10

 重く湿った空気と雨のにおい。星の光らない空は黒く霞んでいる。雨の日に特別な思い入れなんてなかったけれど、それはあの日を境に変わってしまった。雨に濡れた姿で、心細そうに自分を見上げる彼女を見つけた、その日から。

「……好きです」

 そう言って、小さく掻き消えそうな言葉とともに、一粒の涙をこぼした彼女の姿に、自分の胸は静かに熱く、そしてたしかに震えた。

 事件の次の日の朝、なまえさんは店にやって来なかった。今まで避けてしまっていたことを謝って、去り際の悲しそうな表情の理由を聞くのだと意気込んで弾んでいた肩は、彼女がやって来なかった事実を理解すると、すっかり沈んでしまってその日一日元に戻ることはなかった。事件に巻き込まれた直後だからと、落ち着くために会社を休んだりしたのだろうと結論付けて気持ちを持ち直したのだが、次の日も、そのまた次の日も、一週間が経っても、彼女が店に顔を出すことはなかった。
 そこでやっと、彼女はポアロに来ることをやめたのだと悟る。梓さんの、『なまえさん、今日も来なかったですね…』という言葉に、ざわざわとした焦りのような、力が抜けるような不思議な虚脱感に襲われた。
どうして、と無意識の憤りで胸が熱い。問おうとしたところで、その答えはすでにわかっている。自分が彼女を傷つけてしまったこと以外に、あるわけがないのだ。うぬぼれだということもわかっている。それでも、そうでなければ、この焦燥感をどこへ向ければいいのかわからなくなってしまう。――せっかく、この気持ちに名前をつけてやれたのに。
 彼女を探そうと逸る気持ちとは裏腹に、自分の時間は限られていた。自分と、もう一人の自分、そしてまた一人の自分と入れ替わり立ち替わり振る舞って、そのどの瞬間でも彼女のことを探していた。彼女がどこにいるのか探すことなんて、自分にとってはさして難しい問題ではない。だから焦る必要はないというのに、困ったような笑顔と、不安そうな顔とが交互にフラッシュバックする。僕が自分の仕事をこなしている間に、また彼女がおそろしい目に遭っていたら。自分が彼女を見つけたように、他の誰かが彼女のことを見つけていたら。蘇る恐怖と、存在を知りもしない誰かへの苛立ちで頭がおかしくなりそうだった。
 彼女の勤めている会社と駅の間の道中で、朝から夜まで営業している喫茶店。候補の店の近くを通るたび、時間帯を変えて、何度も彼女の姿を探した。眠った時間の感覚もわからなくなった頃、ようやく彼女を見つけたのだ。駅前のコーヒーチェーン店、窓際のボックス席。ぼんやりした顔でマグカップを見つめる彼女の表情に色はなかった。ポアロにいるときはいつだって、春の日の午後みたいに穏やかで、気の抜けた顔をして笑っているくせに。その店のコーヒーを一気に飲み干して苦々しく眉をひそめる姿に、まるで一部を失くして痛んでいるような胸の真ん中のその部分が、瞬く間に埋まっていくのを感じた。
 浮気かと揶揄する自分に強がる言葉を向けることも、こちらを睨んでいるつもりのまなざしが今にも溶けて涙になってしまいそうなことも、僕を責める言葉で自分自身が傷ついていることも。
 そのすべてが、僕を満たした。

「安室さん」

 ――好きだと、言ったのだ。彼女の声が、言葉が、壊れそうに震える音をかたち取ってゆく。
 たったひとつの言葉と、ついに溶け落ちてしまった涙、そしてたしかに自分の名前をこぼして、彼女はこちらを見据えていたまっすぐなまなざしをそっと伏せた。
 ぽつりと、頬に一粒の雨が降りる。まわりの雑踏は、あっと声を上げて足早に過ぎ去ってゆく。少しずつ雨が降り出す街で、立ち止まっているのは僕と彼女のふたりだけだった。

「……なまえさん、僕は」

 彼女の言葉に答えようと息を吸う。満たされたものたちで胸が詰まって、吐き出した声はみっともなく震えていた。そんな声には見向きもせず、彼女は僕の言葉を遮って自分の言葉を重ねる。静かに、線を引くように彼女の頬を伝っていく涙が、雨に紛れてしまうのがひどく口惜しかった。

