(内容の一部に性的・非倫理的描写が含まれております。)

 ミネラルウォーターをうまく飲み込むことができなかったので、彼が貧乏揺すりをしていることに気づいた。口内に入り込まなかった一滴が、ぽつりと雨のようにシーツの上に降り落ちる。私は無言でその冷たさを見下ろしたのち、横で静かに苛立つ男に視線をやった。下に履いているのは派手な色のスラックスで、この部屋に訪れる直前まで着ていたシャツはベッドの脇に捨てるように放り投げられている。繊細なストライプが入ったベストとネクタイは入り口の扉の前で眠るように倒れ込んでいた。何も身にまとっていない上半身は不気味なまでに血色が悪く、けれど華麗に彼を包み込んでいた。
「さいっあくの気分だ」
 男はそう言って私のことをきつく睨んだ。薬がまわっているのか酒がまわっているのかなど関係ない。彼は私を抱いたあと、必ずそう言うのだ。
 関係は希薄だが、その感想のような罵倒にはもう慣れてしまった。なので私は何事もなかったようにもう一度ペットボトルのふちに口をつける。それに余計腹を立てた男は、私の手を自身の手の甲で強く払い、ミネラルウォーターを床に落下させた。茶色い絨毯だったため、そこに沁み込む水滴が血の色のように映る。数年前に彼が私の恋人を目の前で殺害したことを思い出し、私は一度、瞼を擦った。
「むっかつくんだよ。てめぇとのセックスは何も満たされねぇ。大して気持ちよくもねぇし、痛がってばっかだし、首締めたら喚くしよ。つまんねぇんだよクソ」
「……じゃあ、私と寝るのはもうやめたら」
 体育座りをしながら、なるべく小さな声で私が言う。すると男は数秒フリーズし、時期に「名案じゃねぇか」と高らかに笑った。続けて「少しは賢くなったか」と唇の傷の片方をシールを剥がすように一度掻いて、私にキスをした。そのまま肩を強く押され、私たちはもう一度セックスをした。
 このようなやり取りを、もうたぶん今年の夏に死んだ蝉の数ほどしている。ちなみに彼は、記憶を失っているわけではない。まぁ確かに気はおかしいので忘れていることも多くあるのだろうが、流石に回数が回数だ。すべて把握した上で、私が自分を満たす存在でないことを知りながら、私を呼び、私に触れる。その理由は未だに謎であり、私も私で何故毎回のこのこと男の誘いにのってしまうのかは分からない。
 抵抗して殺されたくないからだと言ってしまえばそれはそうなのだけれど、彼はセックスをしたあとに女を何度か殺している。私の知る限りでは去年の夏に一度、一昨年の冬に二度。新宿の早朝、華々しいドレスをまとった女性がホテルで死んだニュースを眺めているとき、隣で朝食をとっていた彼が「こいつ昨日ヤった女だ」と頬杖をつきながら言っていたので間違いない。だから私が彼に会う理由などないはずなのだ。会ったところで、会わなかったところで、殺される確率は変わらない。未だに運よく首の皮が繋がっているだけで、何も変わらないはずなのだ。

 三途春千夜とはじめて出会ったのは彼がまだ高校生のときだった。学校に行っていたかは知らないが、年齢はそのくらいの歳だった。繋がりが繋がりを呼んで、一度だけ会話を交わした。彼の髪は今より長い金色で、美しい造りをしていたものの、随分と不穏な容姿だという印象を受けた。これ以上踏み入ったら危険だという匂いしかせず、私は彼と深く関わることを避けた。
 しかし次に街で偶然会ったとき、私は何故か彼と寝た。その日三途の機嫌はすこぶるよく、妙なハイテンションというよりかは、私を抱きたくて仕方がないといった年相応の少年のようだった。「はじめて会ったときからかわいいと思ってたんだよな」と恍惚な眼差しで手の甲を撫でられて落ちない女などいないだろう。その先に待ち受けたものが死であった女たちを思うと何て浅はかで愚かなきっかけだろうと胸が痛むが、きっかけというものは愚鈍の塊である。新たな文化も、人の生命も、国の破滅も、人の死も、総じてそういうくだらないきっかけのせいで生まれるものだ。
 はじめての夜、私を抱いた三途は私の首を絞めて殺しかけ、そのあともう一度私を抱いた。早朝になるとやはり、「つまらなかった、最悪の気分だ」という言葉を吐いた。

