明日、海が枯れる

 青白く曖昧に光る空の日に、その封書は届いた。厳重に封をされ、いつも届く戦績を包んだものとは手触りの異なる封筒。受け取った主人はその中身に目を通すと、五秒間だけ目を閉じ、そのあと俺の目を見て微笑んだ。ちりりと、胸の真ん中でくすぶる感情が火を含んで赤く染まる。今にも炎を上げそうな熱を、そっと押し殺して彼女の言葉を聞いた。
 主人の言葉通り、本丸にいる全ての刀剣を広間に集めると、主人は彼らを目の前に先ほどの封書を読み上げる。静かで、淡々として、それでいて酷く、悲しいくらいに優しい声をしていた。呼吸の乱れる音はしても、誰も声をあげなかった。どこまでも穏やかな顔をした自分たちの主人の声が、それを許してはくれなかったのだ。

「政府より任期の通達がありました。わたしは、この本丸を去ります」

 自分たちを喚び、繋ぎ止め、慈しんでくれたその声が、さよならと告げている。深く冷たい場所で、さざ波が打つような寂しさを享受しているであろう仲間たちの横で、俺の身体の内側では、未だにちりりと熱が渦を巻いていた。当たり前に押し殺していた熱が、呼吸と一緒に身体からこぼれてしまいそうだ。――彼女の声が、姿が、遠くなる。

相模国 本丸第七三〇六号
 ――通達。貴審神者第二四〇九五号は、任務における霊力・体力の損失が著しく、今後の任務において生命維持が困難と判断した。ついては本丸を後任に委譲、そののち政府該当部門にて引き続き尽力されたし。
 なお、退任は本日十二月十日より一ヶ月後の一月十一日。後任は、退任の翌日着任とする。

 俺を顕現したその女は、元々審神者としての能力に特別秀でた人ではなかった。神職の家系の末席として生を受け、その類の職種のものには等しく出された政府からの審神者着任の要請に応じたのだという。現世において、家を継ぐ立場も優れた才能もなく、それならば断る道理はないと着任した審神者としての力も、同じだった。自分に特別なものなど何もないのだと言う主人は、いつも半分困ったような顔をして笑っている。自分のように秀でたもののない人間がいるのは当たり前で、それを悲しく思う必要はないのだと。
 彼女の力が影響しているのかどうか定かではないが、敵の討伐率や任務の成功率、刀剣の保有率などを鑑みて提示されるこの本丸の評価はあまり高くない。それでも日々の任務をこなし、中々上がらない戦績に政府から辛く当たられても、俺たちを責めることは決してしなかった。同じような本丸があと数十、数百はあり、何も気負うことはないのだと言って笑っていた。力の消費に伴い、体調を崩すことも少なくはなかったというのに、それに対する言葉も同じだった。主人は自分を、無数にいる人間のうちの一人だと言う。その言葉に間違いはないのだろう。けれど彼女は、俺たちにとって、俺にとって、他のどこにもいない、たったひとりの特別なひとだった。
 彼女の側でその声を聞くたび、笑顔を見るたび、苦しくなってゆく部分が、自分も彼女にとってそうありたいと望んでしまうようになったことを、あの人は知らない。刀として、臣下として共にあろうと、腹の中にくすぶる熱を隠して従順に振舞ってきたというのに、共にあることすら許されないというのか。今までどんな任務も厳しい評価も、主人が従うならばと享受してきた。だが今、『政府』という中身の知れない人間の塊を、俺は初めて憎んだのだ。

 私室へ戻った主人は、俺たちの前ではああやってしゃんと背を伸ばしてそこにいてくれても、やはりひとりになると少し疲れた様子を見せた。いつもなら勤勉に文机に向かう後ろ姿は、足を投げ出し、背を丸めたものとなって、机上には政府からの例の封書が乱雑に放られている。

「なあ大将」

 呼びかけたならいつだって、こちらを向いて微笑んでくれたのに、今はその姿がこちらを振り返ることはない。近侍として向かい合ってきた今までの主人を、あんなちっぽけな紙切れがこんなにも遠いものにしてしまう。

「主人が決めたことに文句はねえ。あんたは勤め人だ。政府の言うことに従うのも間違ってない」

 彼女のすることに、間違いなんてひとつもないのだ。俺たちの手を引いて、正しい明日へ連れて行ってくれるたったひとりの人。だからこそ、彼女自身の望みを押し殺してほしくはなかった。

