オーマイガー!

 これはまずい。なまえは思わず天を仰いで神様に膝をつきたくなった。しかし携帯端末から届くのは分からず屋の減らず口ばかりで、自分から折れることはどうしても出来そうにない。売り言葉に買い言葉というアレだ。

「だから高尾は友達だって言ってるでしょ。緑間くんと一緒だよ」
『その緑間っちが「仲良い」って言うくらいなんだから相手はそういう気もあるんじゃねーの』
「仲良かったらすぐ好きだ嫌いだになるわけ。ちょっと過保護すぎ」
『過保護にもなるでしょ! あんま会えないし、なまえは他の男と遊ぶし……だから海常にしなって言ったのに』
「浮気してるわけじゃないし。ていうかまたその話? しつこい。そんな話するために電話して来たの?」
『黒子っちになまえが他の男といるとこ見たって言われて心配したの! てか誰高尾クンて』
「黒子くんだって浮気とかそういう意味で言ったわけじゃないでしょうに……一緒にお茶したし」
『はあ?男ふたり連れてお茶? 信じらんね……つーかだから高尾クンて誰ってば』
「友達だって言ってんじゃんさっきから! もう涼太めんどくさい」

 それから二・三言言った気はするが、何を言ったのかは言ったそばから忘れてしまった。そしてぶつりと切れる通話。先程までの騒々しさが嘘のように静まり返る通話機器を見て、頭を抱える。――ああ、神様。これはまずい。



<He talks…>
「なまえといい、その高尾クン? といい、なんなんスか秀徳は!」
「秀徳でひと括りにされる意味がわからないのだよ」

 目の前で派手な金髪の頭が大袈裟にうなだれる光景を、緑間は冷静に受け流しながら大きく溜息した。ふたつ並んだお冷のグラスのひとつを取り、喉を潤す。中学時代のチームメイトに呼び出され、とあるイタリアンファミリーレストランを訪れたのだが、来なければよかったと緑間は来て早々に後悔していた。リーズナブルな価格を売りにしたファミリーレストランは自分たちと同世代の学生たちのたまり場と化している。そうなれば、自分たち――というか、目の前でうなだれている見た目だけは綺麗に整った男のほうへ視線が集まるのは至極当然のことだった。色めき立つ女子学生の眼差しを受けて、緑間は辟易としたのち、『こいつは痴話喧嘩に人を巻き込むような男だ』と言ってまわりたくなる気持ちをぐっと飲み込む。
 黄瀬と緑間、そしてなまえは、同じ帝光中学校を卒業しており、緑間はそのときからの黄瀬となまえの付き合いを知っている人物でもあった。黄瀬の、物事に人を巻き込みがちな体質と、ひとりで抱え込んではいられない性格のせいで、中学時代はよくなまえ関係の話に振り回されていた記憶は今も根強い。しかし、中学を卒業し、黄瀬と異なる高校に進学してからもその迷惑行為は続き、寧ろその頻度は増したように思うのだ。――なぜなら、その黄瀬の恋人であるなまえが進学先に選んだのは、自分と同じ秀徳高校だったからである。

「緑間っちはいーっスよ、毎日なまえに会えるし……なまえもなんでよりにもよって秀徳……」
「家が近いからだと何度も言っていただろう。しつこいのだよオマエは」
「緑間っちまでそんなこと…ひどいっス。つか、高尾クンて誰スか」
「バスケ部のヤツなのだよ。オレとなまえとも同じクラスだ」
「同じクラス! なんてうらやましい響き……許すまじ高尾クン」

 憎々しげに呟いた黄瀬が、グラスに注がれた水を一気に煽る。タンッとテーブルに叩きつけられたグラスの音に、注文を取りに来たウエイターが迷惑そうに顔を顰めた。その様子を気にも付けない黄瀬が海老とイカのドリアを注文する。「緑間っちは?」「オレは家で食べる」「あっそう。あ、アイスティラミスも追加で」――女子か。
 緑間が注文をせずに『家で食べる』と言ったのには、『早く帰りたい』という意味も込められていたのだが、黄瀬がそれに気付くはずもなかった。しっかりデザートまで注文をして、ドリンクバーへ向かおうとする黄瀬に、自分の分のグラスを無理矢理持たせたのは小さな腹いせだ。

