ファンシー・ビビッド・イエロー

 しとり、しとりと、窓枠から零れる雨垂れが目の前の大きなガラスを伝い降りてゆく。その雨だれの痕で、店沿いにある道を歩く人々の姿をはっきりと目にすることはできなかったけれど、その人たちが持つ色とりどりの傘が、歩みに合わせて揺れていた。梅雨も本格化してきたこの季節だからなのか、いつもならごった返すはずのおやつ時になってもこのコーヒーショップの店内に客は疎らだ。店前の歩道に面した、窓際のカウンター席には客はわたししかおらず、ひとつ隣の席の方まで資料を広げていても何ら問題はなさそうだった。ノートパソコンのキーボード部分に乗った自分の手は一向に動きだそうとせず、来週末の講義でプレゼンに使うつもりのスライド資料も、タイトルと、元になるレポートから『研究の目的』という項目を書き写す途中で止まってしまっている。自宅では集中できないからと、折角ここまで足を伸ばしたというのに、なんだか今日はモチベーションが上がらないみたいだ。そばに放ってあるスマートフォンのたったひとつしかないボタンを押すと、目には「15:26」という時刻と一緒に今日の日付が入り込んで、すぐに端末を裏返す。今の今まで忘れていたというのに、ひとりになって、雨が降っていて、なんだかぼーっとして、思い出してしまった。――こんな日にひとりになるんじゃなかった。

「また抹茶フラペチーノ?飽きないね」

 耳元で、唐突に落とされた呟きはひとりでにわたしの肩を跳ねさせる。驚きのせいでプラスチックカップに手が触れて倒してしまいそうになり一瞬肝を冷やしたけれど、まろやかな緑色のフラッペが入ったそれはしっかりとそこで静止したままで、そっと肩を撫でおろした。わたしは、このチェーンのコーヒーショップに入るときは、ほとんどの場合抹茶フラペチーノを選ぶ。そのことは、親しい友人ならば大体が知っていることだったけれど、今耳元で聞こえたような、若い男でそれを知っている人間と言えば、彼しか思い当たらないのだ。振り返り際、視覚を刺激するまぶしいくらいの金糸の髪。整い過ぎている顔つきは、記憶のものとそれほど変わりはなかった。

「うわ」
「『うわ』って。ひどすぎ」

 少しオーバーリアクション気味に肩をすくめてみせる様子も、脳裏に鮮明すぎるほどに焼き付いたものだった。まるで頭の中を読み取られてしまったように、目の前に現れたのは、先程ふと思い出した彼――黄瀬涼太だったのだ。涼太とは同じ海常高校の出身で、一・二年時は友人として、そして三年時は恋人として、わたしの高校生活を丸ごとかっさらって行った人物である。二度と戻ることのできない輝きをたたえた甘さと苦さは、今でも時折、わたしを揺さぶってゆく。そんな不安定な気分でいるときに彼本人と、しかも六月十八日の今日、偶然はち合わせてしまうなんて。そんな偶然があるのだろうか。わたしは夢を見ているような心地に襲われた。六月十八日、――涼太の生まれた日。

「……なにやってんの、こんな日にひとりで」
「あれ、誕生日覚えててくれたんスね」
「……一応ね」
「じゃ、あれ言って。オメデトーって」

 彼の誕生日をしっかり記憶していることを指摘されて、わずかに身体が震える。わざとそっけない振りをしてみても、彼は特に気にした様子もなく決まり文句をねだるものだから、びくついてしまったことはきっと気づかれていないのだろう。それに、元彼の誕生日を覚えていたって、別に不思議なことは何もない。過剰に気を張っている自分自身の様子に、どくんと嫌な感じが全身を巡った。