「けど、あんたは――」

 言いかけて、微動だにしなかった背中がそっとこちらを振り返る。ねえ薬研、と遮るように呼ばれた先の主人の目が、今にも泣いてしまいそうで思わず呼吸をやめた。任務に失敗しても、演練で負けても、決して涙を流さず微笑んでいた彼女の瞳が、大きく揺れる水面のようにゆらゆらと移ろっている。ああ、まただ。自分の内側にある炎が渦を巻く。その熱に浮かされて、腹の底で何かが膨らんでゆくのだ。――ねえ薬研。それならあなたが、

「わたしを攫ってくれるの」

 息が、震える。膝の上に置いていた指の先が、鋭く痺れた。目を逸らすことのできない彼女の瞳は、まるで深い海の底のように暗く静かな色をして、その先に、瞬くような、爆ぜるような、光が見え隠れしている。その主人の瞳に射抜かれて、自分の身体がふたつに裂けてしまうような錯覚を覚えた。この人を、攫って、隠して、この手の中に仕舞っておけたなら。

「……うそだよ」

 そう言って、数度瞬きをした彼女の瞳に、もう海の底を見つけることはできなかった。静かに息を吐いた主人は眉を下げて、「薬研」ともう一度、今度は言い聞かせるように優しく、俺を呼んだ。

「抵抗しても、審神者の権利が剥奪されるわたしにできることは何もない」

 ここを去るのだと言ったときと同じように、悲しいくらいの優しい声。あの海の底を思わせるような瞳と、熱を孕んだ縋る声を知ってしまった今となっては、どちらが彼女の本当の望みを託したものなのか、わからなくなってしまう。ぐしゃぐしゃに混ざり合った思考の自分に、審神者としての彼女の凜とした声が告げる。

「そんなわたしのために、あなたたちを使うなんてしたくない」

 俺たちのことを思ってくれているときの主人の顔は、いつだって笑顔だ。自分たちを大切に思う彼女の気持ちと同じように、俺たちも彼女の笑顔を大切に思っている。言いたいことがあまりにも溢れて、結局何ひとつ言葉にすることはできなかった。言葉以上に、もうひとつ他のものを抑えることに必死だった。胸のあたりをきつく握って、唇を噛む。そうしていなければ、手を伸ばしてしまいそうだったから。攫ってくれと言うなら、それなら。
 ――彼女のすることに間違いなんてひとつもない。けれどもしそれが間違っていたって、彼女が望むのならば、俺は何ひとつ正しくない明日が来てもそれで構わなかったのに。

 主人が退任する約束の期日までを残り数日としても、本丸の風景に変わりはなかった。普段通り、出陣と遠征をこなし、演練にも参加する。ただ、食事の際はそのとき本丸に残っている全ての刀剣が必ず揃うようになったし、主人と時間を過ごそうとする刀剣が前以上に増えた。けれど、夜になり主人が自室へと戻ったあとは、誰もそこへ近づくことをしなかった。これまでに、兄弟たちをはじめとする短刀が主人に添い寝を請いに行くことは何度もあったし、酒盛りをしていた連中が主人を誘いに行くこともあった。それが、ぱったりとなくなったのだ。その原因は、主人がこの本丸を去ると告げたあの日からしばらくして、乱がぽつりと言った一言にある。

「泣いてるんだ、主様。毎晩ひとりで」

 自分の声で肉体を与えた俺たちを置いて、皆で過ごした本丸にたったひとりで背を向けるのだという主人は、昼間はいつもと変わらない笑顔を浮かべている。戦う刀剣たちを鼓舞し、傷つく刀剣たちを慰め、感傷に揺らがぬ審神者の顔をした彼女が、その影で毎夜、自分たちを恋しがって泣いているというのだ。誰もがその背を抱きしめたくてたまらなかったが、自分たちが顔を出せば彼女はきっとその涙を隠してしまうから、皆同じように膝を抱えて、どうか明日が来ないようにと願いながら眠る。そして、残された時間がさらに短くなっただけの明日が来るのだ。



 今日も、皆が寝静まり主人が涙を流す本丸の夜を、月が煌々と照らしている。月が一等輝く夜空は、漆黒よりは青く藍よりは黒い複雑な色をしていた。空の先に海はないとわかっているのに、自分の視線はその先に彼女の瞳に見つけた海の底を探している。主人の私室へ足が向いてしまったのは無意識だった。彼女の瞳の海を忘れることなど、あれから一時もないほどに焦がれ、求めていたからかもしれない。微かに明かりの漏れる障子に向かい呼びかけると、ややあってから「どうぞ」と声がした。戸を開けた先の主人は、寝床の支度は整えていたがそこに入っていた様子はなく、そばにある文机で書き物をしていたらしい。行燈の明かりに照らされた瞳がわずかだがたしかに潤んでいた。――やはり今夜も、泣いていたのか。