 先週末、部活のない久しぶりの休日に、偶然なまえと高尾が街で出くわしたのだと聞いた。お互いにひとりだったために一緒に買い物をして、そのあとさらに偶然出会った黒子と共にお茶をしたというのだが、それが黒子から黄瀬へ伝わってしまったのだという。ただそれだけのことだというのに、黄瀬にとってはすこぶる面白くないことらしく、中学を卒業するときにさんざん聞いた、『どうして海常に進学しないのか』という不満を今になってこじらせることになったのだ。緑間と自分の分のグラスを両手に持って、こちらへ帰ってくる顔はむっつりとしかめられていて、その不満が今も蓄積していることを窺わせる。本当は進学先がどうだとか、高尾がどうだとかではなく、ただあまり一緒にいられないことが不満で、不安の表れなのだということは、自分でもわかっているだろうに。

「……面倒な男なのだよ」
「はあ!? 飲み物持ってきてあげた人に言うセリフっスかそれ!?」
「大体、浮気などではないことはオマエもわかっているのだろう」
「……でも、男とふたりで遊んだりされるのは、ホントに嫌っスもん」
「偶然に文句を言っても仕方がないのだよ」

 ぶつぶつと流れてくる減らず口をばっさりと一刀両断すると、うらみがましい目で『他人事だと思って』と同情を誘う声がする。他人事なのだから仕方がない。誘う同情を再びへし折って、海老とイカのドリアと共に運ばれてきた黄瀬のアイスティラミスを手元へ引き寄せた。オレの、だとか言って喚く黄瀬には耳を貸さず、備え付けてあったスプーンでひとくち分を掬って、舌へ乗せる。冷たくすっきりと甘いそれは舌の上で溶けて喉奥へ消えて行った。なかなか悪くはない。

「何度言えばわかる。あいつはオマエを気にかけているのだよ」
「……具体的には」
「オマエの出ている雑誌は文句を言いながらいつも買っているし、試合のこともうるさいくらいに聞いてくる」
「……高尾クンと仲良いんスよね?」
「高尾はいつも『惚気るな』と爆笑しているぞ」

 いつもは饒舌な舌がゆっくりと口数を減らして、ついには黙り込む。黄瀬に対してもなまえに対しても、こうして自分の時間を食いつぶされるのはいい迷惑だと思って仕方ない。けれどこうして、底抜けに明るいだけだと思っていた男が小さな声で、『ありがと』などと口走るものだから、本当にたまに、世話を焼くのも悪くはないと思ってしまうのだ。半分だけ食べたティラミスの皿にスプーンを伏せて、グラスから水をひとくち。

「半分で十分だな」
「……オレのこと面倒とか言うけど、緑間っちのその女王様なとこも大概直した方がいいっスよ」
「うるさい」

 机の下で黄瀬の足を蹴り飛ばし、あがる悲鳴を聞き流しながら、きっと明日はなまえに話を聞かされるのだと予想して、軽い息を吐いた。
 ――まあ、悪くない。



<She talks…>
「心配してくれるのはわかるんだけど、あの減らず口はちょっとなあ…」
「つーか、浮気疑われてるヤツとまたふたりででかけるってどうなのよ」

 『黄瀬くんかわいそー』と口では言いながら、高尾のくちびるは愉快そうに弧を描いている。向かい合わせに座ったなまえは、紙カップに刺さったストローを手に、中のオレンジジュースをくるくると混ぜた。混みあった夕方のファーストフード店は学生服の人で埋め尽くされており、窓際の席を確保できたのはツいている。というか、自分が注文を済ませてくるから座っておけと言い残してレジカウンターへ向かってしまった高尾のこなれた気遣いのおかげだ。Lサイズのポテトを真ん中にしてなまえはオレンジジュース、高尾はコーラを同じようにすすりながら、しかしなまえだけがその顔をげんなりと歪めている。
 話題は昨日の電話で起こった、なまえと彼女の恋人である黄瀬との喧嘩。高尾はただの痴話喧嘩じゃん、と思わずにはいられなかったが、その原因に他ならぬ自分の存在があったために大人しく話を聞いている状態である。

