きみの縁取り、エトセトラ

 その人は、いつも自分の前を行く人だった。どこへ行くにも後ろをついて歩く自分の手を引いて、どこへだって連れ出してくれた。目新しいものを見つけると、一番にそれを自分に教えてくれて、同じことがしたいと強請ると、仕方ないなと言って自分を近くに置いた。「けいちゃん」と呼ぶと、必ず「なまえ」と笑ってくれるその人は、血こそ繋がっていなかったけれど、それでも自分の兄だったのだ。兄であり、自分には到底できそうにないことを軽々とこなし、自分の世界にきらきらと星を降らせる、ヒーローだった。
 そのヒーローに、これ以上ないほど夢中になり、熱中するものができた。なりふり構わず突き詰めた先で、ついにヒーローは一番を掴む。いつも通り、自分も当然のように飛び込んで、「けいちゃん」と、呼んだ。

「こんなとこまで追っかけてきて、おまえ何やってんだ」

 あの日、ヒーローは死んだ。



ある少女の憤慨

 みょうじなまえは落胆していた。先ほどの十本勝負を一から頭の中で再生しながら、どうして勝てないのかと恨み言にもならない唸り声をあげる。手に握ったペットボトルの口も切らないまま、ソファに足を乗り上げて膝を抱えると、隣に座る歌川が、「行儀が悪いですよ」と嗜めた。歌川には三対七だった。歌川の正確で隙のない戦い方は、なまえには相性が悪い。四つ引ければいいところで、勝ったとしても四対六の辛勝だ。今日も三つ取った内の二つはギリギリで、あまり善戦したとは言えないだろう。菊地原には四対六で負けた。菊地原には勝ち越すことが多いというのに、最近は五分にすら届いていない。喉の奥で呻き声を呑んだ。
 個人ランク戦用のブースが集まるロビーで、隊長とオペレーターを除く風間隊の攻撃手三人が一角を陣取っていた。本部の個人ランク戦用のスペースは、隊員なら誰でも利用可能なのでA級の隊員がいるのも当然だが、絶対数の多いB級C級隊員たちは、数少ない精鋭である彼らA級隊員をやはり遠巻きに眺める。毎回のそれにもはや慣れてしまった彼らは、何ともないような顔でランク戦に勤しむのだ。

「なまえ先輩最近調子悪くないですか?しっかりしてくださいよ、もう」

 ごくごくと喉を鳴らしながらペットボトルを煽っていた菊地原が、こちらを見てそう言う。なまえは不機嫌そうに唇を尖らせて、うるさいよと遠慮なく菊地原を睨めつけた。ちなみになまえと菊地原、それから歌川が持っているペットボトルは全てなまえの奢りだ。

「だって総当たり戦、最近はずっとなまえ先輩が負けてるでしょ」

 風間隊の三人は、頻繁に自分たちの中で総当たり戦を行う。それは単に自己鍛錬のためでもあったし、隊の連携を深めるためのものでもあったし、大声では言えないが、人見知りがちで人を選ぶ菊地原の鍛錬を怠慢させないためのものでもあった。ルールはその時々で変えられるが、総当たり戦での勝ち星制、そして最下位の者が他の二人に飲み物をご馳走するというルールだけは変わらない。いつもならバランス良く変動するはずの最下位だが、なまえはここ四回程の総当たり戦で最下位を連発してしまっている。隊での任務にそれほどの問題は出ていないけれど、ふつふつとフラストレーションを感じさせる今の状況。なまえにはその原因に覚えがあった。

「あのときってなんかあったっけ?二週間前くらいじゃない?」
「二週間前っていうと…太刀川隊との合同任務が決まったときあたりか」

 太刀川。その名前に、膝を抱えていた手をぎゅうと握る。もう片方の手で持っていたペットボトルがべこりと凹んだ。
 二週間前、A級一位である太刀川隊、そしてなまえ達の所属するA級三位風間隊での合同任務が決まった。近界民との交戦が目的である以上、時として隊を越えた連携が必要となる場合がある。それを想定して、時折複数隊での任務が課せられるのだが、今回はそれが太刀川隊と風間隊だったのだ。A級の上位チーム同士が組まされることは珍しく、実際太刀川隊と風間隊が組むのは初めてのことだ。
 膝を抱えた腕の下に隠れて、唇を噛む。『あれ』から、彼のことを徹底的に避けてきたというのに、とんだ不運だ。個人ランク戦で手合わせをするどころか、隊員として強いられなければまともに会話もしたことがない。だから、隊員のほとんどは知らないだろう。

