3

 いつもと同じ、朝八時頃。バスを降りて、すぐそばの喫茶店の扉を開けると、見慣れた顔がにっこりと笑顔をつくって、「おはようございます」と声をかけてくれる。ひとり暮らしをしているために、自宅で誰かとそんなあいさつを交わすことがない自分には、少しくすぐったくて、うれしいものだ。

「おはようございます。ホットコーヒーください」

 この店の朝は、喫茶店にしては落ち着いている。オフィスが立ち並ぶ大都会というわけではないのと、純喫茶の要素が強いためにあまりテイクアウトをする客がいないのが理由だろう。今朝も、客はモーニングを食べている二組しかいない。カウンターで作業をしているウエイトレスの梓さんは毎朝のように顔を合わせる。その奥で、なにやら大きな荷物を上げたり下ろしたりしているウエイターの安室さんが朝のこの時間にいるのは、三日ぶりくらいだ。安室さんのシフトは不定期で、三、四日連続でいることもあれば、週に一度も会わないこともある。わたしが来るのは毎朝とたまの仕事帰りだから、タイミングが合わないだけなのだろうけど。

「タンブラー預かりますね」
「はい。ありがとうございます」

 いつもコーヒーをテイクアウトする際、店側が用意してくれる紙カップで持ち帰っていたのだけれど、梓さんが、タンブラーや水筒があればそれに淹れましょうか、と言ってくれたのだ。冷めにくいし持ち運びも便利で、お言葉に甘えてしまっている。いつもごめんなさい、と謝ると、彼女は「このくらい全然大丈夫です!」と力強く言ってくれる。気さくで、かわいい人だ。看板ウエイトレスの彼女は、客にもファンが多いらしい。
 ーーちら、と奥の安室さんに視線をやる。こんな彼女と一緒に働いているのだ。きっと彼も、彼女を憎からず思っているに違いない。安室さんは、補充をしたコーヒー豆を業務用のコーヒーミルにかけていた。無言で作業をする横顔は、とても精巧でうつくしい。彼だって、女性客には大層な人気で、彼目当ての客がいるほどだと聞いている。梓さんと、とってもお似合いだ。
 彼のことを好きだと思ってから、自分が行動に移せたことはなにひとつなかった。どうしたらいいのかわからなかったというのがひとつと、どうにもならないだろうと思ったのがひとつ。行きつけの店の店員を好きになったことなんてなかったし、これまで恋人といえば学生時代や会社関係の人しかいない。しかもここまでの美青年を自分ごときが対象にすると考えたこともなかったから、きっとどうにもならないのだろうな、と思っている。
 こうやって、たまに会って、運が良ければ話せて、そういう目の保養的な存在でいてもらうのがちょうどいいのだ。

「そういえばなまえさん、今日なんかいつもよりかわいいですね」

 タンブラーにコーヒーを注いでいる梓さんが、突然そんなことを言う。なにかあるんですか?という言葉に、自分の格好を思い返してみて、ひとつ苦笑した。

「今日、ちょっと大事なプレゼンがあって、夜は打ち上げなんです」

 だからちょっと気合入れてて、と自分で言うのは気恥ずかしかった。とろみのある素材のサマージャケットと、ミモレ丈のスカート。いつもはブローしてスタイリング剤をつけるだけの髪も、今日はゆるく巻いてクリップで留めている。かわいくなんて全然ないのだけれど、梓さんにそう言ってもらえるのはうれしかった。彼女はわたしの話を聞いて、がんばってくださいと励ましたあと、少しいたずらっぽい顔をする。そして小声で言うのだ。

「デートなのかなって思っちゃいました」

 唐突な言葉に思わず言葉を失う。すぐに笑い声がこみ上げて、違いますよ、と否定しておいた。恋人はもちろんいないし、好きな人は高嶺の花だ。気にかけてくれている男性なんて覚えはないから、デートなんて夢のまた夢だろう。そんなことを言うのもさみしいので、笑ってごまかすだけにしていると、奥で作業をしていた安室さんが顔を出して、梓さんを呼んだ。

「梓さん、マスターが呼んでますよ」
「あれ、なんだろう。安室さん、お会計お願いします。それじゃあなまえさん、がんばってくださいね」
「あ、はい。ありがとうございます」

 梓さんと入れ替わりでカウンターに立った安室さんは、「おはようございます」と笑って、コーヒーの入ったタンブラーを差し出した。急にやってきた彼と言葉を交わすタイミングに少し慌てるけれど、気付かれないように努めて笑顔をつくる。返事をしながらタンブラーを受け取って、用意していた金額をトレーに置いたのだけれど、彼がそれに手を伸ばす様子がない。

「あの、安室さん?お会計……」
「なまえさん」

 言葉を遮るようにして、名前を呼ばれた。伏せた目が、ほんとうにきれいだ。長く伸びて、肌に影を作りそうな睫毛と、それに囲われた青みがかった瞳。その視線が、いつも帯びている優しげな色を消して、わたしを捉えようとする。そんな目と視線をかちあわせて、落ち着いていられる心臓をわたしは持ち合わせていなかった。

「恋人が、いるんですか?」

 梓さんとの会話を、聞かれていたらしい。聞かれていたと言っても、恋人がいるのか聞いてくるあたり、わたしがデートを否定したことまでは聞こえていないようだから、すべて聞こえていたわけではないようだ。
 どきどきとうるさい心臓を抑えるように胸元に手をやりながら答える間も、彼はじっとこちらを見つめていて、おもわずその視線から逃げ出してしまう。

「え、いえ、お恥ずかしながら」
「……それじゃあ、デートをするような相手は」
「い、いません」

 なぜか食い下がる安室さんに、今日は仕事のプレゼンと打ち上げでデートではないのだと伝えると、彼は大きな目を二、三度瞬かせて、「そうですか」と笑ってみせた。ようやく彼に柔らかい雰囲気が戻って、そっと息を吐き出す。かすかな期待が胸の中で首をもたげて、わたしは必死でそれに見ないふりをした。恋人がいるのか聞かれたくらいで、思い上がってはいけない。そのくらいの会話なら、初対面でもあり得るくらいだろう。
 そのあとの安室さんは、滞りなく会計を済ませて、いってらっしゃいと普段と変わらない様子で微笑んでくれた。このひとは親切で紳士的な人だけど、少しリップサービスが過剰なところがあるから、今日のもそういうことなのだろう。彼に心を奪われている人はみんな、きっとこういうところに惹かれてしまうのだ。
 本当に高嶺の花だ。厄介な人を好きになってしまった。うんうんと半ば唸りながら折り合いをつけて店を後にしようとしたとき、彼がもう一度わたしの名前を呼ぶ。振り向くと、柔らかく細められた視線に、まるで吸い込まれてしまうような、そんな心地がした。

「なまえさん、今日の格好、素敵です」

 ーーほんとうに、本当に、厄介なひと。
 店を出て、会社までの道のり。時間にはまだ少し余裕があるというのに、わたしの足取りはどうしてか小走りになってしまうのだ。
- ナノ -