「……おめでと」

 何でもない様子を装うのに必死だったわりには、『お』の音が震えていた気がする。勝手にひとりで気まずくなってしまうわたしをよそに、彼は「ありがとう」とべっこう飴の色をした瞳をとろりと溶けさせた。眩暈が、する。本当に何も変わっていない。そんなふうに、こちらをぐずぐずにさせる頬笑みを浮かべるところ。そのすがたを見た人のすべてが、きっと彼の虜になってしまう。わたしの臆病な部分は、いつだってそれに怯えて、震えて、遠ざけていた。いっとう好きだった彼の優しい表情が、なによりも一番、疎ましかったのだ。
 血液が逆流するような嫌な感覚を受け流しながら、ちゃっかり隣の席へショルダーバッグを下ろす彼のためにテーブルに広げた資料を掻き集める。こちらの了承もなしに同席することを決めたらしく、スツールに腰を落ち着けてしまった。溜め息を吐き出しながら、掻き集めた資料をクリアファイルにまとめて、トートバッグのなかへしまう。薄型を売りにしているノートパソコンもシャットダウンをして、液晶画面を畳んだ。これでもう、今日のプレゼン準備は完全におじゃんになってしまった。わたしが資料作りなんかしているすがたが珍しいのか、じっとこちらを見ている涼太に振り返る。

「なんでひとりなの?彼女は?」
「今はいないっスよ。たまには静かな誕生日もいいかなって」

 世の中の女性に独り身を放っておかれそうには到底思えない彼だけれど、本人はその状況を存外楽しそうに語ってみせた。喉元で詰まっていた息が、無意識にぬるく吐き出されていて、わたしは震える。彼に特定の相手がいないことを、『恐れ』ている。白いコットンのカットソーの上に羽織った薄手のカーディガンは、わたしが見たことのないものだ。確かに経過した時間はそのカーディガンが証明しているのに、服の下で静かに鼓動する胸は、あのときの感情が目覚めはしないかと慄いている。
 視線を窓の外へ向けた。穏やかな雨は、いまだに窓ガラスをしとりしとりと濡らしている。

「……県内の私大にいるんだっけ」
「そ。神奈川気に入っちゃって。ていうかよく知ってるっスね」
「そりゃ、あんたのことは嫌でも耳に入ってくるし」
「嫌でもって。気にしてくれてたのかと思ったのに」

 涼太は、本当によく目立った。同じ高校に通っていて、涼太のことを知らない人なんて生徒教師を問わず一人もいなかったし、好き嫌いはともかく、涼太をかっこいいと思わない女生徒はいなかっただろう。そんな彼の進路は、そのときすでに彼と別れていたわたしの耳にも、聞く聞かないを選択する間もなく飛び込んできた。そのときのわたしは、まだ涼太との別れをきれいに消化しきれていなかったから、正直なところ涼太のことなど耳に入れたくはなかった。けれど、自分と違う大学に進むのだと聞いて、ほっとしたような、さみしいような、複雑な感情が湧きあがって、まだ残っていた彼への思いにそっと胸を痛ませていたのを覚えている。それが今、こうして出くわしてしまった偶然によって少し蘇っているのかもしれない。胸の中がざらついて、服の胸元を静かに握った。

「なまえは国立だっけ。頭良かったもんね」

 平然と言ってのけたその言葉に、思わず面食らった。わたしが彼の進学先を知っていたのは、彼の認知度ゆえの噂話が、否応なしに耳に飛び込んで来たからだ。けれど、彼とは違いわたし自身に彼のような認知度はない。わたしの進学先を誰かが噂するようなことは絶対になかっただろうし、それなりに親しい友人くらいにしか進学先について話したことはなかった。もちろん、彼にも。彼が自発的に誰かに聞いて回らなければ、知り得ない情報だ。だからわたしの進学先を涼太に知られていたという事実は、思いのほかわたしを驚かせる。