「どうしたの、薬研。こんな遅くに」
「何だか寝付けなくてな。悪い、寝るところだったか」

 主人が隠れて泣いていることを知っていて、そんなことを言うのは意地が悪いのかもしれない。けれど他に言葉が見つからなくて、うまく表情を作れない俺を、少し困ったような、力の抜けた笑顔で迎えてくれる彼女自身も、もしかしたら彼女が泣いていることに俺が気付いていることを、わかっているのかもしれなかった。

「ううん。わたしも、眠れなかったから」
「……そうか」

 彼女がゆるく首を振ると、黒くまっすぐな髪が波を打つように揺蕩う。普段は結い上げられている髪が胸の前まで降りている姿は物珍しくて、俺を落ち着かなくさせる。渇かされているが、湯上りでしっとりと纏まった髪は、少し動くだけでやわらかい花のような香りを漂わせた。その香りに、身体の中までを満たされる。そして彼女の伏せた瞼と、その縁を彩る細く繊細な睫毛の奥にある瞳が、俺の視線を釘付けにするのだ。――暗く冷たい、海の瞳。
 その海に身体を沈めたなら、きっと凍えるほどに冷たいのだろう。自分の姿も見えないほどに暗く、その暗さが恐ろしいのに、朝が来るのが嫌だとひとりで己を抱きしめている。そんな海を、彼女はこの一揃いのまなこに飼っているのだ。

「悪い夢でも見るのか」

 俺の言葉を聞いて、彼女は泣いているような、苛立っているような、それでも形だけは微笑んだ複雑な表情を見せる。――悪い夢。自分でも口にしていて、言葉にはならない感情がこみ上げる。彼女がこうやって毎夜泣いているのも、刻々と迫る別れも、自分が今からしようとしていることもすべて、悪い夢だったなら。俺たちはふたりとも、きっとそう思っているはずだった。
 けれど、主人の薄く開いたらくちびるから静かに溢れる吐息は、夢だなんてそんな曖昧なものには到底出来ないほどに、甘く空気を震わせるのだ。

「……朝が来るのがね、怖いの」

 そうやって、今にもその海を溢れさせそうな目をして、怖いと、寂しいと言う。その追い縋るような声色は、『審神者』ではなく『彼女』自身の弱さを見せつけているようで、眩暈がするような心地に襲われた。
 ――あんたが朝が来るのが怖いと言うのなら、俺はその朝をすべて飲み干してしまいたくなるのだ。いっそ、嗤ってくれ。

「大将、あんた前に、俺に自分を攫ってくれるのかと聞いたよな」

 瞠目した瞳に、海が見える。その海に溺れたいとも、消し去ってやりたいとも思う。誰かが俺からこの人を奪うのなら、俺はこの人を朝から隠してしまおう。共にあれるならばそれでいいと、押し殺していた熱。永久など望めるわけもないとわかっていたから、最後のときが来るまでに、いつか、思いを交わせるときが来たら。そんなまぼろしを夢に見ていた。
 本当は、まぼろしも夢も、いらないのだ。ほしいのは、ただ彼女ひとりだけで。

「攫ってやりたいと、言ったら」

 ――ひとつ、わかっていたことがある。政府からの通達は、俺に、きっかけをくれたのだ。

「あんたを、今、手に入れたい」

 いつかでなく、今。先のことなど、考えるのも億劫だ。揺れる海の底の瞳が、その水面に波紋を刻んで、頷いたのを見届けてから、そっとその身体を手繰り寄せた。彼女の手が、恐る恐るといった具合に自分の背中を滑ってゆくのを感じて、くちびるの隙間を埋めるように口を塞ぐ。唇と唇が触れ合う感触は途方もなく甘美で、どこか朧げで、自分の呼吸が、口を塞いでいるのとは違う理由で苦しくなってゆくのがわかった。震える下唇をやわく喰んで、くちびるの内側の粘膜が重なる濡れた感覚がここちよい。合わさるくちびるの角度を変え、舌先を咥内に滑らせるたびに、熱い息とくぐもった声が自分のくちびるの中へ吸い込まれてゆく。