 それからも彼とコンスタントに会っていた、なんてことはなく、一年会わないときもあれば、週に二回会う月もあった。要はすべて彼次第なのだ。
 会わない期間の間に、私は三回恋人を作った。今はもう全員死んでいる。二人は知らないところで、最後の一人は目の前で殺された。まるで音沙汰のなかった三途が突然現れ、非常に簡単に殺したのだ。渋谷の路地裏、深夜二時の出来事だった。彼は私のこめかみに拳銃を突きつけながら、「裏切りはどこにだってありふれている」と冷たく言い放った。私は過呼吸を引き起こした。そうして一時間三十分ほど経過したあと、三途は拳銃を懐にしまい、私の背を撫で、ひどく充実した顔をして私を優しく抱きしめた。

 朝の四時を迎えたタイミングで、備えつきのタブレットから食事を頼んだ。泥のように溶けてゆくバターがのったトーストを一口齧った三途は、うっと吐き気を催したようで、洗面台に駆け込んだ。私はその間一人で黙々とサラダを食べていた。油っぽいドレッシングをかけすぎたせいで正しい味は分からなかった。けれどきっと特別美味しいわけでも、不味いわけでもなかったと思う。
 結局彼は何も食べずに、煙草を吸いながらしばらく無言でスマートフォンを弄っていた。そして暇つぶしのように時折どうでもいいことを聞いてきた。私は律儀に返事をしたが、それに対する相槌や返事は何もなかった。いつものことだ。

 それから二人でホテルを出て、汚れたアスファルトを踏みながら、下水道のような都会の匂いを嗅いだ。その香りには噎せ返ることなく、三途は毅然と街を歩いた。私もその後ろをとぼとぼと追いかけた。
「タクシーで帰んの?」
「いや、高いから。始発のバスで帰ろうかな」
「はっ、学生かよ。だせー」
 普段なら人通りが多い街だが、この時間ともなればまばらなものだ。彼は私を時折振り返り、「ビンボー人」と指をさして引き笑いをした。私はそれに少し苛立ちながら、街に溶け込む人々を眺めていた。ゴミ捨て場に溜まる非行少年になりたがっているような子供たち。街に色彩を加える役割を担う死体になっていない女たち。世界のすべてを否定するような正しい正しいスーツ姿の社会人。それらを目にやったあとで、私は壁にぶつかった。正確に言えばそれは壁ではなく、三途がただ立ち止まっただけだった。
「どうしたの?」
 私は彼の肩を叩き、顔を覗き込む。その表情は、私が未だ見たことのないものであった。
「三途、そいつ誰」
 自分以外の人が彼の名を呼んだことにより、その人が彼の知り合いであることに気づいた。藍色の空の下に佇む男のシルエットは黒く、小さく、粛然たるものであった。
 三途は右頬に短い汗を流すと、私を自分の背に隠した。彼の知り合いに会ったことはあるが、そういう風にされたのははじめてだった。
「マイキー、……何で、こんな変な時間に、こんな人が集まる場所に」
「具合が悪くて眠れなかった。人、そんなのいるか?」
 背は私とさほど変わらない少年のような男は、塵を見るように辺りを見渡した。そして目の隈をより一層深くするようにその線を微細に動かした。三途は隠しきれないくせに、私を自身の背後にぴったりとくっつけている。
「なぁ、三途。オレの質問聞いてたか」
「え、あ……、あぁ」
「その女は誰だ」
 三途は怯えているわけではなかった。むしろこの男に対してだけは、きちんとした振る舞いを心がけているようだった。けれど意に反して、男の質問には壊れたテレビのような反応をすることしかできないようだった。三途は最後にもう一度私の身体を自身の半歩後ろにやった。
「こいつは、そこらへんにいた奴で、マジで大した女じゃなくて、ボスが気にかけるほどの女じゃ……」
「オレが誰だって聞いてる」
「で、でも本当に、全然大した女じゃないんです」
 三途は一度俯くと、弱々しく笑った。男は冷めた表情を浮かべ、口を開く。
「そこらへんに転がってる死体と一緒か」
「あぁ、そうです! そうなんですよ!」
 私は何故三途が嘘をつくのかが分からなかった。またその嘘は、私を守るためのものではなく、どちらかと言えば三途自身を守るためのもののような気がした。明確な根拠はないけれど。
「なるほど、じゃあどうなってもいいんだな」
「え……?」
「死体と一緒なんだろ」
「いや、でも、こんなつまんねぇ女、あんたが殺す必要ありますか? それならオレが……」
「何で殺すんだ? 連れて帰れ」
「……は?」
「街の匂いが染み付きすぎている。とりあえず風呂にでも入れろ。そのあとオレのところに案内しろ」
 シンプルな黒色をまとった男は、それだけ言うとすぐに坂を下りはじめた。足音はまるで響かず、今が朝でなければ雑踏に埋もれてしまいそうな脆さがあった。
 彼が通り過ぎたあと、三途はしばらく呆然と立ち尽くしていた。どうするかを考えている様子ではなく、どうしたらいいのか分からなくなっているようだった。混乱、という言葉を脳裏に五回浮かべたところで、三途がようやくこちらを振り向いた。彼は途端に無表情になり、私の腕を引き、先ほどの男が辿った道を進んだ。無表情で、全くの無傷であるはずなのに、身体のあちこちに癒えない痛みを負ったように見えた。どうしてだろうか。

