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 気の抜けたような顔が、時折窓ガラスに映り込む。通勤時間帯にしてはそこまで混み合ってはいないバスの車内で、わたしは流れる風景を見送っていた。頭はもう目覚めているはずなのに、うまく働かない。あの日からずっとそうだ。
 ――たぶん、ふられたのだと思う。好きだと言葉にしたわけではないから、厳密にはふられてはいないけれど、きっと大して変わりはない。あの言葉と笑顔は、拒絶に違いなかったのだから。
 彼のような、人よりずっと優れていて選ばれた存在である人間に、自分みたいな平凡な人間が好まれるなんて自惚れていたわけではない。高嶺の花で、目の保養でちょうどいいと思っていたのだって、嘘ではないのだ。けれどそれとは別に、少しずつ積み上がっていく期待があった。心のどこかで、勘違いしていたのだ。もうあの店には行けないと思っていたわたしを、引き止めてくれた。名前を呼んでくれた。恋人がいるのか、なんて真剣な目をしていた。そして、そんな浮かれた思いが、あの夜に自分の中で露わになってしまったのだ。他の男の人に誘われていたわたしを、助けてくれた。今思えば、そんなものはただの親切心に他ならなくて、好意なんてものではなかったのだろう。けれど、浮かれた思いをひそかに燻らせていたわたしには、耐えられなかった。好きな人に優しくされることも、気にかけられることも、その気持ちが見えなければそれはとてもつらいこと。『もしかして』と『どうして』で焦れてたまらなくて、優しくされたら困ると、勘違いをしてしまうと、言ってしまったのだ。
 もっと可愛い物言いはなかったのかと考えてしまうけれど、今更だろう。彼はそれには答えず、優しさも困惑も何もない、色のない笑顔を向けたのだ。はぐらかされたことは明白だ。
 ガタン、と車内が揺れてつり革を握り直す。次の駅で降りなければならない。そう思うと、落ち着かなくなった。
 あれ以降も、わたしは彼の働く喫茶店を訪れている。前と変わらず、朝とたまの夜。彼と顔を合わせることもあったけれど、彼はなにも言うことはなかった。それどころか、たぶん少し避けられている。以前はよく声をかけてくれて、取り留めもないことを話したのに、今はそれがない。注文をして、コーヒーをもらって、会計をして、それだけだ。わたしから話しかけることは怖くてできない。きっとその内、完全に言葉を交わすことはなくなって、店員と客として、今までのこともただの記憶になっていくのだろう。

 ――嘘を、ついているのだと言っていた。

 あのときの彼の顔が、忘れられない。端正な顔を歪めて、熱のこもった目をしていた。声は掠れて、すこしだけ震えていたような気がする。年上の男の人なのに、その顔があんまり寂しそうだったから、おもわず抱きしめてしまいたくなった。この人のことが好きなのだと、胸が痛んだ。

「次は、米花町五丁目――……」

 アナウンスに、顔を上げる。鞄を肩に抱え直して、ひとつだけ息を吐いた。今日は彼はいるだろうか。いなければいいと、少しだけ思う。
 視界の端に目的のバス停が見えて、乗車口に向かおうと身体を動かした瞬間――強い力が肩を痛いほど乱暴に引き寄せ、耳元から叫ばれる怒号がしんとした車内に響き渡った。
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