息の根を止めてごらん

 カーテンを閉め切ったままの自分の部屋では感じることのない朝日の眩しさ。他人の立てる音で目が醒める。それを煩わしく感じさせないのはただひとりだけだった。のんびりと、くるくる踊るように動く後ろ姿が振り返って、

「あ、起きた。おはよう」

 ――喉に酸素が滑り落ちる。

 彼女のその声を聞いて初めて、呼吸をしたような心地がする。そんな欠陥品の身体になってしまった記憶はなかったけれど、そんな世迷言を信じられるような感情を持ってしまった覚えはある。
 さらりとした綿のズボンを履いただけの姿でベッドを降りて、ベッドの上にかけてあった自分のシャツを羽織った。真ん中のボタンを一つだけ止めて、ダイニング兼リビング兼寝室の部屋から、薄緑色のコードスクリーンで隔たれただけのキッチンにいる彼女の方へ向かう。コードスクリーンを割って、「おはよう」と先ほどの返事をすると、もう一度「おはよう」が返ってきた。

「朝ご飯作ろうと思うけど、食べるよね?」
「うん、いただこうかな」

 コンロのそばに置いてあるキッチンボードの上で、使い慣れた動作でケトルのスイッチを押すと、彼女はこちらを振り返っておかしげに笑う。すると白い手がおもむろにこちらへ伸びて、肩辺りに垂れた俺の髪をすくい上げた。いつもふわふわなのに、くしゃくしゃになっちゃってるよ。そう言って、手に取った髪の一房を指にくるりと巻いて、そのまま指を滑らせるように落としてゆく。なすがままにされてしまっている自分は、彼女の突然の動作にうまく笑えないで、自分がどんな顔をしているのかすらわからないでいる。そうやって何気なく触れてくれるのが、うれしくて、腹のなかには途方もないあたたかさが溜まっていくのを感じるのに。
 そんな自分の様子に気付きもしないまま、なまえはキッチンでの作業を続けていて、ほっとしたような残念なような、複雑な気持ちになって肩を竦めるしかなくなってしまうのだ。

「なにつくる?エッグベネディクトとかは無理だよ」
「なんでもいいけど、どうしてエッグベネディクトなの?」
「だって時明、そういう優雅なのばっかり食べてるイメージ。――シャケ好き?」

 冷蔵庫の中を覗きながら、こちらには視線をやらずに好き勝手な想像を繰り広げるなまえは、冷凍庫のドアを開けてジップロックを取り出して、それからやっと目線が合う。ジップロックの中には、薄い橙色をした鮭がふた切れ。鮭の向こうで、至極当然という顔をして彼女がこちらを見ていた。

「……シャケ」
「うん、シャケ。きらい?」
「……ううん、すきだよ。シャケ」

 シャケ、なんて初めて言った。おかしくなって思わず息を漏らすと、そんなにシャケ好きなの、と見当違いのことを言ってなまえが笑う。彼女は、このおかしさの意味をちっとも理解していないのだろう。でも、理解していないままで構わなかった。へたくそな笑顔を作ったまま、好きだよと答える。よかった、と彼女はやはり気付きもしないではにかむ。――ああ、ほんとうに、すきだよ。



「美味しかったよ、ごちそうさま」
「本当?よかった」

 寝る前に仕掛けた炊きたての白米と、豆腐と油揚げを入れた味噌汁。オーブンレンジの簡易グリルで焼いた鮭は程よい塩梅で塩が効いている。揃いの茶碗と、色違いの箸。京都で買ってお気に入りなのだという箸の色違いを、自分用にと卸してくれたときは、誕生日に値の張るキーケースをもらったときよりも嬉しかっただなんて言ったら、怒られてしまうだろうか。
 なまえの隣にいるときの自分は、いままでどうやって自分が立っていたのか思い出せなくなるほどに、力が抜ける。彼女が送ってきたなんでもない日常は、そこから少し離れた世界に生きていた――生きている、自分にはあまりに穏やかで、時々呼吸の仕方も忘れてしまうくらいだ。この場所でだけ、自分すらも存在することを知らなかった自分自身が生きていることを知る。そこから、戻りたくないと思ってしまうほど、厄介で少し困る。
 そんな様子は、なまえには俺が生活のギャップに戸惑っているように映るようで、食事や、他の様々なことを俺が受け入れるたび、心底ほっとしたような顔をして、こっそりと嬉しさを滲ませる。

「時明ってこういう感じの生活、合わないんじゃないかって思ってたから」
「そう?どうして?」
「なんか、夜、って感じじゃない、時明」

 ――夜。本人は朝型か夜型か、というくらいの大雑把な括りで言っているのだろうけれど、それ以外のたくさんのことを加味しても、あながち間違いではないのだから笑ってしまう。自分が生きるのにふさわしい、似合いの世界というのは、彼女の言うように、『夜』なのかもしれなかった。それでも俺は、ここを離れることをしようとは思わない。
 穏やかで、やわらかで、もしかしたら自分はこのまま崩れてしまうのではないかと思うくらいの時間を、なによりも彼女を、手放すのは惜しいのだ。だってもうここ以外で、呼吸をする場所を忘れてしまった。

「……悪くないよ。あくびが出そうなくらい」

 しあわせで、と続くはずの言葉は出てこない。そんなことを口に出さなくても、この部屋に飽和しているそれに、彼女とふたりで浸っていられれば、それでよかった。不用意に確かめる必要なんてない、眠くなるほどのあたたかさは、当たり前に自分の隣で微笑んでいるのだ。

「いいね、時明のあくび、見てみたい」

 コーヒーメーカーで静かに、一滴一滴コーヒーが落ちていくような緩やかな時間。あどけない顔をして自分を呼ぶ姿に時折喉の奥が苦しくなる。けれど、そんな苦しみになら、呼吸のすべてをくれてしまってもいいと思えた。ただどうせ彼女はきっと、ばかだねと笑ってそのくちびるから口付けと酸素を贈ってくれるのだろうけれど。
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