 結局私はバスに乗ることなく、彼が用意した車に身を置いていた。後部座席に二人で並んでいたが、会話は一切なかった。三途は時折窓の外を見て、歯ぎしりを繰り返した。大した風景が整列しているわけではない。
 そのあととても細い道をいくつか通り、立派なマンションの中に連れられた。三途は言われた通り私を風呂に入れ、身体を洗うように言った。浴びた外気を洗い流していると、私はこの短時間で多くのものを失った気がした。
 すべてが終わると三途は私の髪がきちんと乾いているかを確認し、再度私の腕を引いた。彼が私の腕を掴むときは折る勢いで掴むので、正常な引かれ方をしたのには驚いた。まるでもう自分のものではないとでもいうようだった。はなから、私は誰のものでもないはずだったのだけれど。
 三途はその一室を二回ノックして、十秒経過してからゆっくり開けた。彼にそんな緻密な動きができることをはじめて知った。
「終わったか」
「はい」
「なら三途、お前はもう帰っていい」
 そう言われると、三途は誰にも聞こえないように静かに息を一瞬吸って、頭を下げた。そして私を一瞥することなく、扉をぱたりと閉めた。
 私は目の前に座る男を見つめ、呼吸を止める。今から殺される予感しかなかったが、不思議と殺意は感じない。彼は私を「こっちに来い」と手招いて、自身が座るソファの横に誘導した。私は彼の言う通り、その身を彼の横に宿した。すると突然、男が私にキスをした。肩を掴み、服の中に手を入れて、口内に舌を入れた。数秒その行為が続き、私はそれを受け入れた。とても、気持ちがよかったからだ。
「お前、三途と昔から知り合いだろ」
「え……」
「前にも三途とお前が喋ってるところを見たことがある」
 彼はそう言うと、もう一度私に触れるだけのキスをして、頬を撫でた。まるで猫を慈しむような触れ方だった。
「三途はお前と話してるとき、いつも少し違った。だからオレ、昔あいつに言ったんだ。今日バイクで通りがかったときにお前が楽しそうに女と話す姿を見た、あの女が好きなのかって。そしたらあいつはそんなわけねぇって腹抱えて笑ってた。ならオレの好きにしていいかって聞いたら、あいつ何て言ったと思う?」
 私は無言で首を振る。彼ははじめて口角をわずかに緩ませた。失笑だ。
「今日と同じこと言ってたよ。大した女じゃねぇんだ、マイキーが気にするような奴じゃないって。あいつの心の声が聞こえてくるみたいだった。近寄らないでくれって。見ないでくれって。そう目で言っていた。あいつはそのことをたぶん覚えてない。バカみたいだな」
 マイキーと呼ばれるその人は、私の首元に手をかけた。今度こそ殺されると思ったが、彼はやはりそこを優しく撫でるだけだった。そうしてまたキスをした。
「何でだろうな。三途がそういう女を見つけたって思うと、羨ましくて、妬ましくて。途端に欲しくなった。触りたくて、抱きたくて、自分だけのものにしたくなった。だけどそんな子供みたいなことするのは、それこそバカだろ」
 彼は右手で私の腹部に触れて、円を描くようになぞった。くすぐったくて、三途は決してしないであろう触り方がむず痒くて、私は腰を跳ねさせた。
「でも今日、久しぶりに見て、あぁやっぱり欲しいなって思った。いいなって。だからさ、なまえ。ここに来た時点で、お前はもう三途じゃなくてオレのものなんだよ。そうなってるんだ。いや、三途がそうするんだ。少し躊躇ってたけどな」
 一方的に喋り終えると、彼は一生分の台詞を吐いたからとでもいうように、それっきり言葉を発しなかった。ただ黙って、静かに私を抱いた。
 彼のセックスは三途とはまるで違った。冷たくて、皮膚に触れると砂の城のように海に呑み込まれてゆきそうで、怖いくらいに心地いい。三途との行為で快感や快楽を得たことはない。それこそ痛い思いをするばかりで、濡れたことも殆どなかった。
 けれど彼はどうだろう。たっぷりと甘やかすように私を蕩かして、何度も何度も口づけを交わして。私は順応な科学反応を起こすように彼に濡らされた。恐怖感のないセックスというものは素晴らしいと思った。それなのに、どうしてか車の中で聞いた三途の強い歯ぎしりを忘れることができなかった。