「勘違いなんてしません。……ス、ストーカーだって思われてもいいです。迷惑かけないようにします」

 ああ、彼女はまだ僕が彼女と距離を取りたがっていると思っている。自分のしたことを考えればそれも当然のような気もしたが、以前の自分より、いま彼女の前にいる自分のことを見てほしかった。安室透なのか、それとも他の誰かなのか、自分にもわからない姿で彼女の前に現れてしまうような、情けない男だ。でも、彼女が呼ぶのはたしかに自分の名前なのだと知っているから、胸が震えた。彼女の涙は自分を思って流れるのだと気付いたから、呼吸が止まる。
 そんな僕がきみを遠ざけたいなんて、もう誰に言えるというのだろう。

「……安室さんのこと、好きでいさせてください」

 ――もう、無理だ。
 手を伸ばして、引き寄せた力は思いのほか乱暴になってしまう。彼女に触れたのはこれで二度目だ。はじめは彼女がバスジャックの車内から転がり落ちたとき。気丈に振る舞っていてもその手はとても冷たくて、僕はその手を握れたことにひどく安堵した。そして、今。腕の中に引き込んだ彼女の身体は、とても熱く、やわらかい。じわりと体温が重なり合う感覚に、心臓がぎゅう鳴いてと熱を放つ。降り続く雨にも、きっと冷まされることはないのだろう。

「……僕は、あなたに嘘をついてる」

 あの夜と同じ言葉を繰り返した。その言葉を聞いて、彼女はかすかに震える。嘘をついているという言葉も、自分のような男は彼女にはふさわしくないのではないかという不安も、あのときから変わっていない。

「あなたに言えないこともたくさんある」
「……そんなの、わたしだって同じです」

 けれど、こうして寄り添う言葉を与えてくれる彼女を手放そうとする気持ちは、跡形もなく消えてしまった。そしてその代わりに、たとえ傷つけても彼女を手放せない、重苦しいエゴを自分の中に認めてしまったのだ。

「それは困るな。僕は、あなたのことはすべてわかっていたい」

 わかっている。僕は狡くて、臆病だ。
 彼女に嘘をついて、なにひとつ本当のことが言えなかったとしても、彼女にはそれを許さないし、この嘘を悟らせて僕から離れる理由にさせるつもりもない。

「……僕とあなたは、対等じゃない」

 背中に沿わせた腕に力を込めた。雨に濡れてまとわりつく髪も服も、気にはならない。ただ黙って腕の中に収まっている彼女のことを、強く強く抱いた。頬をすり寄せて、髪が混ざる。どうか自分から離れていかないようにと、他でもない彼女に祈った。
 僕はすべてをわかって、彼女は何も知らないままに交わされる言葉たちは、詐欺だと言われても仕方のないことだろう。

「それを、許してくれなくてもいい」

 免罪符に過ぎないと、罵ってくれてもいい。「だから」と続けた言葉だけは、本当なのだと彼女に伝わってくれるように強く願った。

「僕をあなたの恋人にしてください」

 好きだなんて、自分には似合わない。そんな柔らかい感情が、自分の中にあってはならない。それに、彼女を不幸にする予感に気付いても、目を瞑ってこの手に繋いでおこうとするような感情が、そんな柔らかいもののはずがない。
 ――けれど、彼女を求めて逸るこの気持ちに名前をつけるなら、たぶん『好き』が一番近い言葉だ。
 なまえさんは、小さく息を呑むようにして呼吸を止めて、僕の着ているシャツの胸元をそっと握る。そして、耳を澄ませなければ聞こえないような声が、雨音に乗せて届いた。

「……許しますよ、安室さんのことなら」

 やわらかい力で胸を押し、視線を合わせた彼女は、涙で濡れた目をして、眉を下げたあの困り顔で笑っていた。うまく言葉にできない衝動が喉の奥から駆け上がって、またすぐに彼女の顔を胸元へ押し付ける。
 彼女は、僕が嘘をついていることも、対等ですらないことも、許すのだと言う。身の程知らずの望みを、僕が望むなら叶えてくれると言うのだ。身体中が震えるような圧倒的な気持ちに、呼吸が止まってしまいそうになる。彼女が自分に与えてくれるものたちに返せるものを、はたして自分は持っているのだろうか。ほんのささいな幸せも、集められるかわからない手だというのに。けれど、やっと集めたその幸せだって、すべてあげてしまっても構わない。――本当だ。

「僕の手の届くところにいて」

 ――ほんとうに、本当なんだ。
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