さよならフェアリーテイル

※現代パロディ



「この前制服の男と歩いてるとこ見かけたけど、おまえ弟とかいんの」

 息が、止まった。いや、息どころではない。身体中の全機関が、おそらく二秒くらいは完全に停止した。そしてさらに一秒後、全身の血流が勢いよく回り始め、毛穴という毛穴が開き汗腺が崩壊する。仕事の時ですらあり得ないほどに脳がフル回転して、いっそのこと真っ白になってくれたらよかった。一体わたしが何をしたというのだろう。入社してから四年、たった一度の遅刻もなく、病気による欠勤も一度だけ。思った以上にハードな業務に文句も言わず、地味ながら日々黙々と仕事をこなし、社内に何の波風も立てずに過ごしてきたわたしにはあまりにもひどい仕打ちではないだろうか。神よ。頭の中で神様への恨み言を吐き連ねながらも、実際には一言一句として言葉を発しないわたしを、先ほどの発言をした男が不審そうに見つめている。誰のせいで生命の危機を感じていると思っているのか。
 隣のデスクに座る男は、シャープな輪郭とアーモンドカットに切り開かれた瞳が印象的な、正統派イケメンといった端正な面持ちをしている。流行りものが好きで洒落っ気があるが、名前は和泉兼定と随分古風だ。実はそこそこ名の知れた名家出身らしく、わたしのような根っからの一般人ではと、同期ながら初めの頃は少し距離を置いていたけれど、彼の気さくな振る舞いと仕事が少々ポンコツなことも手伝ってか、今では会社で最も多く言葉を交わす人間の一人になっている。
 彼には何の恨みもなかった。たった今まで。

「なに不細工な顔してんだ」
「うるさいな」

 このあけすけな物言いも、特に気にしたことはなかった。今の今まで。

「弟にしては似てなかったよなあ」

 当たり前だ。あんなきれいな顔を生み出す遺伝子はうちの家系には存在しない。頭の中で考えを巡らせるだけで一向に応えようとしないわたしを尻目に、和泉は勝手な想像を繰り広げてゆく。学ランだったから、中学生、いや高校生か?とか、やけに懐いてる感じだったな、とか。普段なら仕事もポンコツで、そんなところを目撃してしまうくらい間も悪いくせに、勘ばかりはいいのだから嫌になってしまう。
 冗談を言うみたいな軽い口調で、核心じみたことを口にしてしまうところも。

「まさか付き合ってたりしてなあ?」
「そ、んなわけないでしょ!」

 はじめて、明らかな否定をして、それを「そりゃそうか」と当たり前みたいに笑い飛ばす和泉を見ながら、とてもじゃないけれどわたしにはそれに倣う余裕なんてなかった。言えるわけがないのだ。
 ――社会人四年目にもなる女が、付き合うとまでは行かずとも、高校生に振り回されているだなんて。



「なまえさん」

 そうやって、彼はわたしを呼ぶ。そこらの女の子よりも儚げで華奢な姿から生まれてくるには意外と思わせるほど低く静かで、すこし甘い声。フランス人形にも負けない白く滑らかな肌と、桜貝みたいな色をした薄い唇。あまりにきれいな姿は、近寄りがたい冷たさを感じさせるけれど、『大きさ』と『切れ長』を同居させたような涼しげな瞳には、わたしより十歳も年下だなんて微塵も感じさせない慈愛みたいなものが滲んでいる。――十歳も年下。彼、藤野薬研くんは、十六歳の高校一年生だ。
 元々彼のことは、同じマンションの住人だったから顔を知っているというくらいのレベルで知り合いだった。とは言っても、わたしが住んでいるのは単身者用、彼は世帯用に家族で住んでいるのだろうから棟は別で、通勤時に時々マンションの玄関で鉢合わせるくらいのものだ。
 はじめてまともな会話を交わしたのは、マンションの近くのパン屋さんで偶然彼と同じタイミングで来店していたときだった。先に来店していたのはわたしで、翌日の朝食を求めて一通り店内を回ったあと、最後の一つになっていたクロワッサンを自分のトレーに移したときだ。

