触れた傍から僕の国

 なにをしたって、許された。
 なにを言ったって、絆すことができた。
 だって、俺のものだ。いつでも、どこまでだって、好きにしたい。――おまえが、泣くまで。

 吐息が吐息をくぐっていく距離は、近いようで、もどかしい。できることならずっと触れ合っていたいのに、自分たちには呼吸が必要で、それをするためにはどうしてもくちびる同士を離さなければならない。くちびるが纏うルージュの剥がれたそこから溢れる吐息と、瑞々しいまでに濡れた声、その声が彩る形ばかりの拒絶を、食らいついて飲み込んだ。震えながらやんわりと、こちらの肩を押し退けようとする力を押し返すのが好きだった。
 耳の奥で軽やかな笑い声がリフレインする。くちびるとくちびるの隙間から零れるくぐもった声と並べて、眉間に皺が寄るのを感じた。どっちだっていいし、どっちだって好きだ。けどそれは、自分に向けられたときに限っての話だった。ぢゅう、と飲み込めそうなほどに舌を吸うと、いづみは苦しそうに息を吐く。
 ――いい気味だ。そして、気分がいい。
 呼吸もままならない様子のくちびるを解放して、自分のそれはすぐそばにある肌に滑らせた。化粧品のたぐいではない、もっと純粋に彼女の内から立ち昇る熱で蒸気した頬は、くちびるを押し付けると素直に受け入れてふわふわと弾む。やわらかくて、あたたかで、あまいにおいがする。

「っさくら、待って」

 ――噛み、たい。
 歯を滑らせると、くちびるのときよりも強く弾んだ。歯を立てた部分がへこんで、また元のかたちに戻る様子を歯とくちびるで感じるのが気持ちよかった。甘噛みにもならないくらいに優しく歯を滑らせて、時々口付けを落としながら下降する。輪郭をなぞりながら顎の裏にたどり着くと、なまえが息を飲むのが自分のくちびるの下でわかった。首筋を撫で上げられるような、悪寒にも似た何かが駆け上がって、たまらず吐き出した息はとても、熱い。

「ねえ、痛い、さくら」
「やだ」
「っいたい、てば、」
「いやだ」

 何が『嫌』なのか、うまく言葉にできる気はしなかったけれど、とにかく今は『自分の思い通りになるなまえ』が欲しかった。自分の手の届かないところで、コーヒー色の瞳を瞬かせて、少し厚めのくちびるを綻ばせて、俺には決して出せない柔らかな音色で言葉を紡ぐ。そんな彼女などいないのだと、思わせたかった。いつだって俺を甘やかして、仕方ないって顔をして、思い通りでいてくれる彼女が彼女のすべてで、俺のものなのだと思いたかった。そういう彼女が、なまえの全部になってしまえばいい。

「お、怒ってるの」

 一際大きく声が震えて、俺は動きを止めた。俺を引き剥がそうとしていたはずの手は、いまでは縋るように俺のセーターを掴んで、唾液で光る首筋のその部分には、キスマークと呼ぶには物騒な歯型がじわりと赤く浮かび上がっている。背当てにしていたクッションはいつの間にか下へ落ちて、せっかくなまえが整えてくれたベッドカバーは、整える前よりもぐちゃぐちゃに皺が寄って、なまえの拒絶を目前に現した。こちらを戸惑い交じりに睨めつける瞳は薄っすらと濡れて、目頭に溜まったしずくは瞬きのついでに溢れてしまいそうだった。
 こちらを押し退けようとする手を押し返すのも、まるで怯えるように震える呼吸も好きなのに、彼女が目に浮かべるそれだけは、衝動的なものでもたとえ嬉し涙だとしたって、すこし苦手だ。まともな言い分も、可愛がるための意地悪も、役に立たない。抑止力としては充分な機能を持っているのだろう。なまえ本人はきっと、その効果に気付いてはいない。そのくせに、扱い方はとてつもなく上手い。俺の感情や言い分を抑えつけて曖昧にすることは決してせず、俺が曖昧にしていたい部分だけを、うまく俺自身に吐露させるのだ。この濡れた瞳の前で、俺はうそつきではいられない。

「……怒ってる」
「……どうして」
「浮気したろ」

 今日一番にぶすくれた声でつぶやくと、お返しに今日一番にぱちくりと大きく見開いた目が瞬いた。言葉を失ったのは一瞬で、すぐに慌ただしい声が上がる。

「しないよ!」
「した。今日大学で見た」

 至近距離で聞くには幾分大きい声が、キンと耳を貫いて思わず目元を顰めた。否定されるのは織り込み済みだったけれど、たった数時間前に見つけたその時の光景を思い出すのは、不可抗力だとしても疎ましい。

