうのは申し訳なくて、友人の家の最寄り駅名をメッセージで送る。恵比寿から電車で数個離れた駅だ。恵比寿方面に向かって車を走らせる春千夜にとっては誤差の範囲だろう。
 
「駅まで来てくれるみたいだから、もう少ししたら出るね」

 画面を暗く落としたスマホを握りしめて室内へ戻ると、タバコを吸い終えた彼も後ろから着いてくるようだった。部屋に散らばった自分のカーディガンやポーチを拾い上げつつ「この子が起きたら、私帰ったって言っといてくれる?」と寝こけた友人を指してお願いすると、彼は一度頷いてから何やら思案顔で口を開いた。

「じゃあ俺、駅まで送るよ」
「いやいや! そんなの悪いって」
「真夜中に一人じゃ心配だし、俺もタバコ買いたいしさ」

 思わぬ申し出に目を丸くする。確かに時間も時間なだけにこのまま女ひとりで外に行かせるのは気が引けるのだろう。しかも友達伝手で知り合った女が相手では、尚更そう思うのかもしれない。「ひとりで大丈夫だよ」「いやいや」「ほんとに、駅までそんな離れてないし」「俺もこのままじゃ気になって寝らんないしさ」そんなやり取りをしている間も壁掛時計の音が急かすように部屋に響く。

 想定し得るなかで最もあってはならないのは春千夜と彼が鉢合わせることだ。その次に、私がひとりで出歩いて危険な目に遭うこと。最悪の二択を頭の中に浮かべて、いや、そもそもこうして考えてる時間が勿体無いと思い至る。春千夜がこちらに着くまでは20分程ある。それなら今すぐ彼と一緒に外へ出て、駅に向かう途中のコンビニで彼と別れればいい。ここで彼と押し問答を繰り広げるよりそのほうがよっぽど建設的だ。

「……ありがとう。じゃあ私、途中のコンビニでタバコ奢るよ」
「まじ? ラッキー」


 程なくしてマンションのエントランスを出ると、夜の暗さと静けさを一身に受ける。都内とはいえ、さすがにこの時間にもなるとほとんど人の気配はない。彼と一緒で良かったかもしれない。あとで改めてお礼を言わなくては。
 私のパンプスのヒールと、彼のサンダルの踵が地面に擦れる音だけが住宅街に響く。ちなみにこのサンダルは、友人宅の玄関に転がっていたのを彼が勝手に拝借していた。ふたつだけの音に耳が慣れてきた頃、彼が「あのさ」と話を切り出した。

「……迎えに来るのって、彼氏?」
「え、」
「なんかなまえちゃんが、大変な彼氏と付き合ってるって聞いて」

 大変な彼氏、という表現に思わず笑ってしまう。大方私の友人からの情報なんだろう。友人がどんな風に彼に伝えたのかはわからないけど、この場で深く説明するのも否定するのも憚られて、控えめに首肯する。

「うん、そうだよ」
「そっか。やっぱそうだよなー、こんな時間に来るんだもんな」
「……彼氏って言っていいのかもわかんないくらいの人だけどね」

 へらりと笑う彼に毒気を抜かれて、つい本音が口から漏れる。口にするとなんて虚しい関係なのだろうと思った。それでも、大変な彼氏だけど、大変な分だけいとしく思えるのも確かだった。
 すると不意に、隣の彼の足音が止む。身体ごと振り返ると、三歩分ほど後ろで立ち止まっている彼と視線がぶつかった。そして、彼はどこか意を決したような表情で口を開く。

「それなら、俺が、――」

 俺が、……何だろう。
 いつまで待っても続かない言葉に首を傾げると、中途半端に口を開いたままの彼の目が驚きに見開かれる。視線が向く先は、私の顔の横。どうしたの、と三歩分の距離を詰めようと足を動かした、次の瞬間。

「こいつが、おまえのオトモダチ?」

 ひどく不機嫌な、剣呑な声が背後から聞こえゆっくり振り返る。否、振り返る前からこの声の主が誰かなんてわかりきっていた。

「はる、」

 振り返った先。手を伸ばせば届くほどの距離に、春千夜は何の気配も感じさせることなく立っていた。いつもの三揃えのスーツ姿で現れた彼は、脱いだジャケットを気怠げに腕に引っ掛けてこちらに鋭い視線を向けていた。