「なまえ先輩って太刀川さんと幼馴染だって聞いたんですけど」

 なまえと太刀川が、幼馴染であるということ。
 兄のように慕い、いつも後ろを付いて歩いた。その太刀川を追ってボーダーに入った自分を、太刀川は「こんなところまで追いかけてきて、何をやっているんだ」と一蹴したのだ。確かに、ボーダーという、学校の部活動などとは大きく異なる戦うための機関に、軽率に身を置いたことは褒められることではないのかもしれない。けれど、誰かに憧れてボーダーに所属する隊員は星の数ほどいるし、なまえはその中でA級三位の風間隊に所属する実力もあった。ただ兄の真似がしたくて付いてきただけの、幼い気持ちと覚悟ではないことは、今であればわかってもらえるはずだった。けれど、太刀川のあの目は変わらない。呆れと苛立ちを滲ませた、温度のない瞳。前のように、優しく兄の顔をして笑ってくれることも、「なまえ」と呼んでくれることもない。そんな太刀川に、悲しみと、怒りにも似た寂しさが綯い交ぜになって、なまえは引っ込みが付かないままここまで来てしまった。
 歌川がこちらを伺うように寄越した視線に気付かないふりをして、腕の下に唇を埋めたまま、小さく呟く。

「……今は全然話さないよ」

 歌川と菊地原は、へえと相槌を打つだけに留めた。幼馴染なんてそもそも曖昧な位置付けのうえ、男女のそれならば年を追うごとに関係が希薄になることも頷ける。太刀川と幼馴染だということを知られれば、興味を持たれることも多かった。けれど今のような返事をすれば、それもそうかと納得されることがほとんどだ。なまえと太刀川の現状と、その原因を知るのは、隊長の風間と、同じA級隊員で学校のクラスも同じの出水、それから、なまえと太刀川のもう一人の幼馴染である、月見くらいのものだ。

 ――蓮ちゃんに会いたい。太刀川が兄ならば、月見は姉のような存在だった。太刀川には厳しい月見だが、なまえにはいつだって優しかったし、彼女がいてくれることが、太刀川から距離を置いたあとの自分をどれくらい支えていてくれたのかわからない。太刀川のことでなまえが弱音を吐けるのも、月見だけだ。彼女はあまり、このことを深刻に捉えてはいないようだったけれど。太刀川に嫌われたのだと言うと、その涼しげな瞳を丸くして、まるで冗談を言われたときのように噴出して、そんなことがあるわけがないと、確信があるような口ぶりで言ったのだ。なまえは食い下がる。だって太刀川は、月見を相手にそんなことは言わない。どうして、自分だけ。子供のように拗ねるなまえを見て、月見は微笑んだ。なまえと、そして太刀川を指して、しょうがないわねと姉のような母のような声色で。

「太刀川くんにとって、私となまえは違うもの」

 今でも、月見のその言葉の真意を、なまえはわからないでいる。月見と自分が違うことなんて、わかりきったことだ。太刀川と月見は年もひとつしか変わらないし、立ち位置も対等だ。太刀川がボーダーに入ったばかりの頃も、隊を結成してからも、たびたび月見から戦術のアドバイスを受けていたことを知っている。背も高くて、大人びていて、きれいで、太刀川と隣り合っていても見劣りしない。妹であるだけの自分と、信頼され、頼られる月見とでは、扱いが違うことなんて当たり前のことだった。
 月見がなまえに、そんな意地悪を言うとは思えないけれど、今でもなまえは、太刀川が自分を遠ざけるのは、自分の幼さに嫌気がさしたのだとしか思えないままだ。月見の言う、太刀川が自分を嫌うなんてありえないなんて、それこそ、信じられなかった。