 午後一番の講義を終えて、それが今日の最後の講義だった俺はそのまま法学部棟を出た。今は千哉の卒業制作を優先させていたために練習は休みで、特に予定もなかったから、なまえに一声かけて彼女の家に篭ろうと決めたのだ。ゲームがしたい。朝ふたりしてバタバタ出てきてしまったせいで、なまえの家に置きっぱなしにしているRPGの進行ルートを思い返しながら、中庭を突っ切ろうとしたときだった。
 中庭にいくつか建てつけられている屋根付きのベンチのひとつに、なまえの姿を見つけた。今朝、クローゼットから適当にひったくったグレーのチェスターコートを寒そうにかき寄せながら、コンビニのカップコーヒーを啜っている。その彼女の隣に、どうしてか芹がいたのだ。自分と同じバンドのメンバーとはいえ、直接の関係性などなかったはずの彼女の隣で、芹はいつも通りの人好きのする笑顔を浮かべて話を弾ませているように見える。
 嫌だ、と思ったあと、俺の足は踵を返していた。そのときの感情はうまく言い表せないけれど、自分らしくはないと思った。もしなまえと一緒にいたのが彼女の女友達なら、一言声をかけてすぐに彼女の家に向かっただろうし、芹以外の男だったら、話も碌に聞かずに彼女を引きずって来ただろう。純粋な驚きと、嫉妬と、よくわからない、さみしさみたいな、面白くない気持ち。
 こちらに気付かないままのふたりに背を向けて、彼女が部屋に帰ってくるまでの間、俺は思考を放り出すようにして眠りこけたのだった。RPGに気を割く余裕も湧かず、ゲーム機はなまえの部屋で充電完了の黄緑色のライトを灯したまま沈黙していた。

 帰ってきたになまえ物も言わせずキスをして、噛み付いて、大人しくなっていた心臓の近くに感じる燻りが、再びじくじくと焦げ付き始めるのが、自分でもわかった。浮気と呼ぶにはあまりに些細なそれに噛みつく俺を、なまえはため息で宥めすかす。

「空きが被ったから一緒にいただけじゃん……」
「芹と仲良いとか知らねーんだけど」

 元々丸くしていた瞳が、ことさら大きくなる。そうだっけ?と無責任なことを言うなまえの肩に顔を埋めた。背中の一番反ったところを一層引き寄せると、なまえのあたたかな頬が耳と首筋の辺りを撫でる。そのぬくもりをこのまま閉じ込めておきたくて、俺はそっと呼吸を潜めた。
 なまえが芹と一緒にいるのが嫌だったのは、そこに自分の知らないなまえの世界があったからだ。なまえが芹と関わりを持っていること、そばにいて微笑んでいること、名前を呼んでいることを、俺は知らない。どんな顔をして、どんな温度で、なまえがそこにいるのか、今の今まで俺は知りもしなかったのだ。なまえの関わるすべてのものを知っていたいだなんて、無理難題もいいところだというのはわかっている。けれど彼女がそこにいるなら、俺の中にはそれくらいの、理不尽なまでの願望が首をもたげるのだ。重苦しくて、息苦しい。身動きもできないほどのそれを、俺はどうしてか放り出すことができないでいる。

「朔良の友達だからだよ」

 ――なまえがこうやって、眉を下げて笑うからだ。
 わがままで理不尽な、子供っぽい願い事。縛り付けて、ここにいてくれと言い聞かせて、それをしかたないと受け入れるいづみに、結局は自由を奪われている。

「男とふたりで居られるのがいやだ」
「うん」
「俺に気付かねーのもむかつく」
「ごめん」

 『ごめん』は、俺の方だ。絆して、許されて、懲りることはない。それでもその『ごめん』を、言うつもりなんてなかった。だって結局、好きにされているのも、縛り付けられているのも、俺なのだ。なまえの世界をすべて俺のものにしようと足掻いても、俺が彼女のものなのだと自身に言い聞かせているだけなのだ。だから俺は謝らないし、わかりやすいわがままで彼女を困らせる。

「今日は好きにさして」

 コーヒー色の瞳がぱちくりと瞬いた。少し厚めのくちびるがおかしそうに綻んで、俺には決して出せない柔らかな音色が、そっと鼓膜を揺さぶっていく。――いつもそうでしょ。そう、しかたないって顔をして、笑って。俺を甘やかす。鳩尾のあたりからじわりと甘い震えが広がって、その震えに急かされるように、重ねるだけのキスをひとつした。
 ――俺のもので、おまえのもので、ああもう、わかんねーや。
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