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 春から夏のはじまりへ向かう季節、雨の降る時間は日に日に増えている。
 今日もバス停近くの喫茶店で時間を潰しているうちに、降り出してきてしまった。雨が降ることは天気予報で知らされていたのか、わたしのほかに客はひとりもいない。鞄には折りたたみの傘が入っていたけれど、少しでも弱まるのを待とうと少々長居した結果、雨は弱まるどころか強くなる一方だった。
 はあ、とため息をひとつ吐き出して、仕方なく席を立つ。バスが来るまであと五分、会計をして店を出れば、濡れるのは最低限で済むだろう。レジで会計を済ませ、外の様子を察して「お気をつけて」と苦笑してくれる男性の店員に苦笑を返して店を出る。ドアを閉めて、途端に大きく響く雨の音にげんなりしながら、店の軒下に身を隠して折りたたみ傘を開こうと鞄を探った。
 ばしゃん、と派手な音がする。はっとして顔を上げると、道のところどころにできている大きな水たまりの上を、これまた大きなトラックがスピードも落とさずに通り過ぎて行くところだった。
まずい、と思ったときにはもう遅かった。先程聞こえた水を跳ねる音より一層派手な音がして、一瞬にしてわたしの全身は濡れねずみになってしまう。しばらく呆然として指のひとつも動かせなかった。

「……さいてい」

 おもわずひとりごちる。呆然としているわたしを尻目に、目の前をわたしが乗るはずだったバスが静かに通過していった。あんまりだ。
 今日はもう家に帰るだけなのだけれど、この状態でバスに乗って人目に晒される勇気はない。傘を忘れてしまったふりをしようか。それでも不審な目で見られることは必須だ。こんなことなら、今日は寄り道なんかせずに帰ってしまえばよかった。

「大丈夫ですか?」

 一歩も動けないまま、先にも立たない後悔を繰り返すわたしの後ろから、声がかかる。慌ててそちらを見ると、先程会計をしてくれた喫茶店の店員が、驚いた顔をドアの中から覗かせていた。

「出ていかれた直後にすごい音がしたので、もしかしてと思ったんですが…」
「あ……すみません、ご迷惑ですよね」

 わたしの身体を通り越して、店の壁や窓まで水飛沫が当たったのだろう。その直前に店を出たわたしを気にして様子を見にきてくれたらしい。ありがたいことだけれど、こんな姿を他人に、しかも男性に見られるのは気恥ずかしかった。それに、店の前に全身びしょ濡れの女が突っ立っているのはあまり良くないだろう。
 そう思って店から離れようと身体を引くと、彼は会計をしてくれたときより少しだけ優しい笑みをして、店のドアを大きく開いてくれた。

「そんなことありませんよ。よかったら中へどうぞ」

 そう言ってふたたび店内へ招いてくれた彼に、何度か遠慮をしたけれど、大丈夫だと言ってくれる笑顔に根負けして、お言葉に甘えることにした。正直とてもありがたい。
 椅子が濡れてしまうからと席に着くのは断ったのだが、半ばむりやりに肩を押されて座ってしまう。客がほかにいないことに安心していると、彼はタオルを借りて来るから少し待つように言って、店の奥からビニール傘を持ち出して店を出て行った。
 今日は店員は彼ひとりのようで、ひとり残された店内を見渡す。落ち着いたBGMと、雨の音だけが聞こえた。この喫茶店は、勤めている会社の最寄りのバス停のすぐそばで、朝にコーヒーをテイクアウトしたり、今日のようにバスを待つ際に時間をつぶしたり、わりと頻繁に利用している。だからここのマスターにも、可愛らしい女性の店員にも、そして彼にも見覚えはあった。
 浅黒い肌と色素の薄い髪、そして少し日本人離れした青みがかった色の瞳が印象的で、女子高生たちが色めき立った声をあげている様子を見たことがある。あんなに美青年で、しかもこんなに紳士的ならば、騒がれるのも頷ける。何度か顔を合わせてはいるものの、会話をしたこともない全身濡れねずみ女に気を使ってくれるのだ。とても人間のできたひとに違いない。

