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 まずいな、と、自分自身で自覚はしていた。
 自分が安室透として働いている喫茶店の常連客の、あの彼女のことだ。ごく普通の、本当にただの一般人で、仮に彼女の素性を調べ上げても、いま知っていることとさして変わらない情報しか手に入らないだろう。そんな彼女のことを、自分はどうしてか大層気にかけているようだった。『ようだった』なんて他人事のように思ってしまうのは、自分にそんな意識がないからだ。だから、まずい。潜入している組織でも、本来の職務である公安警察でも、その関係者でもない人間のことを、特別に意識することなく自然と気にかけてしまうだなんて、そんな普通の男みたいなことが、自分に起こり得るとは思えなかった。
 信号が青に変わる。ブレーキを離してアクセルをゆっくり踏み込むと、ビルや店の灯りと雑踏とが後ろへ流れてゆく。今日は朝から入っていた喫茶店のシフトも昼過ぎまでで、それからは公安の人間と落ち合って情報共有をするために街へ出ていた。それも終えて、こうして車で帰路についているのだが、今日は少しばかり疲れている。胃のあたりが重い。普段から激務には慣れたものだったから、それとは別の理由だ。わかりきってる。ーー恋人がいるか、なんて、どうかしている。
 今朝彼女が店にやってきたとき、カウンターに立っていたのは自分ではなく同僚のウエイトレスだった。だから接客は彼女に任せて、正直ほっとしていたのだ。これ以上踏み込んでいくのはよくないと自覚があったからだ。なのに、『デート』なんて単語が聞こえたものだから、おもわず言ってしまったのだ。彼女に特別な相手がいるのかもしれないと思ったら、ついそんな言葉が口から滑り落ちていた。自分に、『おもわず』や『つい』なんてことが起こるのは稀有なことだ。けれど、彼女は、たやすくそれを引きずり出す。まばたきをすれば、すぐに思い出せた。今日は仕事で気合を入れないといけないからと言って、いつもより華やかな格好で笑った彼女のこと。

「ーーなまえさん?」

 思い出した瞬間、その光景と同じものが実際の視界にも写ったような気がして、目を凝らす。対向車線の奥の道で、同じような格好をした女性が誰かと向かい合っている。女性が駅の方へ向かおうとしているのを、相手が引き止めているようだ。店の灯りはあるが、夜のせいで少し沈んで見える、ネイビーのサマージャケット、膝より少し長い丈のアイスブルーのスカート。束ねられて後ろに流れる髪は、朝よりも少しカールが弱いだろうか。すれ違う瞬間、彼女を引き止めている男が、その細い手首を握っていること、それから、彼女が弱り切った表情を浮かべているのを目に止める。まるで胃に石が落ちてくるような不快さに眉をしかめ、自分の指はいつのまにかウインカーへ伸びていた。
 次の信号が右折可能なことと、Uターン禁止の標識が出ていないことを視界の端で確認して、ハンドルを切った。反対車線へ入って、すぐにまたウインカーを出す。先程と変わらない様子のふたりのすぐ横へ車を滑らせると、さすがに気付いた様子の彼女が不審そうにこちらを見て、フロントガラスを挟んで目が合うなり、瞬く間にその瞳を丸くした。

「こんばんは、なまえさん」
「あ……安室さん」
「すみません、遅れてしまって」

 車の窓を開けて、頭で考えるより早く、口が動いていた。でまかせは得意だ。彼女と、彼女の手を掴んだままの男があっけにとられている間に、自分と彼女があたかも待ち合わせをしていたかのようなことを言って、男には「今日は譲ってもらえませんか?」なんて嘯いた。男はしどろもどろで、彼女の苗字を呼び、また会社で、などと取り繕った言葉を並べた後、身を翻して立ち去っていった。

「……すみません、余計なお世話でしたか」
「え、あ、いえ、助かりました」

 呆然としている彼女に声をかけると、ほうと息を吐いて肩を撫で下ろしている。いまだ目を丸くしたまま瞬いている彼女を、家まで送っていくと言って助手席に呼んだ。この状況の知り合いを置いて帰るのは、安室透のやることではないだろう。自分に自分で言い訳をして、遠慮しようとする彼女をなだめすかして助手席に乗せる。自分も、先程の男とやっていることはあまり変わりないのかもしれない。そうひとりごちる。

「……あの、さっきの人、会社の同僚で、二次会断ったんですけど、呼びに来たみたいで」

 彼女を助手席に乗せて車を走らせはじめると、彼女は呟くように言って、「ちょっと酔っ払って疲れてたので、助かりました」と笑ってくれた。彼女の言うように、会社の飲み会の二次会に連れ出すためだったのか、それともそういう口実で彼女を誘おうとしていたのか、今となってはわかることではない。けれど、自分にとってはどちらにせよ気にくわない男だ。助手席に座った彼女が、男に掴まれていた手首をもう片方の手で覆うようにしているのを見て、胃の不快感が増していくようだった。しかしそれを彼女には悟られないように、「よかった」と笑顔をつくってやる。
 窓の外で、街の明かりが少しずつ小さくなってゆく。教えられた彼女のマンションまで、あともうすこし。カーラジオもなにもつけていない車内は静かだったけれど、それを嫌だとは思わなかった。どうしてかは、考えないようにした。

