「なまえさんそれマニキュア?」
「そう、かわいいの見つけちゃったんだ。塗ってもいい?」
「ん、いいよ」
ことん、とガラスのぶつかる音を立ててテーブルに置かれた小瓶には、ミルクティー色の液体が詰まっていた。なまえさんがその瓶のふたをそっと持ち上げると、ハケにまとわりついたとろとろの液体が重力に従って落ちて行く。かすかに鼻を突く刺激臭と、膜を張るように色づいていく小さな爪。オレはこうやって女の人がマニキュアを塗るのを見るのははじめてだったけれど、なるほど、とてもきれいだと思った。
桜のようなピンク色でも、ビビットな黄色でもない、ヌーディーなミルクティー色のそれは、甘くて優しくて、でも確かにオレよりいくつか歳を重ねた「おんなのひと」の色で、なまえさんにぴったりだ。
「似合うね」
「ほんとに? でもわたし、ぶきっちょだから塗るのヘタクソなの」
互いの視線が混じらないままに続けられる会話は、気安さが滲み出て心地いい。けれど、自分の視線の先には彼女の真剣な顔があるのに、その目が見つめるのは爪を染めるためだけの液体だなんて面白くない。言っていることがかみ合っていないのは重々承知。
ヘタクソだと言いながら、今のところはきれいに塗られている小さな五枚の爪。塗られたばかりの液体は、まだ濡れたように白熱灯の光を受けてテラテラと光っている。甘くて優しくて、と言ったけれど、ヌーディ―カラーと言うだけあって、なんだかとてもエロチック。スバラシイ。
「高尾くん器用だし、こういうの得意そう」
「そうでもねぇけど……」
そう言われて彼女の爪を染める自分を想像してみると、なかなか悪くない。ふむ、と口をつぐみながら見るなまえさんは、集中しているのか無意識に口を尖らせていた。
あ、かわいい。
染まっていく爪ではなく、器用にハケを扱う彼女の表情をまじまじと見つめてみると、口を尖らせるほかにも色んな表情にころころ変わって行くことに気付いた。その様子を前にしながら、ふと消えていく「悪くない」という自分の考え。
「やっぱ、なまえさんがやった方がいいわ」
今までと変わらない口調で返したオレの言葉に、「えー、そうかなあ」と間延びした返事が返る。テーブルの上で組んだ腕に顔を傾けながら、そのまま黙ってなまえさんを見つめた。
マニキュアを塗りながら表情を変える彼女が、ひどく魅力的だったから。
上手に塗れたときのご機嫌そうなくちびるとか、はみ出したときの小さく寄る眉間。利き手側の爪を塗るときの集中した顔、きれいに塗れた五指を掲げた満足そうな横顔。オレが爪を染めてあげることで見れるのだろう、嬉しそうな表情も捨てがたい。けれど、なまえさんのいろんなかわいい顔を見れなくなるのなら、そんなのご免だ。
できることならその百面相をオレに向けて欲しいと思うけど、それはまあ、オレの腕にかかってるってことで。
「……塗れた?」
「塗れた!」
満足げな声を上げて、爪が触れ合わないように気をつけながら小瓶にふたをしたのを見届ける。なまえさんがきれいに染められた爪を見せようと、身体をこちらに向けるのに合わせて、薄い肩に手を添えながらそっと体重をかけた。
両手を伸ばしたまま、とん、と軽く跳ねて床に倒れたなまえさんは、丸い目を更に大きく見開いたまま、オレを見る。じわじわと赤く染まっていく頬に、なんだこっちのほうがずっときれいじゃないか、なんて気障なことを思った。
「――え、と、あの、高尾くん?」
「あんまり暴れると、せっかく塗ったマニキュアとれちゃうよ?」
そっとかすかに染まった頬を撫でてやるのと同時。一瞬にして身体を固くして、頬の赤がぶわっと広まる。とてもきれいだ。
――ほら、やっぱり。
一生懸命に爪をかわいく染める君はとても魅力的。だけどそうやって見つめるのなら、つまんない液体なんかより、オレの方がずっと魅力的じゃない?