 太刀川が側にはいなくても、ボーダーを辞めることはしなかった。強くなりたかった。背中を追っているだけだとは思われたくなかった。そして、実力を認められ、A級トップチームに入ることを許され、た。それでも、太刀川の目がこちらを向くことはないのだ。悲しみと苛立ちがごった煮になって、ふつふつと湧き上がるなまえに、菊地原が追い打ちをかける。

「ぼくあの人きらーい。なんか一位のくせにへらへらしてるし」
「……わたしだって」

 嫌いだ。あんなやつ。



風間蒼也の憂鬱

 風間蒼也は鬱屈としていた。目の前でこの髭面の男にこれ見よがしにため息をつかれるのはこれで何度目だっただろうか。今日は自分の隊の隊員たちが隊内での総当たり戦をすると言っていたから、大学が終わったらすぐに本部へ向かって口出しをしてやらなければと思っていたのに、講義室を出たすぐのところで待ち構えていた男に、それは阻まれた。どこから嗅ぎつけたのか、お互いの防衛任務や本部での会合がない日は、いつもこうして待ち伏せをされる。二週間前、自分の率いる隊と、この男、太刀川の率いる隊が合同任務を行うことが決まった日から、ずっとこうだ。男に待ち伏せをされる趣味はないと言ったら、いつも何を考えているのか読めない目を一層曇らせ、「俺だってないよ」と唇を尖らせる。そんな顔をしたところでかわいげのひとつもない男から目を背け、手に握った缶コーヒーをすすった。太刀川も同じものを持っているが、そのどちらも太刀川の奢りである。当たり前だ。年齢でいえば太刀川はひとつ年下だが、この男の抱えるくだらないプライドのために、自分の部下に使えるはずの時間を割くのだ。缶コーヒーでは足りないくらいだ。もっとも、その『プライド』の重要な部分を握るのが自分の部下の一人であることを、風間は知っているのだが。

「なあやっぱり、隊の振り分けもっかい考えないか?」
「しつこいぞ。俺には菊地原と歌川と唯我。お前には出水とみょうじをつける。この前の打ち合わせで決めただろう」
「そうだけどさあ」

 情けない声をあげる男と、風間の隊に所属するみょうじなまえは、幼馴染なのだという。兄妹でも親戚ですらない他人が、本物の兄妹のようにいつも近くにいる。その関係がこの歳になっても機能しているのは、きっと珍しいことなのだろう。話を聞いたときは、朝野も面倒な兄を持ったものだと同情したが、このふたりは少し事情が違うらしい。太刀川を追ってボーダーに入ったみょうじを、太刀川は撥ねつけた。後ろをついて回る自分に嫌気がさしたのだろうとみょうじは苦々しげに言い、それでも「何やってんだ」なんて言い方と、存在を遠巻きにするような態度は理不尽だと、その反骨心で技を磨いてきた。一心不乱な心持ちと、それに反する静かな戦いぶりが風間は気に入っているが、当の太刀川は、みょうじの言い分とは少し様子が違うようなのである。

「……あいつがいると、動きがおかしくなりそうで嫌なんだ」
「……」
「そりゃあ戦いになったら集中するけど、あいつが俺の後ろに付いてるなんて、気が散る」
「……みょうじはお前にそこまで言われるほど半人前ではないと思うが」

 ボーダー隊員たちの頂点に立ち、『戦闘狂』とまで言われる男が、弱音を吐くほどにうろたえる。風間はその様子を見て、『みょうじに嫌気がさした』わけではないのではと邪推をする。太刀川は決して口にはしないが、みょうじのやることなすことが全て心配でならないらしい。見ていると落ち着かなくなるから、見ない。話すと文句をつけたくなるから、口をきかない。全くもってくだらない、妹が心配なだけの兄のプライドだ。彼女の身を隊員として預かり、鍛えてきた風間としては、太刀川に彼女を頼りなく思われるのは少々心外だった。本人の気分に動きの精密さが左右されるなどまだまだ甘いところはあるが、それでも自分が鍛えた自分の部下である。ろくに会話もしない兄気取りに、兄だからといって過剰に心配をされるのは自分も、そして彼女自身も据わりが悪いだろう。そういう考えを込めて言うと、太刀川は難しい顔をしながら首の裏を掻いて仰け反った。