 何でここにとか、どうしてもういるのとか、そんな気持ちがない交ぜになった末に口から滑り落ちた彼を呼ぶ声はまるで幽霊でも見たかのようなトーンだった。そんな私に何を言うでもなくただ鋭い視線を向けた春千夜は、スーツのジャケットを乱暴に私の肩に掛けるとそのまま長いおみ足で私の横を通過していく。私なら三歩分の距離を一歩半で詰めた春千夜が、彼の目の前に悠然と立つ。想定し得るなかで最悪の邂逅が目の前で起きてしまった。

 咄嗟に春千夜の腕を掴むと肩に掛けられたジャケットがずり落ちそうになって、この場にそぐわないムスクのような香りが鼻を掠める。

「彼は、タバコ買うからそのついでに着いて来てくれただけで、本当に」

 どう考えたって聞こえないはずはないのに、私の言葉に何も反応を示さない春千夜は目の前の彼の頭から爪先までを値踏みするように睨めつけていた。

「あの! ごめん、また連絡するから、タバコは今度会ったときで」

 春千夜を前に身を固くする彼に向かってそう伝えて暗に立ち去るよう促すと、彼が返事をするより早く「あァ?」と春千夜の低い声がぼとんと落とされた。

「ここまで送ってくれたお礼がしたくて、本当にそれだけ、」
「お礼、ねえ」

 吐き捨てるみたいにそう口にした春千夜は、私の肩に掛けたままのジャケットを徐に見遣ると、内ポケットに乱暴に手を突っ込んだ。そうして取り出したのは、タバコの箱と黒い名刺入れだった。それが意味するところがわからず「なに、」と漏れた私の声に視線だけ寄こした春千夜は流れるような動作で名刺入れから一枚抜き取り、それをタバコの箱の上に重ねた。

「じゃあこれ、やるよ」

 そしてその言葉とともに右手で差し出すと『梵天 三途春千夜』と大きく書かれた名刺が真っ先に視界に飛び込んでくる。
 真っ暗闇の中で街灯に照らされた春千夜の前腕は浮かび上がるように白く、その真ん中に大きく彫られたススキと月の刺青は異様なほど際立って見えた。それを視界に捉えたのは私だけではなかったようで、差し出された彼が息を呑んだのを空気の震えで感じる。名刺と、刺青。そして春千夜が放つ異様な雰囲気と存在感。全てが彼の恐怖を煽っているようだった。

「紙は吸わねえか?」
「いや、そんな、」

 口篭る男の手首を掴んだ春千夜が、「遠慮すんなって」とタバコの箱と名刺を無理やり握らせる。箱がグシャッと音を立ててひしゃげようが、男が身体を震わせようが全く意に介さない様子の春千夜はギリギリと傍目に見てもわかるほどの強さで男の手首へ力を込めていく。

「これでお前となまえの関係は終わり、一生会う必要ねえよな」
「……痛てぇ、」
「なァオイ、オニーサン、聞いてる?」
「………っ、」
「オイ、聞いてんのかって、」

「――春千夜!」

 男の顔を下から覗き込むようにして凄む春千夜を目の前にした私の頭からは、今居るのが真夜中の住宅街だということがすっかり抜け落ちていた。とにかく春千夜を止めなくてはと、それ以外のことはひとつも考えていなかった。
 「ンな、でけぇ声出さなくても聞こえてるっつーの」と逆に窘めるように言われて初めて、自分がいかに必死になっていたのかを自覚させられた。春千夜の言葉の矛先がこちらに向いて、少し安心する。

「朝から晩までキャンキャンキャンキャンうるせェなテメェはよ」
「……うるさくさせてるのは春千夜だよ」

 ため息まじりにいつものように軽く返すと、春千夜を前に身を縮こまらせたままの彼が驚いたように目を見開いたのがわかった。それから、きっともう二度と会うことはないのだろうということも。

 「違いねェな」と上機嫌に片方の口角をつり上げた春千夜が「俺もさあ、別にオニーサンを苛めたいわけじゃねェんだよ」と続ける。そんなのは口だけだと、この場にいる誰もがわかっていた。