「ん……やげ、ん」

 刀剣たちを呼ぶ優しい声とも、本丸を率いる凜とした声とも違う。熱を帯びてどこか甘い、自分を攫ってくれと言っていたあのときの、縋るような声が、俺の急いた胸の内をあっという間に散らかして行った。くちびるを離して、続けざまに首筋へ舌を這わせる。その勢いのまま、敷かれた布団の上になだれ込むと、広がった髪の毛先をそばに置いてある行燈の灯りが橙色に染め上げた。主人の白い肌もその灯りに照らされていたが、灯りの橙色よりも目に付いたのは、もはや誤魔化しようもないほどに上気した彼女の頬の色だった。
 ――ああ、きれいだな。
 白から朱色へと移り変わってゆく肌の色、迷いと恍惚に揺れる瞳は潤んで、肌けた襦袢から覗く胸元の膨らみとその影を、行燈の灯りが照らし出して、切り取られた一枚の絵のようだ。ずっと眺めていたかったけれど、自分はこのきれいな人間に触れることができるのだと思うと、すぐに全身が甘く痺れた。

「っ、」
「すまん、手が冷えてるな」

 灯りに誘われるがままに胸元の輪郭に指を滑らせると、ぴくりと白い肌が震える。触れた肌はあたたかく、指先にじわりと熱が宿ってゆく。冷たさに震える彼女の額の上でひとつ吐き出した息は、指先とは比べものにならないくらいに、熱かった。

「――すぐに熱くなる」

 彼女に触れたそばから、熱が伝染して思考が鈍ってゆく。指先から伝わる熱も、肌の柔らかさも、痛みを伴うと言ってもいいほどの鮮明な衝撃となって内にある熱を高ぶらせた。
 くちびるに唾液をまとわせながら、輪郭、首筋、と滑らせてゆく。自分の唾液で鎖骨の尖りが濡れて光って、たまらず強く吸うと、肌に鬱血の跡がひとつ散った。口付けを繰り返しながら撫で上げる掌の下で、彼女の体が小刻みに、時折跳ねるように震えて、それが自分の高ぶりを助長しているようだった。頭の中が、うるさいくらいに脈を打つ。

「あっ、ん!」

 胸の先の膨らんだ部分を指がかすめると、その震えは一層ひどく、声は甘くなる。鼻にかかった声に急かされるようにしてそこを口の中に含むと、思わずといった具合に溜め息を吐き出して、そのあまりの熱っぽさに背骨の付け根のあたりがびりびりと痺れた。

「だ、っめ、薬研」
「駄目? どうして」

 こんなにいい声になってきたのに。言いながら、ぷくりと膨れた胸の先を舌で弾く。もう片方はてのひらで形を変えたりさすったりを繰り返しながら散々に舐ると、身体の下で彼女の身体も悩ましげに捻れた。甘く熟れた声に、鼓膜から犯されているようだ。自分が触れることで彼女が次々と表情を変えるのだと思うと、自分の中のあらゆるものが満たされてゆく心地がする。てのひらが胸の膨らみから肋骨の上、へそ、そして恥骨の窪みを通ったあたりで、彼女の腹部が大げさに跳ねる。

「う、あ……」
「はは、待ち遠しいな?」

 まるで先の展開を期待するような動きに思わず揶揄をこぼすと、恨みがましげに眉間にしわが寄った。そのしわに口付けを落としながら、ゆるりゆるりと下腹部を撫ぜてゆく。皮膚の下でか細く波打つものを感じながら、指をその先へ滑らせた。潤んだ深みへ指先が沈んで、同時に彼女の喉が切羽詰まったように息を吐き出す。ぬかるんだその場所の表面をなぞるようにすると、刻まれていた眉間のしわが瞬く間に溶けてしまうものだから、可笑しみを通り越していとおしさのようなものがこみ上げた。
 やわらかく、すでにどこも濡れてしまっているそこで、唯一しこりを持ったその部分。そこをなぞるように摩ると、彼女はたまらないといった具合に背を反らせ、はくはくと息を吐く。

「っあ! 待って、それ、」
「これがいいのか? なら、もっとしてやろうな」

 お気に召したらしいその場所を、ゆっくりと、優しくなぞってゆく。擦り上げるたびにびくびくと腰を跳ねさせて、静かに彼女の身体がかたく、高まってゆくのがわかった。呼吸が浅く、短く変わる。意味をなさない喘ぎを繰り返す声は、仔犬が甘えているような切なさで、自分の指の動きと時差なく訪れる反応がいとおしく、狂おしかった。

