キャットガール、ほほえんで

 ――どうしたものか。ボーダーA級隊員歌川遼は息を詰まらせて考えを巡らせる。隊のミーティング用に使用許可を申請していた会議室。少し早目に到着したはいいが、こんなことになるだなんて思いもしなかった。ブラインドのかかった会議室は密室も同然で、逃げ場もなければ何かこの人を言いくるめる言葉も見つからないし、ついでに言えば目のやり場もない。目の前に迫るきめ細やかな白い肌と小ぶりな朱色のくちびる。それから、チャックを胸元まで下げたライダースジャケットの下の黒いインナーは、どうしてそんなに首回りが広いのか。浮き上がる鎖骨は目の毒以外の何物でもないし、インナーとジャケットを押し上げる確かな質量をした胸に、歌川は大袈裟なほど首を反らす他なかった。それが彼に迫る彼女の気を一層良くさせるなど、考える余裕もない。

「歌川くんてさ」
「……」
「高校一年生なんでしょう」
「……は、はい」
「にしてはすっごくハンサムだよねえ。モテるでしょう」

 にっこりと、グロスで彩られたくちびるが弧を描いて、歌川はまたしても息を呑んだ。モテる・モテないという境界がどこなのかはわからないが、学校で自分の身近にいる少女たちの中に、この人のような女がいないことだけはわかりきっている。こんな風に熱烈に迫られることがモテるということなのだとしたら、いっそモテなくてもいいとすら思う。ギリギリまでのけぞって、これ以上は動けないと、自分の坐っている椅子の背がぎしりと鳴いた。ジーンズの上で拳を作る。身体が触れてしまわないように身動きひとつとれず硬くなる歌川を尻目に、彼女は一層身を寄せてくる。椅子の背に手を回して、今にも片膝を乗り上げんばかりだ。

「会うの久しぶりだよね。さびしかったなあ」
「ええと、みょうじさん、先週、会いましたよね」
「だって蒼也くんも菊地原くんもいたじゃない。ふたりっきりでってこと」

 これは、まずい。歌川のこめかみを汗が一筋流れた。

 きっかけはまるで思い出せないが、歌川はボーダー内部でもわりと有名なこの人――みょうじなまえからいたく気に入られているようなのだ。女性の戦闘員というだけでも珍しいのに、この人はA級隊員でありながらチームを組まないということで有名だった。この人がいたチームは痴情のもつれで解散したとか、全員と付き合って別れてを繰り返して自然消滅したとか、まことしやかな噂があるけれど、少なくとも歌川と出会ってから今まで、彼女はチームに属することなく一匹狼を貫いて任務にあたっていた。歌川の属するチームの隊長であるあの風間と同期かつ同じ年で友人関係にあるみょうじが、そんな不埒な真似をするとは思えない歌川だが、確かに彼女は、自分が気に行った人間をこうやってからかう(本人がどういうつもりでやっているかは怖くて聞けないので、からかい目的の冗談だ、と思うようにしている)のが好きなようだから、そういった噂が立てられてしまうのも仕方がないことなのかもしれない。
 とはいえ、自分がみょうじの言動に振り回されて、困っているのも事実だ。だからと言って、乱暴に引き剥がしたりというのは、どうしてかできない。先輩だからとか、隊長の友人だからといった理由ももちろんだが、ボーダー隊員とはいえ、やはり女性だからというのが大きい。危害を加えられるわけではない(と思う)し、自分が受け流してやり過ごせればそれが一番いいのだというのはわかっている。だがしかし、自分はこれを、どう受け流せばいいというのだろうか。歌川はめまいを覚えた。

「照れてる?かわいいなあ、わたし歌川くん好きだよ」
「そ、れは、どうも…」
「ふふ、つれないなあ」

 視線が刺さって痛い。逸らしていた目線をみょうじのほうへちらりと寄こすと、黒々とした睫毛に縁取られた大きな瞳が、きゅうと細まって、歌川は思わず唾を呑んだ。自分はそこそこの美人だという自覚がきっとあるのだ。性質が悪い。吸い込まれそうな瞳から目を逸らせなくなって、首から肩へ、椅子の背に掛けられていたはずの手がするりと降りてきた感触がする。――ああ、喰われる。

「やめろ節操なし」

 張り詰めていた空気を切り裂くような鋭い声がして、その瞬間にみょうじの姿が歌川の視界からがくりと外れた。べしん、と、遠慮なく何かを叩きつけたような音もした気がする。歌川が何度か瞬きを繰り返して、落とした視線の先には後頭部を両手で抑えて蹲るみょうじの姿があった。女性に熱烈に迫られるという悩ましい体勢から抜け出すことが叶った歌川は、ようやく満足に呼吸をして、全身の力が抜けていくのを感じる。あのままだったらどうなっていたのかという思春期的な期待はなくはなかったが、それよりも厄介な状況から抜け出せたという安心の方がずっと上回っていた。深く深く溜息を吐いて、傍らに立つその人へ視線を送る。