「オレはわりと黄瀬くんに同情しちゃうけど」

 長いポテトを選りすぐりながら呟くと、なまえが信じられないと言わんばかりに眉を顰めた。『男とふたりで出かけることが気に食わない』と言われたのだそうだ。そしてそれが発展して、『その男に気があったらどうする』となり、ついには『だから同じ高校にしろと言ったのに』と耳にタコなことを言われたらしい。その愚痴を、渦中の『男』本人である高尾に零すというのもどうなのだろうと思わずにはいられなかったが、この状況を作り上げられてしまったからには仕方がない。なまえと高尾と、もうひとり同じクラスである緑間が、帰り際ひどく嫌そうな顔をして人に呼び出されたと言っていたが、きっとその相手はなまえの恋人である黄瀬涼太その人なのだろうと予想する。
 ――ふたり揃ってカップルの痴話喧嘩に巻き込まれるなんて、オレたちってさびしーヤツ。眉間に深い皺の寄った彼の顔を思い出して、苦笑を堪えることができなかった。

「友達とたまたま会ったから遊んだだけだよ? なんか悪いとこある?」
「そう言われると悪くねーけどさ、そこで『わたしにはあなただけよ』って言ってやるのが正解なんじゃん?」
「……きもちわる」

 シナを作ってわざとらしい女言葉を使うと、面白いように嫌そうな顔をするので、高尾は思わず笑った。なまえの言っていることは、たぶん正しい。今回の『恋人でない男とふたりで出かけた』というのは偶然がもたらしたものだし、なまえにも高尾にも、その先にどうにかなってしまおうという意識もなかった。けれど恋人からすると、裏事情や当人たちの気持ちがどうこうよりも、その事実こそが面白くないことなのだろう。高校が違い、普段恋人がどんな生活をしているのか知りえないのならなおさらだ。もしも自分が黄瀬の立場ならば、それはやはり、面白くない。そして『彼女には自分だけだ』という決定的な言葉がほしいと思ってしまうのも仕方がない。

 考え込むように無言で咥えたなまえのストローから、空気を吸い上げる音がしてそこに液体がないことを知らせる。それでもストローを口に含んだままのなまえは、納得いっていない様子は見せても反論する気配もない。高尾はなまえの、素直なのかそうでないのか判断しきれないところが好きだった。見ていて愉快だし、つれなさの中に素直さが覗くところは可愛いと思う。直接会ったことはなく、なまえや緑間の話からその存在を知ることしかなかったが、黄瀬がなまえに文句を言いつつも、離そうとはしない理由も少しわかる気がした。それを言っては話がややこしくなることは目に見えているので、きっと誰にも言うことはないけれど。

「……わたしが折れないといけないってこと?」
「折れるんじゃなくて―、ただ好きだって言ってやればそれで済むんじゃね?ってこと」
「恥ずかしくない?」
「オマエが恥ずかしいから黄瀬くんはうれしいんでしょうが」
「うわ納得いかない」

 そう言いながらポテトを摘まむなまえの口からは笑みがこぼれた。高尾はとうの昔に飲みきってしまった中身を無理矢理吸い、氷が解け薄まったコーラを飲み下す。

「でもさ、そうやって言うのって、オマエのことはないがしろにしたくないってことじゃん?」
「……そうなのかな」
「あんま会えなくてバスケとモデルで忙しくてもヤキモチ妬いちゃうくらいだし」

 黄瀬が全国区の強豪バスケ部でエースを張る傍ら、モデルとして雑誌を賑わせていることもなまえから聞いていた。緑間は興味のなさそうな顔をしていたけれど、雑誌に映る黄瀬を見て、時折寂しそうな顔をするなまえの頭を不器用に小突いていたことは覚えている。黄瀬が載る全ての雑誌を律儀に買い集めて、照れ隠しに『お金がいくらあっても足りない』と文句ばかりを漏らしているが、芸能界という自分たちの想像の範疇にもない世界に住む恋人に、喉が焼けそうな思いをしていることも確かなのだろう。虚勢を淡白さで覆い隠して見えなくしてしまうなまえの姿を、黄瀬は知っているのかと思いを巡らせて、高尾は首を振った。そんなものは邪推だし、杞憂だ。バスケと仕事で忙殺されそうな時間をやりくりしているとは思えないくらいにマメに震えるなまえの携帯端末や、惜しげもなく全面に現れた嫉妬はなまえへの感情がどんなに強いのか示している。こうやって人の言葉をもらわなければ譲り合えない両者だけれど、それはそれで、お似合いなのだ。