「おまたせしました」

 ひとり勝手に頷いていると、ドアのベルが鳴って、その美青年が戻ってきた。傘を店先の傘立てに差し、大きなバスタオルを差し出してくれる。店にはハンドタオルやぞうきんくらいしかないから、ビルの上の階の知り合いに借りたのだと笑っている。

「どうぞ」
「あ……すみません」

 手渡されたバスタオルを見つめて、せっかく借りてきてもらったのに、申し訳なさが上回ってしまう。ためらうわたしの様子を見ていた彼の不思議そうな顔から目を逸らしながら呟いた。

「あの、でも、やっぱりタオルまで借りるのは……」
「いいんですよ。そのままじゃ風邪をひいてしまう」
「いえ、これくらいは……」

 確かに雨が降っているせいか少し肌寒いけれど、このくらいで風邪をひくことはないだろう。このまま身体が乾くまで居させてもらえればそれで十分だった。そう言ってタオルを返そうとすると、彼はおもむろに畳まれたタオルを広げ、わたしの頭から身体を包むように巻きつけてしまう。ひゅっと心臓が止まるような心地がした。

「常連さんに風邪をひかせたら、僕がマスターに怒られてしまいますから」

 青みがかった瞳を細くしながら、肩をすくめる。ああ、紳士的なのもここまでくると、少し罪作りなのかもしれない。巻きつけられたタオルが落ちないように端の部分をきつく握った。彼は途切れ途切れでまともな返事ができないわたしを満足そうに見つめると、「コーヒーを淹れますから、座っていてください」と言い含める。もうわたしは何も言えなくなって、言われたとおり大人しく座って、彼がコーヒーを淹れるかすかな音を聞いているしかできなくなってしまっていた。
 サービスだと言ってお金を受け取ってくれなかったコーヒーを飲んで、タオルで髪や身体を拭いて乾かしている間、むずむずした心地は収まらなかった。彼は黙って仕事をしていて、会話はなかったけれど、わたしは申し訳なさと気恥ずかしさでそれどころではなかったから、逆に助かったかもしれない。
 コーヒー飲み終え、髪が乾く頃には雨はだいぶ弱まっていて、さっさと退散しようと席を立つ。タオルは洗って返そう。立ち上がったわたしに気付いた彼にお礼を言うと、「少し待って」と言って店の奥へ消えていく。そしてすぐに戻ってきた彼の手には、カーキ色をした薄手のジャケットがあった。

「これ、僕のものなんですが、お貸しします」
「え!そんな、そこまでしてもらうわけにいかないです」

 まさか、いくら紳士的な人とはいえここまでとは。おもわず一歩後退してしまうわたしの話を聞いても、彼はにっこりとした笑顔を崩さない。

「いいんですよ。僕、車で来ているので、上着くらいなくても平気ですから」
「でも……」

 そういうことではないのだ。全身びしょ濡れのところに声をかけられ、タオルを貸してもらって、あたたかいコーヒーまでサービスしてもらって、そのうえ上着まで借りてしまったら、わたしは彼にどんなにお礼を言っても足りるかわからない。すっかり困って弱り果てたわたしを尻目に、彼はただ笑顔を深くするだけだ。

「タオルを返すときに一緒に持ってきてください。来週の月曜のこの時間なら、シフトに入ってますから」

 そう言われて押し付けるようにジャケットを持たされ、返す約束まで取り付けられてしまっては、わたしにこれ以上何かを言うことはできなかった。恐縮しきりで頷いたわたしに返してくれる彼の笑顔はとても優しげだったけれど、それだけでは言い表せない圧力があるような気がした。
 とても優しくて紳士で、けれど少し押しが強い。馴染みの喫茶店の店員がこんなひとだなんて、知らなかった。



