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 喫茶ポアロは、早朝から夜までと営業時間の長い喫茶店だ。駅周辺にあるような、小洒落たカフェとは趣きの異なる純喫茶風の店は、地域の人々や多くの常連客に愛されている。今日は二日ぶりに朝のシフトに入っていた。慢性的な睡眠不足に朝の労働は堪えるけれど、この店はそれほど広くはないから、従業員がひとりかふたりいれば十分に手が回る程度だった。今朝も、同僚のウエイトレスと一緒に、店内の清掃から始め、彼女は軽食の材料の下拵え、自分は倉庫からマスターの選別した豆を運んでグラインダーにかけるなどの開店準備をして、午前七時には開店する。
 朝の利用客は会社員が多いため長居をして行く人は少ないし、オフィス街からは少し離れているから客自体があまり多くない。今朝は開店直後に二、三人のサラリーマンがやってきて、コーヒーをテイクアウトしていったり、十五分程度滞在していったきり客は来ていなかった。

「安室さん、最近なまえさんと話してないでしょう」

 今出てているブレンド以外の豆を補充しようと作業していると、ふたりきりの店内で、唐突に梓さんはそんなことを言う。驚きはしなかったけれど、自分の指先がぴくりと反応するのを視界の端で確認した。

「そうですか?特に変わりませんよ」

 にっこりと笑顔をつくって言うと、彼女は納得いかないといった様子で首を傾げる。特に変わりはないと言いはしたが、梓さんが言ったことが間違いではないことは、自分でもよくわかっていた。
 彼女を――なまえさんを車で送っていったあの夜から、僕たちは以前のように言葉を交わすことはなくなった。厳密に言えば、自分のほうが彼女のことを避けているのだ。彼女が店にやってきたときはできるだけカウンターにはいないようにしたし、接客をするタイミングでも必要以上のことは話さない。彼女はそんな自分を見て、きっと自分が彼女を遠ざけようとしていることを確信しただろう。
 あの夜の別れ際、彼女の言葉に聞こえないふりをして、突き放すように会話を締めくくった自分のことを、彼女はどう思っただろうか。自分のことを避ける僕を見て、傷ついていることを悟られないように作り笑いを浮かべる彼女の姿を思い出す。責められて嫌われてしまっても仕方のないことなのに、それを嫌だと思っている自分がいた。

「……安室さんて、なまえさんのこと好きなんだと思ってました」

 笑顔で話を終わらせようとする自分を尻目に、梓さんはそう畳み掛ける。自分の感情に思ってもみない方向から答えを叩きつけられたようで、どくんと大きく心臓が脈打つ。

「えっ、僕、お客さんに手を出すと思われてるんですか」

 あはは、と笑い声を続けて、冗談らしく返事をした。身体の底がさっと冷えてゆくような錯覚を覚える。この人は、まるでなんでもないような顔をして、こちらが口にするのを躊躇うようなあけすけなことをまっすぐ言葉にしたりするから、心臓に悪い。現に今も、特別なことを言っているとは思っていないのだろう。
 彼女は世間の多くの女性と同じように、他人の恋愛話が好きなようだ。その視線は自分にも向けられていたらしく、自分がなまえさんに対して好意を持っていたように見えたと言ってのける。居心地が悪いような、不快なような、そんな心地がする。否定したくてたまらなかった。
 ――『好き』なんて感情、眩しくて見ていられないし、自分にはきっと似合わない。そんな柔らかい感情を自覚してしまったら、今の自分は大きく崩れてもう立ってはいられないだろう。それに今抱えているこの感情は、そんな風に触れれば壊れる柔らかなものではない。自分自身の立っている場所を自覚して、それでも突き動かされてほしがってしまうような、自分の心臓をふたつに切り分けるみたいな重苦しい感情。そんなものは、きっと受け入れられないし叶わない。だから否定して、なかったことにするのだ。愚かな迷いだと、消してしまったほうがいい。

「……豆の補充終わったので、外を掃いてきますね」

 まだ何か言いたげな梓さんに背を向けて、外用のほうきとちりとりを手に静かに店の外へ出る。湿った風が頬を撫で、そこに髪が張り付くような心地が不快で軽く頭を振った。
 もうすぐ八時になる。彼女が来る時間だ。掃除は早めに切り上げて、倉庫の方に入ってしまおうか。きっと、彼女だって自分とはあまり顔を合わせたくないはずだ。軽く息を吐いて、店先の花壇沿いに集まった枯葉を掃いていく。バスがこちらへ向かって来る音がするから、もしかしたらもう彼女はすぐそばのバス停に降りてきているかもしれない。そう思って顔を上げると、ちょうど自分のそばをバスが通り過ぎていくところだった。

