あまい毒なら飲み干してあげる

 その日は偶然、金曜日だった。そしてさらに偶然、体育館の整備だとかで、次の日の部活が休みだった。それに気付いたオレは、部活が終わると一目散に彼女の家に向かう。今日は飲み会だと聞いているけれど、次の日は土曜で彼女は休みだから、久しぶりに一緒に過ごせる。収まりそうにない高揚を募らせながら彼女の部屋で帰りを待っていると、日付が変わったあたりで玄関からガチャン、と鍵を開ける音がして、顔を緩ませながら玄関へ向かった。
 ――までは良かった。
 ドアを開けた先にいたのは、ぐってりと酔い潰れ、頬をほんのり桃色に染めた彼女、とその彼女の肩を支える、若い男だった。

「……ええと、なまえ……さんの弟さん?」

 彼女の名字を一瞬呼び捨てしそうになって、取り繕うように敬称をつけた男に胸の奥がちりっと焼かれた気がした。何も言わずに、男に腰を抱かれた彼女を、そうっと、かつ迅速に奪い取って、穏やかに目を閉じた彼女を見やる。スーツに包まれたふたりの男女は、ほぼジャージ同然の私服を纏った自分とは確かな隔たりがあるように思えて、脳内でぐるぐると何かが燻る。
 ――違う、弟なんかじゃ、ない。オレはたしかにこの人の恋人だ。

「弟じゃねーよ」
「は……」
「なまえに触んないでくれます」

 困惑気味に眉を寄せて訝しげにこちらを見る男に見せつけるようにぎゅう、と彼女の身体を抱いて、その男を静かに見た。男が持つこの家の鍵をひったくって、ドアノブに手を掛ける。「お世話になりました」自分の口から吐き出された声は酷く穏やかだったけれど、同時に酷く冷たい色をしていた、と思う。振り返る余裕もない。わざわざ酔い潰れた彼女を送ってもらったというのに、それをありがたがる余裕なんて、もっとない。
 何か言いたげな男を無視してドアを閉めて鍵を閉めて、一息。肺に溜まった嫌な空気を吐き出すように息を吐いても、どす黒い感情は次から次へと沸き上がってくる。抱き上げた彼女をゆっくりとベッドに降ろした瞬間、鼻を掠める匂いに一層それは酷くなった。
 煙草と、お酒と、嗅ぎなれない香水。
 自分のひとつも知らない匂いを纏う彼女に堪えきれない焦りみたいなものが襲って、不意に泣きたくなった。暗い色のスーツと、仕事用のパンプスのヒールが、目の前に高い壁を作って、もう前が見えない。

「なまえさん……なまえさん、」
「……ん、ん……」

 うわごとみたいに呟いた彼女の名前は、頼りなく震えている。赤みの引いた頬は蛍光灯に照らされて、白い。かかる髪をそっとよけながら頬をなぞれば、赤い唇からくぐもった声が漏れて、ああ。

「……なまえ、さん」

 オレはあとどれくらい頑張ればいいの。どれだけバスケで強くなれば? どれだけモデルとして仕事をこなせば? どれだけ背伸びをしたらその背中に追いつけるのかなあ。
 愛おしい、好きだ、それと同時に息が苦しくなる。ヒールの小気味いい音を響かせながら自分の前を闊歩するその背中に追いつきたいのに、その足を止めてくれと追い縋りたくなってしまう。飽きることなく撫で続けた指の先で、閉じられた瞼が一瞬震えて、薄っすらと開いた。昂ぶる愛しさと、薄く開けた瞳の色は、自分と同じ教室にいるどの女の子も決して真似はできないと感じて、もうどうしようもない。

「……りょうた、来てたの」
「起きて、シャワー浴びてきて、早く」
「っえ」

 いつもより若干掠れた声を聞き流して、その身体を引き起こした。その際に鼻先に触れるのはまたあの匂いで、ぐるぐると燻る何かが一層暗い色を落とした。早くそれを消してほしい。「ほら、行くっスよ」わけがわからないという顔をしたままの彼女を無理やりバスルームに押し込む。閉じた扉に額を擦り付けて、吐き出した溜息は笑ってしまうくらいに熱かった。



 バスルームから出てきた彼女は先程よりだいぶはっきりとしたらしい意識でこちらに歩み寄った。ベッドの上で座るオレの隣に腰掛けたときに、ふわりと香ったのはあの匂いではなく、いつもと同じシャンプーの匂いだ。たまらずその身体を掻き抱いて肺いっぱいにその匂いを取り込む。そのまま吐き出された息は緩やかで、どす黒い感情は少しだけ穏やかになったように感じた。なまえさん、と聞こえるか聞こえないかくらいの声でつぶやいたつもりが、彼女にはしっかりと聞こえていたらしく、ふっと息を吐くような笑みが返される。