「……大将が、こんな風に乱れるなんて知らなかった」

 しつこく撫で回したそこから指を退けても、余韻で細かく痙攣する内腿に口付けをする。自分の着ている襦袢から右腕を引き抜いて、白い肌に花を散らす。乱雑に帯を解いて、ふたりの間にある邪魔くさい布を取り払った。

「今までもずっと、こうしたいと思っていたと言ったら、あんたは幻滅するかもな」

 指先を、深く沈める。溢れた水で十分に潤ったそこは、たやすく自分の指を飲み込んだ。腹側の壁を擦りながら、柔らかく締め付ける粘膜の熱さに耳鳴りがしそうになる。溶けたような声が溢れる、だらしなく開いたくちびるはまるで腫れたように赤く、俺を誘う。その姿を目を細めて見つめながら俺は、ああやっと、という充足感と恍惚感、そして喪失感を同時に感じていたのだ。
 主人の身体を貫くような、人間の真似事をして、薬研藤四郎という刀の姿がぼろぼろと崩れ落ちてゆく。彼女の刀として従順に身を振るってきた己が、彼女の海の瞳にどう映っているのか。それを知ることが何よりも恐ろしかった。
 暗く冷たいその色は、行為の快楽に光を瞬かせても、俺を見てあたたかく光ることなどありはしないのだ。

「……そ、んなの、もうどうでもいい」

 ――わかっている。自分が、この人の弱さに付け込んでいること。この人の海を見つけたのが、偶然自分だったというだけだ。自分が愛されているだなんて、選ばれただなんて、思い上がってはいけない。それでも彼女を世界から奪う手段を選んだのは、ほかでもない自分なのだ。

「もういいから、薬研、」

 ぐずぐずにとろけたその部分が、瞳が、俺を呼んでいる。胸元から立ち上ってくる熱気を追うようにして彼女の指先が身体を這い上がると、とうの昔に腹の下で張り詰めていた自身が大きく脈打って、震えた息がこぼれた。
 触れ合った、どこもかしこも同じ形と質感をしたふたつの身体。なのに、その中を流れるものは決して交わりはしないのだ。人々の記憶の中で、悠久のときを得た不死の存在。その自分たちから見れば瞬く間を炎が一瞬爆ぜるように生きる、ヒトという生き物。こんなに近くにあっても、交わることは決してない。それを身体を繋げることで、無理やりにこちら側へ引き摺り込むのだ。身体を繋げて、名を縛って、本物の『永遠』を手に入れる。けれどそこに彼女の心がないなら、その永遠に何の意味があるのだろう。

「――俺を見てくれ、大将」

 そんな永遠などいらない。俺がほしいのは、彼女なのだ。たった今、この一瞬にそれを求めるだけ。その先に待つ色褪せた永遠など、今の彼女を前にしたなら瞬きの時間の価値もない。
 彼女を抱くことで手に入る永遠と、永遠よりも切望していた刹那。その矛盾を振り払うようにして、吸い付くように触れ合ったその部分を擦り合わせ、主人たる彼女の身体を、己のそれで貫いた。

「ッ、あ! ああ、」

 彼女の身体の中に沈めた自分のその部分は、すでに十分な熱を持っていたというのに、沈めた先の彼女の身体はそれ以上に熱く、それでいてじわりじわりと温かさをもたらした。温かさと、柔らかな圧迫感。そして彼女の心臓と同期しているのだろう、収縮の振動が、繋がっているその部分から直接伝わってくる。背筋から頭の先、そして足の先までが、震えた。
 ひとしきりその温もりを感じて、彼女の息遣いが落ち着いたところでゆっくりと律動を始めると、すぐにまた彼女の喉は泣き声のような喘ぎを繰り返す。

「ぅあ、あ、きもち、い」
「っ、俺も、気持ちいい、たいしょ……」

 駆け上がってくる快楽から逃れるように回された腕に引き寄せられて、少しの隙間もないほどに近くで抱きしめあう。繋がったその部分の動きは休めないまま、お互いの耳元に荒れ果てた息をぶつけ合って、身体が高まってゆくのを感じていた。じわじわと、波のように押して返していく快感が、ひっきりなしにやってきて腹の奥にたまっている。ぞくり、ぞくりと何かに押し上げられているようで、喉からこみ上げる呻きをこらえきれない。同じように欲を溜め、もはや喘ぎを隠そうともしない彼女が、濡れた喘ぎの間で、まるで存在を確かめるように俺の名前を呼んだ。