「テメェはただ頷けばいい。それ以外何も言うな」

 派手な髪色に、刺青。一目見ただけで吊るしではないと分かる仕立ての良いスーツ。手首に掛かる重たそうな装飾品。それらを纏ったおそろしく見目の整った男がほとんど脅迫のような言葉をぶつけてきたら、頷く以外の選択肢は無いだろう。男がゆっくりと頷いたのを蛇のような鋭い目で見届けた春千夜が、ようやく拘束の手を緩めた。

「分かってくれりゃいいんだよ、うちのが世話んなったな」

 立ち尽くす私の手から鞄を奪い取った春千夜が、反対の手で肩を抱き込んで歩き出す。すべてから守るように、遮断するように囲い込まれては、道端に置いてきぼりにした彼を振り返ることも横目で見ることすら叶わない。彼は今の一瞬で、一生分の恐怖を感じたかもしれない。本来なら交わるはずのない人種と関わらせてしまった。もう二度と会うことはないだろうけど、せめて友人伝いに謝れるだろうか。それすらも難しいかもしれない。

「……考え事なんて、ヨユーだなァなまえちゃんは」

 私の顔を見下ろして、意地の悪い声でそう口にした春千夜はすぐ近くに停めてあった車のロックを解除して後部座席のドアを開き、私の荷物を半ば投げるように放り込んだ。それに続いて後部座席へ座ろうとすると、私の肩を力強く掴んだ春千夜が「テメェはこっちに決まってんだろ」と助手席に押し込む。革張りのシートが軋んで、車内に充満する春千夜の匂いに包まれる。すぐに春千夜も運転席へ乗り込むかと思っていたのに助手席のドアは開いたままで、見下ろした先にある彼の革靴はその場から動く気配はない。頭上から突き刺さる視線と沈黙に耐えかねて恐る恐る見上げると、心底不愉快そうな面持ちの春千夜と視線がぶつかった。

「……おまえ本当さァ」

 いつも以上に低く冷たい不機嫌な声が落とされて、思わず身構える。

「珍しく自分から連絡してきたと思ったら男と一緒にいるだ? 頭イカれてんのか」

 ぶつけられた刺々しい言葉に理解が追いつかず、咄嗟に言葉が出てこない。春千夜の顔を見つめたまましばらく言い淀んでいると、重たげに見えるほどくっきりと刻まれた二重瞼の下にある瞳がどこか訝しげに細められていくのが見えた。自分の意志すら口に出来ない女だと、つまらない女だと失望されただろうか。それは嫌だと、途端に悔しくなって震える指先を握り込んで口を開く。

「……春千夜にとって私はたくさんいる女の子のうちのひとりかもしれないけど、私は違うんだよ」

 泣きたいわけじゃないのに勝手に涙がじゅわりと滲むのが自分でわかった。大人のくせに、情けない。それでももう引っ込みがつかなくなって、口が勝手に動く。

「春千夜がいなくなっても大丈夫なように用意しておきたいの」

 顔を見られたくなくて下に向けると、革靴が一歩、車体に近付くのが見えた。

「それくらい許してくれたって、」

 いいじゃん、と続くはずだった言葉は春千夜の咥内に沈んだ。助手席のシートを倒して雪崩れこむように覆い被さってきた春千夜の大きな手のひらが頬を掴む。どこにも逃げ場はない。ほとんど噛み付かれるようにくっついた唇が好き勝手に動いて、離れたと思ったらまたくっつく。唇が離れた隙になんとか息を吸い込むと、すぐにまたその息ごと持っていかれる。何度も何度もそれを繰り返してようやく離れる頃に薄目を開くと、しっとりと濡れたお互いの唇の皮が最後の一片までぴったりとくっついているのが見えた。
 やっと解放された私は息を吸うのに必死になっているというのに春千夜はひとつも呼吸を乱すことなく、まるで呪詛のように言葉を吐き出す。

「許すわけねえだろ」

 上から囲う形で見下される瞳には私しか映っていないのに、それでも彼の瞳は行き場を失った子どものように心許無げにぐらつく。

「俺がいなくなる前提で話してんのも、」
「俺がいなくなっても幸せに生きていこうとしてんのも」
「何回おまえの家に行ったってずっと割り箸ばっか出して俺の箸用意しねえのも」
「朝起きたらさっさとベッドから出ていくのも」
「あんなつまんねえ野郎に尻尾振ってんのも」
「全部、死ぬほど、殺してやりてえくらい、クソ腹立つ」