 テーブルの上に出されたスマートフォンを、何をするでもなく触るなまえの素振りに、耐えきれず口元がにやついてしまう。きっと好きだ好きだと伝えるのは黄瀬のほうなのだろうから、たまには言ってやればいいのだ。そうしてまたなまえが笑うための口添えならば、自分はたぶん、惜しみはしない。

「……いい彼氏じゃん」
「……しってるよ」
「やだなまえもツンデレ? オレの周りツンデレ多くて困るわー」
「ちょっと緑間くんと一緒にしないで」

 明日は、なまえに無理やり話を聞かされるであろう、ツンデレ一号の愚痴に付き合おう。
 ――そんな関係を、オレは意外と気に入ってる。



<He talks…>
 昨晩の電話から、彼女の名前が履歴にのぼることはない。着信やメールの欄に名を連ねるのは、顔も覚えていない女の子たちのものか、部活の先輩か。その一番上にある名前は目の前で人のデザートをかっ食らって、半分食べたらもう要りませんとか大層不届きなことをのたまう男のものだ。そのメールで取り付けた約束通りこうして話を聞いてもらっているわけだが、なんだかんだで諭されてしまうあたり、緑間っちと比べて自分はまだまだ子供なのだと別のことでまた少し落ち込んだ。

 画面に親指を乗せてスライドする。何の反応もない。あーあ、もう。謝っちゃおうかな。電話帳を起動させて、彼女の名前をゆっくりとなぞった。
 偶然が引き起こした出来事に、理不尽なことを言ってしまった自覚はある。学校のことだって、いまさらどうしようもないことだというのも分かっている。けれど、そんな理屈めいたことで片付けてしまえるような、理路整然とした気持ちではないのだ。いつだって彼女の顔を見ていたい気持ちに余裕なんてなくて、いつだって彼女の声を聞いていたい気持ちに妥協なんてできない。ちっとも治まることのない独占欲は、いつだって順序や段取りなんてものをすっ飛ばしてしまいたくさせるのだ。
 でもそれで彼女の行動を縛りつけるつもりもない。だから、オレがその理屈や正論を受け止める代わり、たったひとこと、『自分だけだ』って言葉さえあれば、それだけでいいのに。

 溜め息を吐きだそうと一瞬息を詰めたそのとき、手の中の携帯端末が激しく震えて、出すつもりの息を呑みこんで呼吸器官がパンパンになってしまった。その上、相手はなまえそのひとで、今度は胸が苦しくなって自分はこのまま死んでしまうんじゃないだろうかと心配になる。

「どうした」
「……なまえからメールっス…」

 緑間っちに何とか言葉を返して、心臓が胸を叩く痛みを感じながらメールを開く。色味のひとつもないメールはいつものことだけれど、血が逆流しそうな衝撃はいつものことだと片付けられなかった。


差出人:なまえ
Re:
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高尾に彼氏自慢なう
「いい彼氏じゃん」だって



ごめんね。すきです。

-END-


 高尾クンの名前がいちばんに出てくることとか、また一緒にいるのかとか、でも彼にオレのことを話していたのかとか、言いたいことは数えきれないけれど、最後の四文字が余計なことをすべて洗い流してしまう。向かいで緑間っちが不可解そうな顔をしているけれど、大丈夫とか言う余裕もない。それ以前に大丈夫じゃない。
 血が逆流して、沸騰して、テーブルに顔を伏せて頭を抱えるくらいで済んでいるのが不思議なくらいだ。身体中のありとあらゆるものが大暴れして、全身の力が抜ける。ああもう、息ができない。

「あー……もうやだ…」

 ――神様。オレはこの先ずっと、彼女に心を揺らされ続けるのでしょうか。いやこれは、神様に聞いたって仕方がない。オレの心の安泰と鼓動のストロークを担うのは、こんなメールを寄こしてしまう彼女の他にはいないから。
 憎らしいオレのおんなのこ。どうしようもないことだってわかってはいるけれど、オレはやはりこの考えを捨てることはできそうにない。この緑色の男とまだ見ぬ高尾クンとやら、遠い東の王者の御許から、青海原の光を受けた自分のもとへ、いますぐ君を攫ってしまいたい!
- ナノ -