「あ」
「え?」

 自分の頭のほぼ真横から声がして、すぐに、それが自分に向けられたものだとわかった。顔を上げて、その人が思いの外近くにいたことと、その人がすごくきれいな顔立ちをしていたことも相まって、一瞬心臓が縮まる。そう思うくらいに、驚いたのだ。すぐには言葉が出てこなくて、わたしと彼はたぶん5秒間くらいは見つめ合っていたはずだ。美少女、と見間違っても無理もないほどの、美少年。美少年だとすぐにわかったのは、彼が詰襟の学生服を着ていたからだ。中学生か、高校生。どちらとも見れる、絶妙な風貌をしている。しばし見つめ合っていた美少年は、はたと目を瞬かせ、申し訳なさそうに眉を下げた。

「……あ、ああ、悪い、気にしないでくれ」
「いや……あの、これ、譲りましょうか」

 これ、と差し出したトレーの上には、クロワッサンしか乗っていない。促されるようにトレーの上へ視線を移した美少年は、目を丸くしてから再度わたしの方へ目をやって、それから肩をすくめて微笑む。

「大丈夫だ。じろじろ見て悪かった」
「あの、大丈夫。わたしこれ今朝も食べたから。どうぞ」

 そう言った言葉に、嘘はない。わたしは、クロワッサンが残っていたら必ずそれを選ぶほどにこの店のクロワッサンが好きだ。けれど、毎日食べなければ不機嫌になるなんてこともないし、こんな美少年と言葉を交わすきっかけになったのならクロワッサンを譲るくらい大したことのない損失だ。クロワッサンを自分のトレーから美少年のそれへと移して、自分のトレーには空になってしまったクロワッサンのカゴの隣にある、ブルーベリーデニッシュを乗せる。ブルーベリーとクリームチーズが相性抜群のこのデニッシュだって、大好物だ。

「……いいのか」

 一連の動作を見つめていた美少年は、そう言ってこちらを見据える。どの端正な顔つきは、美少年に間違いなかったけれど、わたしが彼の言葉に頷いたあとに見せた表情は、中学生や高校生らしくかわいらしいもので、ここしばらくときめきの機能を見せることのなかった心臓がきゅんと高鳴るのを感じた。そんな邪なわたしをよそに、美少年は自分のトレーの上に乗ったクロワッサンを見ながら、そっと目尻をほころばせる。

「これが好きな弟がいるんだ。助かる」

 この表情を見た瞬間、クロワッサンを譲ったこと、それどころか、クロワッサンがたったひとつ残っていた偶然、それから名前も顔も知らない彼の弟がクロワッサンを好きでいてくれたことに心の底から感謝をした。日々つまらない仕事をこなして、会社と自宅の往復をするだけの毎日が今日この瞬間のおかげで彩られたような気がしたのだ。
 わたしはお礼を言う美少年に気にしないでと告げ、浮き足立った心地でブルーベリーデニッシュを買って、店を出た。あんな美少年と言葉を交わせた。それだけで満足だった。これきりになるなんてわかりきっていたし、そもそも自分よりずっと年下の学生相手に何か期待することなんて思考に上りさえしなかったのだ。
 なのに、店を出たわたしの腕は、慌てたようにわたしを追ってきた美少年の手に引き止められていた。驚いて声もなく振り返るわたしをじっと見つめて、儚げな見かけを裏切る、低く静かで、すこし甘い声が、鼓膜を揺らす。

「……あんたの名前が知りたい」

 ――これが、はじまりだ。



「お待たせしました」

 びくりと、身体が揺れる。頬杖をついていたテーブルの上に、カップを乗せたソーサーがそっと置かれた。カップの中のコーヒーは、静かな波紋を描いている。
 わたしの勤める会社の入ったテナントビルのすぐ隣にある喫茶店ロワゾブルーは、会社の隣でなければきっと来ることもないだろう、わたしには敷居の高い純喫茶風の店内だ。レトロなインテリアや店内にかかるジャズのバックミュージック、どこかのモデルみたいに綺麗な店長さんは、わたしをそわそわと落ち着かなくさせるけれど、笑顔の気安い快活な女性店員さんや、バイトくんたちとお客のやり取りは、どこかアットホームで居心地のいい、不思議な空間。営業帰りや仕事終わりに、時々ここでぼうっとした時間を過ごすのが好きだった。
 その喫茶店のバイトの一人である、赤髪と活発そうな顔立ちが印象的な彼は、声をかけた途端に跳ね上がるわたしを見て、そっと顔を覗き込んだ。

