君が殺した寛容

 あ・と思ったときにはもう遅く、黄瀬くんはわたしの腕を引いて、耳元でいつもより幾分低く落とした声で囁いた。黄瀬くんの言った言葉は上手く脳内を回らないまま、すぐに離れて行った熱に呆然としていたわたしは、目の前で苦笑を浮かべるもう一人のクラスメイトの表情にはっとする。

「……もーなんだよ黄瀬、目の前でコソコソ」
「や、なまえっち襟曲がってるよって」
「あー……ありがと」

 そうだ、さっきの耳元で囁かれた言葉も、そんなようなことだった。
 黄瀬くんともう一人の男子クラスメイトが軽口をたたくのをぼんやり眺めながら、曲がっているらしいカッターシャツの襟へ手を伸ばす。確かに首の後ろで襟は曲がって、ネクタイとよく分からないことになっていたので、ごそごそといじってみるけれどなかなか上手くいかない。

「なまえっち、オレやったげるよ」

 黄瀬くんの弾んだ声に、え・いいよ、と戸惑いながら返すも、先程の熱が首の後ろに回したわたしの手首に再び触れた。無理に振り払う気にもなれなくて大人しくしていると、もう一人の彼は再び苦く笑ってみせる。
 何なんださっきからその顔は。
 微妙な表情をする彼に文句を言おうと口を開いた瞬間、「黄瀬えええええ!」と馬鹿みたいにでかい声が教室に響いて、その声にわたしの言葉はかき消されてしまった。

「笠松先輩声でかいっス……」
「うるせーてめえ、休みになったら来いっつっただろうが」
「もーせっかちだなあ」
「うるせえ! 早く来い!」

 体育会系だなあ。と感嘆の息を漏らすわたしの首元から手を離して、渋々その先輩の元へ向かおうとする黄瀬くんは、ちょっと待ってて、とわたしに笑いかけたあと、もう一人の彼にツイと視線をやって、何も言わないままてててと行ってしまった。襟はきちんと直してくれたようで、カッターシャツとネクタイはきちんとした形で鎮座している。

「はあー、こっわ」
「え、何が」

 黄瀬くんが行ってしまった直後に大きく息を吐き出した彼は、さっきまでの微妙な表情をほぐして肩を竦めてみせた。

「あんなあからさまに牽制されんの初めてだわ」

 牽制? ととぼけた声で反復すると、彼はそう、と言って再び息を吐いた。牽制、相手の注意を自分の方に引きつけて、自由に行動できないようにすること、だ。腑に落ちない、という顔をしていたのだろうわたしに、彼はにやりと口角をつり上げる。

「おまえにちょっかい出すんじゃねーぞって牽制」
「ええー……?」

 牽制という語意と彼の言葉に、わたしはイマイチ、というか全く理解が追い付かずにいる。彼の言うことが本当なら黄瀬くんは、他の人がわたしにちょっかいを出さないよう牽制をしている、ということになってしまう。
 そんなことはあり得ない。はずだ。
 だって黄瀬くんは学校中の人が知る有名人物だし、事実全国区のバスケエースで現役モデルというすばらしいスペックの持ち主だ。そんな人と、なんの地位も能力も持ち合わせていないわたしとでは、結果は火を見るより明らかではないか。

「いや、マジな話。前に体育のとき、オレ黄瀬に『おまえちょっと人前でスキンシップしすぎじゃね? 特にみょうじ』って聞いたんだけど」
「……なに聞いてるの」
「そしたら、『わざとだし』だって」
「……わざと」
「そ。めっちゃにっこり笑いかけられて、まじで死ぬかと思ったわ」

 わざと、わざと。
 頭で何回も反復してみたけれど、要領を得ない。確かに最近の黄瀬くんはやけに人前でスキンシップを取ってくるように思う。といっても、腕を引いたり、頭をポンとされたりという軽いものなのだけれど、それでも人前だと気になるものだ。黄瀬くんにそれについて何か聞いたことはなかったが、もしそれが周りへの牽制だというなら合点がいく。
 でもあの黄瀬くんが?自分で言っていて悲しいけれど、黄瀬くんならわたしじゃなくても女の子はよりどりみどりで――

「でもなんでおまえかねー、黄瀬なら、」
「オレならー?」

 おそらくわたしの脳内と同じで、わたしに対して失礼なことを言いかけた彼の言葉を遮って、肩口からにゅっと先輩との話を終えたらしい黄瀬くんが顔を出す。途端、彼は「はいスミマセン! ごめんなさい!」と声を上げて素早く一歩後退した。

「えーなんスかそれ。何の話?」
「え、えっと、な! CD! 黄瀬って音楽何が好きかなって、な!」

 笑顔で無理やり話を取り繕った彼は、「オレちょっと友達に貸してたCD返してもらってくるわ!」と言ってすばやく背を向けて行ってしまった。黄瀬くんは、なんなんスかアレ。と笑って、背中を丸めてわたしと目線を合わせるように首を傾ける。
 モデルをやっているというその顔は確かに整っていて、見惚れそうにきれいだ。そんな人が自分に気があるかもしれないなんて、到底信じらそうにない。けれど、黄瀬くんが言っていたという「わざと」という言葉が頭にこびりついて、離れない。そんなはずはないのに、期待という感情はとめどなくむくむくとわきあがって、黄瀬くんを見るのが申し訳ないような気持ちになって思わず俯いてしまう。

 あろうことか黄瀬くんは、そんなわたしの髪をそっと掬いながら、「なまえっち髪伸びたね」と笑いかけるのだ。ああもう、わたしどうしたらいいんだろう。

「……黄瀬くんて、スキンシップ多いよね」
「……嫌?」
「嫌っていうか、なんでかなって……」

 切れ長の目をわずかに見開いたあと、緩慢な動きでそれを細める。彼のその様子があまりにも完成されていて、長い睫毛の奥の眼球に映っているだろう自分を見るのが不意に怖くなって、反らす。その反らした先の視界でゆっくりと動く黄瀬くんの手が、先程彼が直してくれた襟の下を通るネクタイへ伸びた。指がネクタイを滑るシュル、という音が鼓膜を優しく刺激する。

「……わざと、だよ」

 わざと、わざと。さっきと同じように反復するその声と言葉に酷く心臓がじりじり痛むのはどうしてだろう。淡い期待が、徐々にはっきりとした形になっていく。思わず見上げた黄瀬くんの瞳は熱に浮かされているように色めいて、視線を伝ってその熱が移ってしまいそうだ。
 息が、時間が、止まりそうに苦しい。
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