「ぁ、やげん、薬研」

 首を掻き抱いていた手が離れて、そっと彼女の手が両頬を撫でた。促されているようで、顔を上げて目を合わせると、彼女は両目の海を濡らして俺を見ていた。――俺を、見ていたのだ。そこに映っているのは、冷たく暗い海だったけれど、その先の微かな光の中に、たしかに自分が存在しているような気がした。言葉尻の震えた声で、彼女がもう一度「薬研」と彼女の一振りの名前を呼ぶ。

「なんだ」
「お願いが、あるの」

 どこにも寄り道をすることなく交わる二つの眼差し。お互いに荒い息遣いをしているはずなのに、彼女のくちびるが動く数秒はとても静かで、声が遠くに聞こえた。恐ろしかった。

「これから行く先で、もしわたしが駄目になってしまったら」

 瞬きも忘れて、その一揃いの瞳を見つめていた。冷たくて、暗い、俺と彼女の溺れる海の底。

「きっとわたしを殺してね」

 胸を、掻き毟りたくなる。たしかに俺を瞳に映して願うことが、永遠を共にすることすらできるその人の命を奪うことだなんて。
 炎が爆ぜるような一瞬をその一生として生きているヒトという生き物に、永久の時間は途方もなく長い。その『時間』という概念すらなくなった、自分たちしかいない空間で、どこへ向かうでもなく存在し続けることは、想像すらし難いことなのだろう。彼女はそれに耐えられなくなるのが恐ろしくて、自らを終わらせることを願ったのだ。
 一等愛しい人の、あまりに残酷な願い事。けれどその願いを違えることは、彼女に永遠を与えた自分には決して許されてはいけないことだ。この刹那を――彼女を手に入れるために、俺は色褪せた永遠と、彼女を殺める役目に身を落とす。彼女の冷たい海に沈んだまま、静かにその時を待つのだろう。吸い込んだ息が、震えていた。

「――ああ。必ず」

 主人の命をどこまでも守る薬研藤四郎はここで死ぬ。そのかわり、自分の愛した女の最期を預かる、この人だけの薬研になるのだ。
 やっと、欲しかったものを手に入れたのに、拭いきれない焦燥感が自分を急かす。繋がったその部分を、何度も何度も、奥へ奥へと、もっと深くへと繋げたがった。彼女の声が悲鳴じみた喘ぎに変わってゆくのが痛ましいようで、心地良くもあった。幾度となく押し寄せた強い快感の波が、もう、抑えきれない。彼女のことを呼んでいるはずの自分の声も聞こえないほど、彼女の声と息遣いしか聞こえなくなる。揺さぶられる彼女の姿以外の視界が狭まってゆく。彼女の目は、俺を見つめて、彼女の声は、俺を呼んでいた。夢みたいだ。これ以上のものなど、望めるはずもない。この一瞬を自分の全てに焼き付けて、先の永遠をきっと生きていける。たとえ彼女を殺めることを望まれる時が来ても、きっとだ。
 一心に俺の名前を呼び続ける彼女のくちびるが、ゆっくりと形を変え、息を吸った。

「――――」

 赤い舌が覗くとろけたくちびるが何か囁いている。それは、今までに自分が彼女に向けて心の内で唱えていた感情と同じ言葉だったような気がしたけれど、彼女との永遠だなんて夢みたいなものを手に入れてしまった自分が見せた、本当の夢だったに違いない。――あいしている、だなんて。
 ひときわ高く、甘い声が上がる。それを追うようにして、ふたつの身体が大きく脈を打った。倒れこむように抱き合って、目を閉じる。そして次に目を開けたら、永遠の世界が始まっているのだ。

 ――朝が来て、黄金に輝く朝日がすこやかな寝顔を照らしている。その頬を指先でそっと撫でながら、なあ、と、審神者その人の名前を呼んだ。

「俺は、あんたを連れて行く」

 約束の期日が訪れた本丸に、主人と一振りの短刀の姿はない。一人と一振りでも、二人でもない俺たちは、ほかの誰も知らない、彼女の瞳にしか海のない場所へ行く。



(刀さにR18プチアンソロジー「星にはじらい、月にためらい、あずけて夜までおりてきて」寄稿)
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