「……そっちこそ、よく知ってるね」
「そりゃ、元カノのことは気になっちゃうもんですから」

 視線をしっかりと捉えたまま、涼太は笑う。きれいで優しくて甘やかな笑顔に見惚れてしまうことに、言い訳をする必要などひとつもない。それくらい、魅力的な人。そしてそれこそが、涼太からわたしを引き離したのだ。
 別れを告げたのは、わたしだった。涼太は驚きに顔を染めて、別れたくはないと追い縋った。わたしはその手を取って抱き締められたい思いで潰されそうだったけれど、彼の腕の中にいることが、そのときのわたしにとっては途方もないほどの恐怖だったのだ。美しい造形をして、心根も素直で優しい。少し捻くれてしまった性格だって、庇護欲を震わせるものでしかない。そんな彼を、誰が嫌悪するというのだろう。わたしじゃなくたって、すべての人が、彼を好きになる。ひとの好意に晒され続ける彼に、わたしは慄いたのだ。彼の心変わりを危惧したのとは違った。好意や羨望をその一身に受けていられる、そんな人の腕の中にいることを、そのときのわたしは許容することができなかった。底知れない嫉妬や、感じたくもないはずの優越感が身体中を染め上げていくのを感じて、膝が震えた。彼の知らないところで、ひとりでに醜くなってゆくのが恐ろしくて、わたしは彼の腕の中から逃げ出したのだ。
 べっこう飴の色をした瞳が、怖い。わたしの黒く淀んだ部分が、じわじわと露わになってしまう。さっと視線を逸らしたわたしに、涼太は何も言わずにスツールを降りた。

「いい加減オレ飲み物買ってくるわ」
「あ、奢るよ」
「いいってそんなん。そのかわりもうちょっと付き合ってよ」

 カウンターに向かおうと背を向ける間際、「ね、」とわたしに言い聞かせながら、涼太はまたあの目をする。甘くて、優しくて、いまにも溶けそうな、わたしだけに向けられていた、あの目。嫌な感覚が、相変わらずわたしの中をぐるぐると回っている。あの目といい、雰囲気といい、本当にあの頃と変わっていない。けれどそんなことがあり得るのだろうか。わたしが『変わっていない』と頭の中で比べているのは、高校時代に恋人同士だった、わたしに恋をしていた黄瀬涼太だ。頭の中のその人と、いま目の前にいる彼が、ほんとうに、ちっとも、あの頃と変わっていないなんて。
 嫌な感覚と、違和感。馬鹿馬鹿しい勘違いを、わたしは溶けかけたフラペチーノと一緒に飲み下してしまうのに必死だった。

 しばらくして涼太はその手に、チョコレートクランチのフラペチーノを持って戻ってきた。甘いものが好きで、流行りものに弱い彼は、こういう期間限定のフレーバーをすぐに試したがる。贅沢なデザートドリンクを、満足そうな顔をして咀嚼する様子は自然とこちらの笑みまで引き出してしまう。「うま、」とご満悦な感想を漏らすけれど、すぐに頬杖をついて、雨に濡れた窓ガラスを見つめると溜息をひとつ。

「静かな誕生日もいいとか言ったけど、やっぱさみしいっスね」
「贅沢だなあ。早く彼女作ったらいいのに」
「んー、でも、」

 複雑な気持ちが渦巻いているのを隠して、寛大な元恋人のふりをしてみせる。だって、久しぶりの再会で心が揺れているなんて、言えるはずがないのだ。そうやって未練など欠片もないふりをして軽い笑みを浮かべることしか、選択肢は残されていない。それなのに、金糸の奥でべっこう飴色の瞳を濡らす男は、それをあっけなく飛び越してしまうのだ。

「好きな女の子を泣かせるのはあれで懲りたから」

 その口振りは、間違いなくわたしたちふたりが共有した、あの時間を示している。こちらが必死で、これからの話をしようとしているのに、涼太は指先ひとつでくるくると時計の針を巻き戻す。いまでも奥深くまで根を張ったあの時間を、掘り起こして、目の前で広げて見せるのだ。――ほらここに、あんなに甘くて幸せで、せつない時間があったんだよ、と。