「どうかしました?」
「ううん、大丈夫。……あの、愛染くんていくつ?」

 誤魔化し笑いを浮かべてから、取り繕うように言う。この彼も薬研くんと同じように学生なのだろう。薬研くんよりは年下なのかもしれない。そう思っているわたしに、首を傾げたままの愛染くんは何ともなしに言ってのける。

「十六です。高一っすよ」

 ――おもわず頭を抱えた。
 愛染くんは仕事ぶりからもしっかりしていることが伺えるけれど、やはり顔立ちは少し幼い。その彼と、薬研くんが同い年。薬研くんがとても高校生とは思えないほどに落ち着いていて大人っぽいから、忘れてしまいそうになるのだ。あからさまに落ち込むわたしを心配そうに覗き込むような、素直にかわいいと思える愛染くんと同じ。薬研くんは、こどもなのだ。

「……やっぱり、ありえないよなあ」



 とぼとぼと帰路を行くわたしの背中は、きっとみすぼらしく丸くなっているのだろう。頼りなく動く足を見ると、パンプスの爪先が削れていて余計に悲しくなった。――こんないい大人が、高校生に振り回されて何をやっているのだろう。
 告白をされたとか、そういうことではないのだ。パン屋で引き止められて、名前を聞かれて、勢いのままに連絡先を交換した。交換したわりにはあまり連絡はなくて、その代わり、マンションの玄関や例のパン屋で鉢合わせることが多くなった。それとなく尋ねると、行く時間を変えたのだと言われた。そのうえ、「あんたに会えるかと思って」なんて付け加えて。たとえばそれを、会社の同僚に言われたのなら、自分に気があるのだと思うだろう。けれど、相手は薬研くんだ。おもわずため息がこぼれてしまうくらいの美少年で、高校生。そんな男の子が、どこにでもいそうなくたびれた会社員に興味を持つなんて、それはどんなお伽話なのだろう。
 そのお伽噺が万が一現実のものになったとしても、わたしはそこに飛び込むことなんてできはしないのだ。

「なまえさん」

 ――名前を、呼ばれた。聞き覚えのある声の先には、もう閉店してしまったあのパン屋の側の街灯の下に佇む薬研くんの姿があった。

「おかえり」

 そう言って、微笑んでくれる様子に確かに胸が高鳴って、同時に悶々とした何かもくすぶってゆく。はじめて会話をしたあの時、呑気にときめいて浮き足立っていた自分を蹴り飛ばしてしまいたかった。

「おつかれさま。ほら」

 そんなわたしに、薬研くんがひとつのビニール袋を差し出す。見覚えのある青いビニール袋は、今日わたしが行くことのできなかったあのパン屋のものだ。

「……クロワッサン」

 そのパン屋のビニール袋の中に、クロワッサンがひとつ。それを見た途端、仕事に疲れ、薬研くんのことを考えてもやもやしていた胸の中がじんわりとあたたかくなる。

「やるよ。朝飯なんだろ」

 ――だめだ。だめなのに。嬉しくなってしまう。

「……ありがとう。お金、返すよ」
「いらねえよ、それくらい」
「高校生に奢らせるわけにはいかないよ」

 薬研くんは、高校生だ。パンひとつの金額だって死活問題のはずの、こどもだ。そう何度も言い聞かせて、わかりやすい大人のふりをする。本当は、そんな高校生が買ってくれるパンひとつに、信じられないくらい嬉しくなってしまう、ただの女なのに。

「なまえさん」

 すこし固くて、熱を持ったような声がわたしを呼ぶ。

「……こどもだと思われたくねえんだ、あんたに」

 到底信じられないことのはずなのに、信じられない要素などひとつも見当たらないくらい真っ直ぐな目が、ただひとり、わたしだけを見つめていた。

「あんたが好きだ」

 薬研くんの低く静かで、すこし甘い声が、導くようにわたしを突き落としてゆく。こどもだからなんて、そんな理由では踏みとどまれない、だめな大人になってしまうよ。



(無配 web再録)
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