「ありがとうございます、風間さん」
「いや。災難だったな」

 みょうじを殴り伏せたのは、歌川の所属する隊を率いる風間隊長その人だった。後ろには歌川と同じく風間の下に着く菊地原とオペレーターである三上もいる。「痛い……蒼也くんひどい」恨みがましい目をして風間を見上げるみょうじは、床にへたり込んだままだ。そのみょうじを見下ろす風間の目には、呆れが半分と、諦めに似たものが半分浮かんでいる。

「おまえはいい加減人のところの隊員に手を出すのをやめろ」
「蒼也くんの隊とか関係ある?」
「じゃあ21にもなる女が高校生に手を出すのをやめろ」

 紛れもない女性で、しかも女性らしくか弱い素振りをしてみせるみょうじの発言を冷静に切り捨てていく様はさすが同期だと言わざるを得ない。風間もみょうじも、ボーダーの戦闘員としては古株で、年齢的にもトリオン器官の性質上ほかのボーダー隊員のほとんどから『先輩』と言われる立場の人間だ。それでいて更にこういう振る舞いをするみょうじを今のように雑に扱えるのは、風間と、もうひとり玉狛支部の木崎くらいのものだ。

「だって若い子のほうがかわいいんだもん」

 みょうじは全く悪びれる様子もなくくちびるを尖らせるので、長く思い溜息を吐く風間の眉間には深い皺が刻まれている。

「歌川もこんな人に気使わないで『うざいです』って言えばいいのにさー」

 風間の影からひょっこりと顔を覗かせた菊地原は、冷ややかな目をして言う。立場をあまり重んじず、歯に衣着せぬ物言いをする菊地原は、みょうじの言う『若くてかわいい』部類には含まれないらしく、にっこりと完璧な笑顔を作り上げて、立ち上がりながら菊地原に顔を近づけ毒付いた。

「歌川くんはきみと違って紳士なんだよ、菊地原くん」
「うっざー。みょうじさんに紳士にする意味がわかんない」

 単調に言葉を吐き出していく菊地原の様子は、言葉通り『うざい』と言わんばかりのものだったけれど、風間や歌川には甘えたことばかり言うみょうじのまっすぐな言葉とこうして言い合うのは、菊地原は嫌いではなかった。長い睫毛をたたえた瞳と静かに睨み合う彼の口元は、面白そうに引き上がっている。そのふたりの間に立ち、風間は自分より高いところにある頭と、かろうじて低いところにある頭を同時に叩いた。同じひとりの女に、毎度誘惑される者と、会えば口喧嘩ばかりする者。自分の部下ながら、厄介な奴に目を付けられたものだと溜息する。

「やめろ。それからみょうじは出ろ。これから隊のミーティングだ」
「えー、わたしもいちゃだめ?終わったらみんなでご飯行こうよ」

 「ね、歌穂ちゃん」みょうじはそう言って、最後方にいる三上の傍に寄り、彼女の腕をそっと抱きしめる。風間は三度、深い溜息を吐いた。みょうじの構い癖は、何も異性に限ったものではない。彼女が気に入ったのであれば、それは同性である女性の隊員にも向けられるのだ。むしろ、同性相手ならスキンシップも直接的になるし、相手の困惑の度合いも男に比べて少ないため注意もしづらいぶんたちが悪い。事実みょうじに腕を絡め取られている三上も、眉をハの字にしてはいるが、照れ臭そうに微笑んでいるだけだから、風間は他のふたりのときのように諌めることが出来ずに眉間の皺をひとつ増やした。

「ご飯くらいいいじゃないですか、風間さん」

 そんな様子の風間に何を勘違いしたのか、三上がそう告げるので、風間は観念したように息をついてあっさりと眉間の皺を消した。

「……わかった。飯には付き合うから外で待っていろ。三十分ほどで終わらせる」

 自分とほとんど変わらないところにある頭へ手を伸ばす。高貴な生き物の毛並みのように艶めいた前髪をなぞるようにひと撫でして言う風間の声は、いつも通り淡白なものであったけれど、穏やかな優しさがたっぷりと含まれているものであった。みょうじはその手と言葉を受け入れるように目を細めて、肯定の意味を込めて微笑んでみせる。たまらなく蠱惑的で、それでいて愛らしい。そんな頬笑みを浮かべる彼女は、まるで猫のように、彼らの懐で丸くなるのだ。

 ――結局のところ、みょうじに甘くなってしまうのは風間も同じだということは、隊長を除いた風間隊の面々が口には出さずとも共感していることのひとつなのである。
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