久方ぶりの平日休みを手に入れたわたしは、太陽が昇りきる頃にゆっくりと目を覚ました。たまごにチーズを入れただけのオムレツを食べて、お風呂の掃除をする。それから本日付けで出さなければならない郵便物があったので、新しく買った日傘を持って郵便局に出かけた。薄い綿素材でできたワンピースがかわいく風に揺られていたけれど、照りつける日差しはちっともかわいくなくて、うんざりする。
その底抜けのまぶしさに、黄色い髪をした、それこそ底抜けに明るい笑顔をいつも与えてくれる彼を思い出してしまった。彼のまぶしさを思い出しても、うんざりするどころか喉の奥がくすぐったくなってしまうのは、少し悔しい。
窓から入り込む風は適度にそよいで前髪を攫って行く。無駄な湿気もなく、夕方の少し冷たいそれはわたしの意識を上手に操ってはるか向こうへそっと飛ばしていった。手元で見つめていた文庫本をしおりも挟まずに閉じて、テーブルの上に放る。腰かけていたソファに全身を預けてうつ伏せになれば、冷たい革の感触がより一層心地よくわたしの意識を奪い去ってくれた。
かすかに聞こえる外界の音は、遠くで車が通り過ぎる音と、時折聞こえるこどもの弾んだ声だけ。完全な無音ではない空間は、クッションに埋まってしまって半分が黒く塗りつぶされた視界も手伝って、とろとろと白い世界へわたしを下ろしていく。わたしはこの、静かにまどろむ時間が好きだった。
「ただいまーぁ、」ぼやん、と霞んだ意識の中に、ひとつの声が入り込んでくる。それはわたしの意識を少し浮上させるだけで、まどろみを壊すことはしなかった。彼のつくりだすものは、いつもそう。いつだってわたしをゆるりと包んで、やわらかくわたしの中へ入ってきては、ちくりと甘い痛みを落していくのだ。
「あ、なまえさん寝てる?」
「……おきてる」
半分クッションに埋めたままの声がどう聞こえたのかはわからないけれど、涼太くんは「ほとんど寝てんじゃん」と可笑しそうに返した。今の今まで忘れていたけれど、今日は部活が早上がりになるから家に寄る、と昨日連絡がきていたのだった。そこまで部屋は散らかっていないけど、片付けも、夕飯の準備も何もしていない。しかしこの心地良さを手放すことがどうしてもできなくて、一ミリも身体を起こすことなく、再び目を閉じようとした。
視界が暗くなるわたしの身体全体に、ひどく重いなにかがのしかかったのは、それからすぐのことだった。肺が押しつぶされる感覚に、ぐ、と思わず不細工な声を上げて閉じたばかりの目を開けると、彼の顔がすぐそこでへらりとした笑みを浮かべている。自分より三十センチも身長の高い人間に押しつぶされるなんて、たまったものじゃない。
「……涼太くん、くるしい」
「ふは、不細工」
「うるさい」
クッションに顔を押し付けたわたしは、声だけでなく顔も不細工だったようだ。放っておけこのイケメンモデルめ。むっつりと黙るわたしに、ごめんごめん、と言いながらも彼は身体を退けようとせず、体重を全てこちらに預けたまま肩口に顔を埋める。
ふんわりと香るシャンプーと制汗剤のにおいは、部活の後シャワーを浴びた証拠。そのあとに少しだけ漂う汗のにおいは、暑い中ここまでやってきてくれた証拠。
彼の身体を当たり前みたいに取り囲む青春の匂いは、わたしの記憶ではもう遠くにしか感じられない。わたしが決して歩むことのできない時間を、彼は今こうして走っている最中なのだ。それは途方もなくいとおしくてさみしくて、気に入った映画を何度も繰り返し見たくなる気持ちと似ている。でもその青春のカケラを、彼がこうやってわたしの傍まで運んで来てくれるから、わたしは甘んじてそのさみしさを受け入れるのだ。