 それから幾つかときが過ぎた。カレンダーがないので暦などを明確に把握することはできないが、結露を引き起こした窓ガラスを人差し指で撫で、自身の指が湿っていることを確認した。きっと、正確な冬が訪れている。

 佐野万次郎によって転換された私の人生は、彼の思う通りになっていた。彼は私を何もない限りこの部屋から出すことはせず、自分以外の人間と基本的に対話をさせなかった。三途とは数回会ったが、彼の私に対する接し方はまるで変化していた。非常に素っ気なく、冷たく、殺意すらない。殺意すらない、自分で言っておいて笑える。それを寂しく思っていることが、もっと笑える。
 しばらく経過して三途があまり来なくなったので、「三途に久しぶりに会いたい」と私は言った。するとマイキーは「お前も三途が好きなのか」と問うた。「そういうわけじゃない」と私が首を振れば、彼は「ならそんなひどい話をするな」と目を伏せた。ひどい話、私はひどい話をしただろうか。
 
 朝、目を覚ますと大抵マイキーはいない。眠った痕跡のないシーツと、くたびれていない枕、生活感のない部屋。いつもと代わり映えのない朝だ。ただ、妙な息苦しさを感じたこと以外は。
 部屋に催涙ガスが撒かれたのは、梵天のメンバーの仕業だったらしい。彼らは私が一人でいるときに見張りとして配置されており、普段は下のエントランスから、家の入り口まで合計で四人ほどいる。私は誰かに抱きかかえられて意識を失う寸前までに、いつか拳銃を突きつけられながら言われた言葉を思い出した。

 "裏切りは、どこにだってありふれている"
 
 足元に点滴のパックが落ちていたので、病院にいるのだと思った。非常口の電灯はちかちか点滅していて、辺りはやけに閑散としている。やがて聞こえてくる異様な悲鳴に、私は肩を震わせた。周囲を見渡すと、医者も看護師も患者も誰一人としていなかった。受付、と書かれた標識は割れて床のタイルに転がっている。私はここが「かつて病院だった場所」であることを認識した。
「もうすぐマイキーが来る」
 長い足を組みながら、退屈そうなトーンで彼は言った。私は隣に三途がいたことにようやく気づく。彼は怪しげな薬を手のひらで転がして、飲み込もうとして、やめた。
「お前を連れ出して殺そうとしたらしい。そうすればマイキーを陥れることができると思ったんだと。お前にそこまでの価値があるか?」
 彼が喉の奥で笑う。私は何度か咳をして、自然に溜まる涙を拭った。三途はそんな私に構うことなく、車で偶然通りかかったらエントランスに人がいなかったことや、異様な空気感を察知して、すぐに一人で男四人を捕え、私を抱いて外に出たことを話した。これからマイキーの指示に従い、その男たちを殺すらしい。今は自分以外の誰かがそいつらを少しだけ殺しているとも言った。人を殺すことに、少しも完璧もあるのだろうか。五秒に一度、生と死の間でもがき苦しむ患者の鳴き声のようなものが響く。
「なぁ」
 悲鳴と静寂が交互に訪れる合間に、三途が唇を割った。目の焦点はただ一点を指していた。病室の、壊れたベッドの脚にだ。
「なまえ、もう逃げろよ。どっか遠いとこ行って。そんで前みたいにつまんねぇ仕事して、平凡に退屈に時間を浪費しろよ」
 彼はそう言うと、私の手の甲に一度触れた。しかしそれは本当に一瞬で、まるで流れ星が流れるくらいの刹那で。彼は瞬きをすると、すぐに我に返った。
「違うな、間違えた。お前はマイキーのそばに一生いろ」
 正反対の発言を「間違えた」という一言で済ませた三途は、足を組み直し息を吐く。また悲鳴が聞こえる。わずかに浴びた毒のせいでおかしくなったのか、私は彼の胸に手をあてて、その唇に自身の唇を重ねた。何だかどうしようもなく、彼が愛しく見えたのだ。
「三途が私を逃がしてよ」
 私が言うと、彼は顔を顰めた。そして、「そういうことはもう二度と言うな」と呟いた。自分が最初に言い出したくせに、ひどい話だ。