 まくし立てる勢いで放たれた言葉のひとつひとつが私の身体に這うように絡みつき、揺さぶってくる。とろけるような甘い声なんて、そんな表現とは似ても似つかない。だけど、どんな声音よりも雄弁に感情を伝えてくるのも確かだった。

「春千夜、わたしのこと、めちゃくちゃ好きじゃん」

 うんともすんとも言わない春千夜が、どこか呆れたような、だけど切り捨てることも出来ないような表情で私を見つめる。

「……だったら、おまえはどうすんだよ」

 口の両端に刻まれたダイヤモンドが、柄にもなく不安げに揺れ動いている。この言葉は彼なりの至誠だと思った。素直じゃなくて、頑固で、飽きっぽくて、高慢ちきで。そのくせ、大事なものを見つけてきては彼なりに不器用に大事にする、他の誰よりもうつくしく生きる三途春千夜という人間の精いっぱいの至誠。それに報いるには、私の何を差し出せばいいのだろう。私が持てる何を差し出したって足りない気がした。

「……どうもしない。今までと変わらず、春千夜のそばにいる」

 伸ばした指先でダイヤモンドに触れると、たっぷりの睫毛に囲われた瞳が見開かれる。何を差し出したって足りないのなら、差し出せるようになるまで一緒にいればいい。

「だから、これからも一緒にいてもいい?」

 尋ねると、ほんの一瞬だけ、幼子のように目をまるくさせたのが見えた。だけどそれは瞬きをする間に終わる程度の出来事で、すぐにいつもの無感動な表情を浮かべてこちらを見下ろしていた。

「ハナっからそれでいいって、言ってんだよ」
「そんなこと言ってないし、聞いてない」

 漏らした不満に「ハイハイ」と適当な相槌を打った春千夜は助手席からひょいと身を起こした。倒されたシートの上で置いてきぼりにされた私を鼻で笑った春千夜に「ん」と両腕を伸ばす。

「……随分でけえガキだな」

 言葉の割に優しく、腕を引っ張られる。身を起こした私の髪の乱れを整えるように撫でつけた春千夜は、朝の再現みたいに私の前腕の内側に指を這わせる。

「つーかおまえは、せめて箸買ってやるくらい言えねえのかよ」

 朝よりも薄くなった歯型をぼんやり見下ろしていた私の顔を片手で軽く潰すように挟んだ春千夜が、その手を左右に揺らす。

「……ほかの、女の子と連絡取るの止めてくれたら、お箸買ってあげてもいいよ」

 頬を潰されたまま言うにしてはだいぶ上から目線な言葉は、けんかしたあとの仲直りのじゃれ合いのひとつだと、別に本気ではないと、春千夜もわかっているはずだ。

 呆れたように笑われるかと思っていたのに、次の瞬間聞こえてきたのは、カシャン、と何かが固いアスファルトに何かが落ちた音だった。音を辿って車の外へ視線を向けると、それと同時に春千夜の革靴が地面に転がったその物体を思い切り踏みつけた。

「え、」

 春千夜の身体を押し退けて彼の足元を見遣ると、小さくきらきら光る硝子の破片と、粉々に砕かれた液晶画面がアスファルトに散らばっていた。これはきっと、私用のスマホ、だったもの。今はただの硝子片。それらを視認した途端、ひやあ、としたものが背中を駆け巡っていく。

「ほんっと、間抜けな面」

 そう言って片方の口角を上げた春千夜は、「これでもう文句は言えねえよなァ?」と耳元で囁いた。彼の至誠はひどく暴力的で、手荒で、過激だ。それでも、そんな彼につよく惹かれる。私は、彼の至誠が向けられる唯一だとそう思ってもいいのだろうか。
 地面と春千夜の顔を交互に見比べる私の鼻先を摘んだ彼に、問いかける。

「……ピンクの箸にしたら怒る? かわいいやつ」
「折る」

 即座に答えた春千夜の声は、どうか私以外の誰にも聞かれていませんようにと願わずにはいられないほど穏やかで、それがもう彼の答えなのだと思った。



しせいに溺れろ

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