「――――」

 視界の端を横切るバスの様子に、一瞬時間が止まる。バスの先頭、運転席側の乗車口に、男が左側に誰かを抱えるようにして立っていた。右手には、視界にちらと光るものを握っていたように見える。目の前のバス停には、通勤時間にも関わらず、誰かが下車してきた様子はないうえ、乗車待ちをしていた数人が困惑した顔でバスを見送っていた。心臓が嫌な音を立てる。決定的だったのは、振り返った先に見えた、車体後部の電光掲示板だ。全国の多くのバスには、車内で緊急事態が発生した際、車内の人間に悟られないまま、外部に緊急性を知らせる機能が備わっている。それを作動させた際の緊急表示が、あのバスの電光掲示板にも点滅していた。見間違いようもない――バスジャック。
 手に持っていた掃除用具をその場に放り、荒々しい音を立てて店内に戻ると、梓さんが驚いた表情でこちらを見る。

「梓さんすみません、少し出ます」
「えっ」
「戻れないかもしれません、すみません」

 乱暴に脱ぎ捨てたエプロンを彼女に押し付け、慌てた様子で自分のことを呼ぶ声には聞こえないふりをした。走って追いかけていては間に合わない。急いで店の奥にある自分の荷物を取り、車のキーを探り当てながら店を飛び出す。チッ、と無意識に舌を打った。どうしてよりにもよって、彼女なのだろう。彼女を傷つけた自分への罰なのか、なんて、冷静でないことまで考える。
 バスをジャックしたと思われる男が凶器を持つ手とは反対の腕で、人質として抱えていたその人は、みょうじなまえだったのだ。



 車を停めてある近くのパーキングまで走り、素早くエンジンをかける。ハンドルを切り先程の大通りまで出る間に、スマートフォンを操作しある人の電話番号を呼び出した。バスジャック犯の男が持っていたのは包丁のような刃物。服装はちらっと見えただけだが、特筆するところのない普段着で、防弾チョッキの類を仕込んでいるようには見えなかった。さらに、朝の時間帯はどうしても車道は混雑する。そんなときにバスジャックを起こすなど、計画犯とは思えない。ならばおそらく犯人は精神を不安定にしたただの一般人で、テロ組織や過激派団体の人間ではないだろう。そうなると、この事件は公安部でなく刑事部の案件になり、自分が直接動くわけにはいかなくなる。

「――目暮警部、安室です」

 こういうときに、安室透の名前で培った人脈は役に立つ。自分が探偵を名乗っていることを知っており、幾度も事件現場で顔を合わせている刑事たちならば、自分が率先してバスジャック車両を追っていても不思議には思わないだろう。それに、実際にそのバスがアルバイト先の喫茶店のそばを通ったのだから、手を貸すのには十分な理由だ。警察に任せろなどと言われても、強行できる確信も実績もあった。
 カーナビ越しに警部へ状況を報告しながら、バスの通った道に出て、出来るだけスピードを上げながら車と車の間を縫うようにしてバスを追ってゆく。やはり、混雑している道路ではうまく前へ進めなかったのか、緊急表示を点滅させたバスの車体を捉えた。

「バスジャック車両を確認しました。小滝橋通りを高田馬場方面へ北上中」

 車両ナンバーを伝えます、と続けてバスのナンバープレートから正確に番号を告げたのち、パトカーを配備する地点などの確認をして一時通話を切る。バスの様子が少しでもわかるよう、車間距離を取りながら追走するが、バスの後部ガラスは高い位置にあるうえフロントガラスのように大きくはないので、中の様子が見えることはない。けれどそれは、向こうもこちらが追っていることに気付きにくいということだ。
 バスジャックの対策マニュアルは、犯人にコンタクトをとり、要求を受け入れつつ様子を伺い、タイミングを見て突入し、確保だ。もちろんコンタクトをとる段階で説得できればそれに越したことはないが、どちらにせよ、人質であるバスの乗客たちにとって、危険であることに変わりはない。特に、犯人に拘束され、少しの刺激で傷つけられかねない彼女は、きっと恐ろしい思いをしているのだろう。
 ぎゅっと奥歯を噛み締めた。彼女が怖い思いをしているのを、ただ見送った自分が情けない。けれど自身の不甲斐なさを嘆いても同じこと。努めて冷静に前を見据えて、頭の中で一度、彼女の名前を呼んだ。
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