 数分経って、マイキーがやって来た。彼は私を見るとすっと目を細め、氷のような顔で私を抱きしめ、キスをした。変わらず、私の横には三途がいた。
 彼らは私の元にいかにもガタイのよさそうな男を二人ほど置いた。そのあと、先ほど以上の悲鳴があらゆる病室にどよめいた。埋めた死体を掘り返して、再度殺し続けない限り聞くことのできないような悲鳴であった。

 また一時間ほど経過して、あらゆる箇所に返り血を浴びた三途と、恐ろしいほどにどこも崩れていないマイキーが戻ってきた。彼ら二人が並んでいる姿は、美術館に飾られた絵画のように神秘的だった。
「帰るぞ、なまえ」
 マイキーに腕を引かれ、私は自動的に立ち上がる。「もうあの家はやめた方がいい」と誰かが言って、それに対してマイキーが「別の場所に拠点を移す」と返した。物騒な身なりをした男たちが廃墟のような入り口から出てゆく様は、まるでゾンビでも見ているようであった。
 外に出て、まず空を見た。流れ星どころか、星ひとつない灰色の空だ。息を吐くと嘘みたいに白かった。それが毒ガスと同じ色であることを思うと、何だかとても不思議な気持ちになった。
 車は何台か停まっていた。ゾンビではなく人間であった男たちは、祭のあとの高揚感のようなものを抱きしめながら車内に乗り込んでいた。マイキーに腕を引かれていた私も、その密室に片足を戻そうとした。しかし、それを阻まれた。反対の腕を掴まれていたからだ。その腕を折りたいと言うほど、強く。
「三途、まだ何かあるか」
 マイキーが彼の名を呼んだことで、私の腕を掴んだ男が三途であることを知る。私は彼を振り返る。彼はまた再び、どこか別のところに焦点を定めていた。コンクリートの、蟻が群がる虫の死骸にだ。
 三途は右頬に小さな汗をかいていた。気温は低く、風も冷たい。
「三途、用がないならなまえの腕を離せ」
 マイキーの白い髪がたなびいている。三途は何も答えないまま、息を呑んだ。人が喉仏を動かす様をこんなに美しいと思ったのは人生ではじめてだった。
「……あのな、マイキー」
 三途は自分の声の小ささに驚きながら、マイキーの名を呼んだ。そして「やっぱり、こいつは」と言いかけて、そのあと押し黙った。何台か、エンジンがかかる音が聞こえる。
「いや、何でもねぇ。間違えた」
 独り言のように言うと、三途は私の腕をぱっと離した。マイキーは相槌を打つこともなくそのまま私の腕を引き、車に乗せた。
 反対の扉が開いてマイキーが乗り込む間際に、誰かが三途に声をかけた。「今日もすごい殺しっぷりでしたね」とか、そういう言葉だった。それに対して三途は「そうだな、最高の気分だ」と笑っていた。

 しばらく車が走り続け、赤信号に差し掛かった頃。マイキーは私の首を緩やかに締めた。最後に彼は確か、「三途にもこうされたから、だからあいつを好きになったんだよな」と言っていた。私が一度頷くと、彼は私にキスをした。
 運転手が渋谷の路地へハンドルを切った、深夜二時の出来事だった。



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