 ぼうっとした心地で過ごした休日は、あっという間に過ぎてしまった。あの日の翌日にはすっかり晴れ渡った天気の中で、タオルはしっかりと洗濯されて、いつもより柔軟剤を多く使ったからふっくらと膨らんでいる。彼から借りたジャケットはその日のうちにクリーニングに出して、タグを取ったあとに風通しもした。きれいに畳んで、それぞれ別の袋に入れて、皺なんてひとつもつかないように気を使って一日を過ごす。
 借りたものを返すだけだというのに、あの喫茶店に向かうのは少し億劫だ。何度考えても、あれだけ迷惑をかけたことはいまだにわたしの中でうまく折り合っていない。トラックに派手に水を掛けられてずぶ濡れになっているのをあんな美青年に見られて、世話を焼かれ、タオルとジャケットまで借りてしまった。彼は気にしていないと言っていたけど、自分の情けない姿を見られた人にもう一度会うというのは、逃げてしまいたくなるくらい恥ずかしい。今日は借りものを返したらすぐに帰ろう。仕事を終えて、先日と同じくらいの時間に喫茶店の前にたどり着く頃には、すっかり気が萎んでしまっていた。

「ああ、いらっしゃいませ」

 こそこそと店のドアを開けると、彼の姿はすぐに見つかった。そしてわたしの姿もすでに見つかってしまっている。借りものを返す相手は彼なのだから、会わないわけにはいかないのに、気持ちはどうしても逃げたがっている。しかしこのまま店先にいるのも迷惑なので、ままよと足を踏み出して、必死でつくった笑顔はたぶん引きつっていただろう。

「先日はありがとうございました。ご迷惑おかけしてすみません」

 特に手が離せない作業をしていたわけではないらしい彼は、すぐにカウンターの裏からこちらへやってきて、わたしの差し出した袋を受け取る。
 店内には三、四人の客がいて、女性客のふたり組がこちらを見て小声で話しているのがわかって背筋が少し震えた。やっぱり彼は人気者なのだ。こうやって個人的な話をすることも人目を引いておそろしい。馴染みの店が減ってしまうのは悲しいけれど、情けない姿を覚えられてしまったのなら、もう恥ずかしくてこの店には通えない。べつの喫茶店を会社の近くで見つけることにしよう。
 ひそかに決意したわたしに、彼は笑顔を浮かべて答える。

「迷惑なんかじゃありませんよ。それより……」

 そして、先日と今日見せられたのとは少し違う、片方の口角をきゅっと持ち上げるようなーー意地悪な顔をして、笑ったのだ。

「もうここには来れないな、とか思ってるでしょう」
「え……」

 見事、言い当てられてしまった考えに、おもわず声を漏らしてしまう。どうして、という顔をしていたのだろう。わたしが何も言わなくとも、彼は肩をすくめて、「顔を見ていればわかりますよ」と今度は眉をハの字型に下げて言った。

「あんなことでお客さんをなくすわけにもいかないですし、僕もあなたに来てもらえなくなったら悲しいです」

 ーーこれは。紳士的、なだけで片付けられるのだろうか。客を失うのが困るということは本当だとして、そのあとは十中八九社交辞令。けれど、先日の彼の言動と、いまのこの表情を見て、わたしの心臓はひどくうるさく胸を叩いていた。彼は、声を失ったわたしの視線をしっかりと捉え、「だから」と言葉を続けながら、ふたたび表情を変えてゆく。
 優しくて親切な人だと思った。そんな人に気にかけられて、ありがたくて申し訳なかった。けれど、優しくて親切なだけの人は、こんな顔はきっとしない。

「また来てください。絶対ですよ?」

 青みがかった瞳が細くなって、見せる笑顔はこれまでの紳士的で優しげなものと違う、少しだけ意地悪そうなもの。きゅっと、心臓が縮こまる。
 ーー恋におちることなんて、こんなにも簡単だったんだ。
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