「安室さんて、優しいですよね」
「え、そうでしょうか」

 唐突に、彼女が呟く。ちらりとその表情を盗み見ると、口元は微笑んでいるけれど、眉はハの字を描いて、寂しげな顔をしている。言葉と表情とのちぐはぐさに、相槌しか返せないでいると、彼女は頷いて続けた。

「ちょっと意地悪だけど、親切で、かっこいいから、みんな安室さんのこと好きになるのわかるな」

 そう言って見せられる笑顔になにも言えなくなる。彼女が自分に対して、それが安室透に向けられたものだとしても、そう思ってくれていることは素直にうれしい。けれど、彼女の言う安室透は、つくりものだ。その姿しか自分のことを知らない彼女の言葉に、感じるのは罪悪感だった。
 安室透としての人間関係は、自分にとって、責務を果たすための活路のひとつでしかない。あの名探偵も、あの末恐ろしい子供も、喫茶店の同僚も、ほかの常連客だってそうだ。いつか、安室透の必要なくなるときがきて、そうしたらきっと安室透は消える。だから、猫をかぶって、人懐こいふりをして、人から向けられる感情もスマートに交わしていける。自分を慕っているのだとやってくる女性客のことも、うまくやり過ごして、『喫茶店のおにいさん』くらいの位置付けから動かないような距離の取り方はできている。
 だから、彼女だって同じはずなのだ。他愛ない会話をして、親切に振舞って。それだけのはずだ。

「……でもわたし、そういうの慣れてなくて、あんまり優しくされたら、ちょっとだけ困ります」

 勘違いしそうで、と震えた声が呟いて、心臓が熱くなった。どうしてだ。彼女だけはなにかが違う。雨に濡れて落ち込んだ顔と、困り顔ばかりを思い出す。安室透の周りの人間は、笑顔ばかりだから目に付いたのだろうか。それとも、言葉を交わした最初のシチュエーションが少し特異だったから記憶に強く残っているのだろうか。
 ハンドルを握る手の力が、勝手に強くなる。奥歯を噛んだ。そうしていないと、また勝手になにかを口走ってしまいそうだった。

「……こんなこと言って、安室さんの方が困りますよね」

 ちがう。違うのだ。困らせたのは自分の方だ。彼女が、自分の、安室透の言動に振り回されて、揺れ動いているのを知っていた。そんなことはじめから知っていて、それでも他の人間のときのような距離の取り方がわからなくなってしまった。
 彼女のマンションはもう目の前だ。街灯がぽつぽつと並んでいる道の、出来るだけ明るいところを選んで車を停める。サイドブレーキを引いて、彼女の方を見ると、彼女もどこか緊張した面持ちで自分の方を見つめていた。
 いつだったか、自分のことを『意地悪だ』と言って困ったような、笑っているような顔をしていたことを思い出す。その表情を見たときから、感じていた。彼女の、困った顔が見たかった。彼女が自分のせいで表情を変えるのだと思うと、たまらなくなった。

「……なまえさん」

 ーーほら、こうして、目を見つめて名前を呼んで。どうしようもなく困惑した、期待した彼女の顔を見て、ひどく満たされてる。
 けど、だめだ。自分にはそんな資格はない。責務に追われ、いくつもの顔を持って、いま自分が誰の顔をしているのかわからなくなるような男なんて、彼女のそばにいるべきじゃない。

「僕は、あなたに嘘をついてる」

 安室透として関わることすら、嘘のひとつだ。彼女に言える自分自身のことなんて、少しも持っていない。先程彼女の手を握っていたあの男にも敵わない。あの男のような、普通の、平和な生活をともに送れる人間こそ、彼女にはふさわしいのだ。そう考えて、ひとりでに呼吸が短くなる。

「……それは、安室さんが探偵だから?」
「それもありますけど、それだけじゃありません」

 こんな、謎かけみたいなことを言って、彼女すら煙に巻こうとしている。それを情けないと思いこそすれ、自分の立場とを天秤にかけても、それが彼女の方に傾くことはないのだ。それが自分だ。頭の奥が、すっと冷えてゆく。曖昧な言葉しか交わされない会話に戸惑う彼女へ、突き放すように笑って言葉をかけるしか、自分にはできない。

「おやすみなさい、なまえさん」

 他の男の手が触れたその手首に、流れた前髪が触れる額に、たしかに自分のことを呼ぶそのくちびるに、本当は、触れたかったのだと言えたら、この熱く溶け落ちそうな胸の痛みも消えただろうか。
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