「……なに、どうかした?」
「……さっきの男だれスか。会社の人?」

 担がれていただけと思われた彼女も、かすかに意識はあったらしく、「……ああ、そう。会社の同期」と小さく言った。同期、ということは俺のところで言う同級生みたいなものだろう。彼女と同じオフィスで仕事をして、同じようにお酒を飲んで、ああして家まで送って。
 まるで耳鳴りのように煩わしい光景が脳裏をよぎって、振り払うように彼女を抱く力を強くした。

「……なまえさん、なまえ、」

 こうやって図体ばかりでかい男が、こんなに薄い肩をした女の人に縋り付く。
 情けない、なあ。
 身体は彼女より大きくても、年は幾つも下で、実際にこうして彼女に甘えてばかりだ。年の差なんてくだらないものを不安がって、彼女の側にいる人間にみっともなく嫉妬する。子供扱いしないでなんて、言えないくらいに自分はどうしようもなく子供で、そんな子供の背にそっと手を回して、柔らかに微笑む彼女はどうしようもなく大人だった。それがわかっていても、それでも、願わずにはいられないのだ。
 ――なまえさん、なまえさん、オレのこと不安にさせないで

「お酒なんか飲まないで、知らない匂いさせないで、ひとり暮しなんかやめて」

 言ったところで、どうしようもないことだとはわかっているし、そんなこと出来はしないとわかっている。けれど、彼女を別人のように艶やかに見せてしまうお酒も、他の人間の匂いも、自分の知り切れない生活も、存在してほしくない。オレの知らない彼女なんて、たったひとつだってあってほしくないのだ。

「……そんな遠くにいかないでよ」

 ずっとオレのそばで、大丈夫だって、好きだって、君の全部を見せていてほしい。
 彼女の肩に額を押し付けて、ベッドの上でひたすらに抱き合う。自分の背にかすかに触れていた彼女の掌が、そうっと背を撫でて、宥めるような声が「りょうた、」とオレを呼ぶ。その声が鼓膜を震わせて心臓へ届く。じわりと広がる温かさが燻る熱を和らげていくようだ。

「……わたしみたいなおばさん、嫌じゃない?」
「っ嫌な、わけ!」

 せっかく和らいだ心臓が、彼女の言葉で瞬時にひりりとした痛みを放った。オレの気持ちを疑っているわけではない、と思う。けれど自分が彼女のことを嫌と思うなんて、少しも考えてほしくなかったし、彼女が自身をそんな風に言うことが酷く辛い。
 なかば叫んだような勢いのままに顔を上げると、彼女の目とかち合って、息が詰まった。ハの字になった眉は優しくて、細められた瞳はおそろしく柔らかだ。口元は微笑をたたえて、温かい色を滲ませた瞳は、どうしようもなくいとおしいと言われているみたいで。
 ――泣きそうに、なってしまう。

「わたし、涼太と同じ教室で勉強したかったなあ。バスケ部のマネージャーとかやって、涼太のこと応援したかった」

 涼太のファン同士できゃーきゃー言ったり、ポスター部屋に貼ったりさ。彼女は苦笑しながら言って、俺の顔に纏わりついた髪をよけながら、ゆったり頬を撫でた。オレはどうしようもないくらい子供で、彼女はどうしようもないくらい大人。その壁は決して壊れないと思っていた。

「……っなまえ、さん」

 彼女とずっと一緒にいたくて、学校だって仕事だってバスケだって、オレの全部を彼女に知ってほしくて、彼女の全部を知っていたい。どうしようもなく子供な自分の、甘えたがりなわがままだって。

「一緒だね?」

 白い指がオレの髪に絡んで、そのまま緩く首に回された腕に優しく引き寄せられる。今にも涙が零れそうな目尻に、彼女の柔らかなくちびるが静かに触れた。
 オレしか、俺だけしか知らないこの温度。
 すきだよ、と鼓膜を擽る心地よさも、オレしか知らない。
 首元に強く抱きつく彼女の腰を緩く抱いて、いまだ湿ったままの髪へ鼻先を埋めた。

「……なまえ、だいすき、」

 まるで君が子供で、オレが大人みたいだ、なんてね。熱い心臓と目頭から溢れるのは、きっと君への愛しさだ。
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