「わかってるけど……あいつ見てると、気が気じゃないっていうかなんていうか」
「……心配性な兄もほどほどにしろ」
「……兄?」

 『兄』というものの存在はよく知っていた。本物の、血の繋がった男兄弟と、幼馴染という曖昧な兄と妹では、勝手が違うというのは当然のことだろう。けれど、太刀川の振る舞いはいささか過剰だ。基本的に人に対しての興味が薄い太刀川にしては珍しいと訝しげな目をしてみせると、不意をつかれたような顔をして、ぽつりとその単語を繰り返す。
 合同任務は、もう目前だ。何が原因なのかはもはや言うまでもないが、ここ最近動きに精彩を欠く部下のことを頭に留めながら、どう声をかけてやろうかと意識を太刀川から逸らした風間に、彼の呟きは届かなかった。

「兄、ねえ」



出水公平の苦悩

 出水公平は焦っていた。いつも快活で温和な彼女が、これほど感情を殺した目をしたことがあっただろうか。しかも、その目は戦いの中でも払拭されず、いつもはない危なっかしさがひしひしと伝わってくる。先行しすぎだ。攻撃手は、当然射手よりも前へ出る。それはいい。だが、自分たちを率いる太刀川すらも置いて、近界民の群れの中へ中へと入っていく。まるでこちらから逃げるように。

「おいなまえ、出過ぎだ!」

 声をかけても、まるで反応がない。歯を食いしばるように表情を硬くして、いつにない大ぶりでスコーピオンを振り回した。近界民の装甲を割りながら切り裂いていく音で、こちらの声は届かないのだ。
 静かで、精密な戦い方が彼女のスタイルだった。攻撃手には珍しい長期戦型で、相手の間近で攻撃を避け、端から削り、ミスを誘う。詰めれば詰めるほど手、足と持って行かれ、隙を見せればすぐさま首を取られる。攻めたがりの攻撃手の中、なまえはその戦い方でA級トップチームの座をとった。そのなまえを獲得したのが風間隊だと知ったときは誰もが納得しただろう。隠密戦闘を得意とし、個々の実力はありながらもチームでの戦闘に重きを置く風間隊と、個々の圧倒的なセンスと戦闘力を盾にして斬れるだけの敵を斬り伏せる太刀川隊とでは、全くスタイルが違っていて、明らかに風間隊のスタイルに適した彼女を、隊長の太刀川は引き入れようとはしなかった。引き入れようとする素振りすら、なかった。出水が、その太刀川となまえが少し拗れた幼馴染という関係にあることを知ったのはその後だ。
 戦闘中、普段なら笑っているか、顔色を変えないかどちらかの太刀川が、珍しく眉をひそめて出水を呼ぶ。

「出水。みょうじを援護して、後ろに戻せ」
「了解」

 目の前のバムスターを放って、トリオンが流れ出る黒煙で霞みつつある背中を追う。すぐ後ろで、放置したバムスターが斬り伏せられ、崩れ落ちるような音がした。何体いようと、トリオン兵程度ならば太刀川の手には余る。周辺の近界民はひとまず太刀川に任せ、出水はなまえを追って地面を蹴った。――それにしても、今日は数が多い。