「……いいにおい」
「シャワーしたっスから。なまえさんがごろごろしてるときオレは汗まみれだったんで」
言葉尻軽く落とされる憎まれ口も、耳の裏にかすかにぶつかる吐息のせいでどこかくすぐったい。ふふ、と漏れてしまった笑い声に、涼太くんは拗ねたような口ぶりで「なんスか」と呟いた。口から出る言葉はこんなにこどもっぽくてかわいらしいのに、ソファの下にだらんと伸ばしていた手は押しつぶされた胸の際に触れてくる。
当然のように「男の子」と「オトコ」を行ったり来たりする彼に、頭が痛くなってしまいそうだ。
「こら、ばか」
「なまえさんがこども扱いするからでしょ」
「……してると思うの?こんなにやきもちやきなのに」
彼の周りを取り巻く爽やかなにおいも、彼に集まる女の子たちの視線も、彼が傾けるバスケットボールへの情熱も。彼がいいよと言ってくれるなら全部掬い取ってしまいたい。それを何とか抑えつけているのは、ほんの少しの大人の意地と、わたしの知らないところでもまぶしく輝く彼の笑顔が大事だという気持ちだけだ。
それに、もしわたしが彼の全部がほしいと言ったのなら、迷わずにいいよと言ってくれそうな危うさを彼は持っているから。だからわたしは、わたしの中の精一杯の余裕をかき集めて、彼がしなだれかかってくれるのをいつだって待っているのだ。仄暗い本心から零れる言葉を伝えるにも、冗談で包み込んでしまうしか、方法を見つけることが出来ないまま。
「若い女の子に目移りしたりしないでね」
――それでもこの言葉は、彼を黙り込ませてしまうくらい、重さを持ってしまうのだから。
ようやく彼は身体をちょっとだけ浮かせてくれて、深く息を吸いながら彼の顔があるほうへ振り向いた。それを待っていたように性急にくちびるが降りてきて、やっと解放された酸素の通り道を奪われる。顔とソファの隙間に差し込まれた腕と、頬に降りかかる金糸のような髪。全身に加わったままの体重に圧迫される。まだ日は沈まないというのに、わたしと彼の顔には灰がかった影が覆っていて、外界から遮断されたように、互いの息使いしか聞こえない。熱を持った双眸の奥にちらりと見えるぎらついた光が、倒錯的な目眩を引き起こす。瞳同士で交わすちょっとした駆け引きは、彼の目の奥に見えた優しさがそのケモノみたいな光彩をかき消したことであっけなく終わった。
浅く、ふかく、緩やかに舌先が絡まってゆく。
全てをなし崩しにしてしまうのとは違う、理性を持った上手できれいな気持ちのいいキスだった。ふふ、と、先程と同じように笑ってしまったわたしに、今度は彼も笑い返す。ちゅっと鼻先に触れさせたキスを頬へのキスで返されて、それで今は十分にカンペキだったのだ。
「もー、ムードないんスから」
「だって、ご飯の買い物もしてないし。涼太くんなに食べたい?」
「なまえさん、て言いたいとこスけど、ハンバーグ。オレ腹へった」
ようし、それじゃあ今日は煮込みハンバーグにしよう。そう言うと、まるでさっきまでかけられていた体重が嘘みたいにあっさりと退いて、差し伸べられた腕に引き起こされる。
こうやって、まぶしい彼を後ろからそっと眺めるわたしを、いつだってこの人は隣に並ばせてくれるのだ。彼より年を多く重ねていたって、ちっとも上手く自分の心を扱えないわたしのことを、彼は「大人だ」と不安がって、いつだって安心させてくれる。いつだってあたたかい。
顔を好き勝手に覆う乱れた髪を、涼太くんは大きな手でちょいちょいと梳かしてくれる。そしてそのままわたしの両頬を包んで、軽く唇を啄ばんだ。
「――目移りなんか、してる余裕ないっスよ」
いつだってこの身体の真ん中を甘く震わせるのは、彼の他にはあり得ないのだ。