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 窓の外は、すでにとっぷりと日が暮れてしまっている。初夏に差し掛かった季節は、夕方から夜に変わる時間を過ぎてもまだ少し明るさを残しているのに、今はもうその明るさすらない。今日はせっかくの定時退社だったというのに、平日の貴重な時間を無駄にしてしまった。
 全面ガラス張りの壁面。レトロなルームランプには暖色の明かりが灯って、可愛らしい大学生風のアルバイトの女の子が忙しそうにくるくるとカウンター内を動き回っている。白地に店のロゴが入ったマグカップの中身は、まだ半分ほどを残して冷めきってしまっていた。自分にはコーヒーの良し悪しはわからなかったけれど、何だかとても苦くて味気なかった。あの喫茶店の、ポアロで飲むコーヒーは、そんなこと感じなかったのに。
 ――もう忘れられちゃったかな。
 突然、何も言わずに通う店を変えるような薄情な常連客のことなんて。ため息がひとつこぼれる。
 バスジャックに巻き込まれたあの日から、わたしはあの喫茶店に行くことをやめた。通勤にバスを使うのもやめて、少し歩くことになって面倒だけれど、電車を使うようにしている。店に近付かなくなったのだから当然、彼に会うこともなくなった。それはとても気楽で、肩が軽くなったような心地すらした。会わなければ、彼の言葉に期待してしまうことも、突き放されて傷つくこともないからだ。そのことに確かに安堵しているはずなのに、なぜか彼を忘れることは、どうしてもできなかった。
 事件の日の安室さんは、いままでに見たことのない表情ばかりしていた。彼の手が頬に触れたときの痛みをこらえるような顔。手を握って、祈るようにして漏らす震えた声。そして、車の運転席で、かすかに目尻を赤くして息をのむ姿。
 普段喫茶店で、にこやかでスマートに振る舞う彼からは想像もつかないような表情を見せてくれたことが、どれだけわたしを喜ばせたのか、彼にはわからないだろう。わたしにはその気持ちを隠すことも、なかったことにすることもできなかった。隠せなければ、また突き放されるのだろう。なかったことにできなければ、客として近くにいることもきっとできない。そうやって彼を困らせて、自分を傷つけるだけなら、いっそのこと離れてしまおうと思ったのだ。そうすれば彼に気付かれることなく、自分の気がすむまで彼を好きでいられる。
 まるでストーカーだ。片思いをこじらせた自分の行き着く先に幻滅して、残ったコーヒーを一気に飲み干した。店を出ようとするわたしに、また明日と笑いかけてくれる梓さんはいない。気をつけて、と気遣ってくれる安室さんもいない。来るたびにあの喫茶店と比べて、こんな億劫な気持ちになるのなら、もうこのカフェにも来ないほうがいいのかもしれない。
 店の自動ドアをくぐると、湿った空気が髪をさらっていった。雨が降るのかもしれない。雨が降ると、いつだって思い出すのは、彼とはじめて言葉を交わしたあの日のことだ。

「いつまで浮気を続けるんですか」

 駅に向かおうとしたわたしの背中に、聞き覚えのある声が呼びかけた。名前を呼ばれたわけでもなかったのに、その声が自分に向けられていることを不思議と確信する。

「ポアロから浮気なんて、よっぽど美味しいコーヒーなんですね」

 振り返ってその顔を見れば、思ってもないことを言っているのはすぐにわかった。余裕そうな笑みをたっぷりと浮かべて、こちらをたしなめるような少し意地の悪い眼差し。喫茶店のエプロンをしていない私服姿の安室さんは、呆然と立ち尽くすわたしの近くまで歩み寄って、静かにわたしの言葉を待った。
 どうしてここがわかったのか、自分を探していたのか、聞きたいことはたくさんあったのに、自分の口から出てきたのは、「……はい、おいしいですよ」なんて負け惜しみだった。味わいもしないで飲み干してきたばかりだというのに、そんなことを言うわたしのことを見透かしたように、安室さんは「嘘ばっかり」と眉を下げて笑った。
 嘘ばっかり、なんて、わたしのセリフだ。

「なまえさんが来てくれなくて、梓さんが寂しがってます」

 悲しそうな顔をして、わたしを引き止めようとするのも、あの夜に助けてくれたのも、事件に巻き込まれたとき心配して怒ってくれたのも、たくさん、優しくしてくれるのも、何の意味もないくせに。勘違いしたら困るくせに。突き放すくせに。

「……僕も、さみしいです」

 ――ほら、うそばっかりだ。

「……どうして、そんなこと言えるんですか」

 しばらく安室さんから距離を置いていたわたしにとって、この状況はあまりにも突然だ。急に現れてこんなことを言ってくる彼に、頭の中がパンクしそうになる。状況が理解できないまま、彼の考えていることがわからないまま、突きつけられる言葉に混乱した。頭や目の奥がカッと熱くなって、考えるよりも先に、口から言葉が溢れだしてしまう。

「わたし、安室さんのこと困らせてますよね」
「そんなことありません」

 俯いてしまって、彼の表情を見ることはできない。視界に入っている彼の靴の爪先を睨んだ。そうしていないと、間違ってこぼれてしまいそうだったから。
 困らせているのは、今だって同じだ。冷静に考えることができなくて、今まで身体の奥に眠らせていた本音が声になって出てきてしまう。それなのに彼は、そんなことないと言って笑うのだ。

「……嘘、ついてるって、言ったくせに」

 こんな往来で、人通りだってあるのに、子どもみたいな言い分が止まらない。通りすがりの人たちに見られていることを彼はこれっぽっちも気にしていないようで、本当に子どもを見ているような目で微笑むから、それが余計にわたしの気持ちを煽っていく。
 ひどい人だ。突き放すなら、どこか遠くまで離れていってくれればいいのに、そんな風に優しい顔をして、許してくれない。手を放そうとしたのはあなただったのに。

「はぐらかしたくせに」

 気持ちを思いのまま吐き出した勢いで睨みつけてしまっていた彼の顔は、変わらず優しい。けれど、嘘をついていることやはぐらかしたことを責め立てると、口元は笑んだまま、少しずつその表情を崩して泣きそうな顔をするのだ。そんな顔をさせているのは自分なのだと思うと、今にも彼を抱きしめてしまいそうに、胸が痛んだ。それと同時に、泣きたいのはわたしの方だと喉が熱く震える。睨みつけて込めていた眉間の力が緩んで、それを合図に、震えた喉からひとつふたつと息がこぼれてゆく。
 ――安室さん。誰にでも優しいあなたのこと。わたしに嘘をつくあなたのこと。いろんな顔を見せてくれるあなたのこと。突き放すくせに手放してはくれないあなたのこと。そうやって寂しそうに笑うあなたのこと。

「……好きです」

 ああ、こぼれてしまう。
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