「じゃあもう、これからは泣かせないようにがんばりなよ」

 わたしにとってのあの時間は、甘くて幸せでせつないだけのものではなかった。内側から溶けだしてくる嫉妬や優越感で自分のからだが否応なしに黒く染まっていくのを、自分だけが察知して、見て見ぬ振りをして、それでも彼の腕の中にいたままでは、決して晴れることのないものだと悟った、淀んだ時間でもあったのだ。けれど涼太の手は、その時間を上から撫でるようにして隠してゆく。その瞳とまるっきり同じ色をしたべっこうを、とろり、とろりと塗り付けて、固めて、その壁と涼太の姿に阻まれて、こちらからはもう見えないように。

「……それは、なまえ次第かな」

 静かな声は、その声量に反してわたしのからだをひどく震わせた。ほとんど無意識のうちに見上げた涼太のべっこう飴色の瞳は、何度見ても変わらない、わたしに恋をしていた頃と同じ色をしているのだ。
 深く、深いところに、あのときの時間を埋めてしまっていたのは、掘り起こされて露わになってしまったのなら、もう戻れないことをわたしはきっと知っていたから。

「オレ、なまえのこと泣かさないようにがんばるよ。だからなまえももう泣かないで」

 心臓のあたりで揺らめいていた違和感が、カチリと、あるべき場所を見つけたようにはまり込む。涼太の時間は、止まってなどいなかった。ずっとその飴色の瞳の球面で、乱反射を続けている。その景色が、わたしの瞳に張った水面を震わせて、揺らがせて、もう耐えられなかった。

「あーあ、泣かないでって言ったのに」

 頬を伝ってくる涙の冷たさはこれっぽっちも感じないのに、その涙を掬い上げた涼太の指先の温度だけは、じわりと肌の奥へ染み込んでゆく。喉が震えた。最後にこの手に触れたのはいつだったか、はっきりと思い出すことはできない。それでも確かに覚えのあるぬくもりが、今でもはっきりと思い出せる、あの黒く澱んだ気持ちを呼び起こしてしまう。声も、震える。

「……だってわたし、やきもち妬いたり、涼太と付き合ってることに優越感感じたり、するよ。そんなのいやだ」
「なにそれ。そんなの気にしてたんスか」

 涙と一緒にこぼれ落ちてくる声は案の定ガタガタで、その声で形になる言葉はわたしの醜い感情をそのまま伝えていた。それなのに、涼太はそれを、『そんなの』と言って、息を吐き出しながら笑い飛ばしてみせる。涼太が、自分をステータスにされることが嫌いだと知っている。束縛されることが嫌いだと知っている。けれど、笑っているのだ。どこか、恍惚とした面持ちで。飴色の瞳から、今にも蜜が溢れそうに。――微笑んで、いる。

「いいよ。なまえのものにしてよ。ブランド品みたいに思っちゃってもいいよ。それでもオレを好きでいてよ」

 テーブルの上で、涼太は掌をわたしのそれへそっと重ねた。べっこう飴色の瞳は、ただの一度も揺らがない。あまやかで、まっすぐで、澄みきって、けれど奥底まで見えはしない色のまま、微動だにせず緩く細められている。一切の揺らぎもないまま、自分をわたしのものにして、ブランド品のように思って、それでいいのだと笑っている。重ねられた手に、力は少しも込められてはいなかったけれど、この手を逃がすことはきっとできないのだろうと無意識が悟った。

「なまえのこと、いままで一日も忘れたことなかった」

 視界をぼやかして、溶かしてしまいそうな甘い輝きに、わたしは目が眩んでしまう。







 オレの傍に居続けることに耐えられなかった愚かな子。嫉妬と優越感を抱えて醜くなることを恐れたうつくしいまでに純粋ないとしい子。あのまま腕の中に捉えていては、うつくしい心が壊れてしまいそうだったから、あのときは仕方なく手離した。でも次はもう間違えない。嫉妬も、優越感も、すべて許して、すべてを白だと教えてあげる。目尻からとろりと溢れる蜜を飲み干して、もう一度ここへと迎えるのだ。オレはあのころから何ひとつ変わっていないよ。
 頭の中で『ハッピーバースデー』と高校生の黄瀬涼太が笑っていた。
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