 合同任務を前に、太刀川隊と風間隊が集まるその場でなまえと顔を合わせた際、出水は彼女に声をかけて、それから一時動きを止めた。おうむ返しのように返ってきた声は抑揚も温度もなく、表情は明らかに硬い。彼女を太刀川の下に付けたのは失敗だったのではと思わないでもないが、任務直前の今となってはもうどうしようもない。「フォローするからな」と背中を叩けば、こちらがそう言っている意図に気づいたのだろう、情けない顔で、「ごめん」と笑った。口元は、引きつっている。
 そんな彼女を見ながらちらりと自分の隊長を見ると、こちらも、いつもとは様子が違うようなのだ。風間と何かを話している太刀川は、目に大概光がないせいで、普段から表情が乏しいように見える。しかし今日は、まるっきり無表情といってもいいくらいだ。なまえとはもちろん、口をきかないどころか、目も合わせない。彼女の入隊時の出来事がきっかけで、徹底的に避け合っていた両者が思わぬところで行動を共にすると、こうなるのか。しかし、そこはA級一位のチームで隊長を張る人物たるところなのだろう。太刀川に関しては、なまえを目の前にしても落ち着いている様子だった。学校で毎日のようになまえと顔を合わせる出水だが、同じように顔を合わせる機会の多い太刀川のことも、出水はよく知っているつもりでいた。そのときの様子とは大違いだ。かっこつけすぎ。
 時折彼女の様子を尋ねてくるくせに、話をするにつれ不機嫌になること。なまえがランク戦をしている映像を、作戦室で見ているときの顔があまりにもぶさいくなこと。『あいつ』や『みょうじ』と呼んで距離を保ちたがるくせに、自分でも気づかないうちに自然と、『なまえ』と呼んでしまっていること。彼女の前では決して見せないだろう様子を、なまえに言ったところで絶対に信じない。頑固者に挟まれる出水は、いつだってため息をつきながら、それでもふたりを放っておけないでいる。
 太刀川が、こちらを振り返った。任務が始まる。今日は出現する近界民の数が多くなる見込みらしい。大規模侵攻からすればずっとましだが、調査の予測に合わせてここ数日は数隊での合同任務が多く組まれている。とは言え、することはいつもの任務と変わらないのだ。何を気負うことがあるだろうかと言いたくなる太刀川の顔は、無表情だというのに緊張感が滲んで、おかしなことになっている。「出水、行くぞ」と声をかけられて、ああ、なまえにも声をかけるつもりなのだと悟った。近界民の群れの中に飛び込むより、幼馴染に声をかけるほうが緊張すると言いたげなのだから、出水は再びため息を吐き出すほかない。その出水の様子に気付くことなく、太刀川は固まるなまえの目前を、ゆっくりと通り過ぎる。

「みょうじ、いつも通りやれ」

 目も合わせないまま、すれ違いざまに言われた言葉に、一瞬にしてなまえの表情から力が抜けた。その脱力ぶりに、出水の背中がぞくりと震える。『なまえ』と、名前を呼んでくれていたのだという声が紡いだそっけない呼び名。――それから。

「……『いつも通り』なんて、知らないくせに」

 低く唸るような声が確かにそう言ったのを聞き届け、出水は息を呑んだ。ああこれは、危ない。

「なまえ!」

 彼女の背後に迫るモールモッドを片っ端から撃ち落していくが、間に合わない。狙っているわけではないと思いたいが、彼女が一心不乱に突っ込んでいる近界民の群れは戦闘型のモールモッドばかりだ。群れの真ん中でなまえが戦っている以上、火力任せで弾を打ち込むこともできない。頬や肩、腕、足、腹部のいたるところに傷を負って、まるで血液が流れ出す様を予見させるトリオンがゆらゆらと彼女の体から流れていた。普段の、静かで精密な動きはどこにもない。ただ力任せにスコーピオンを振りかぶるなまえの後ろから、斬り伏せたはずのモールモッドが、その凶刃を振り下ろす。さらに後ろにいる近界民に阻まれ、出水の弾丸は届かない。
 頭の後ろで、滅多に聞くことのない自分の隊長の叫び声が、『なまえ』と、彼女の名前を呼んだ。



ある青年の葛藤

 太刀川慶は苛立っていた。トリオン体の換装も解かないまま、転送ブースへの廊下を足早に進む。戦闘中は少しも気にならないのに、丈の長い隊服が脚に纏わり付いてひどく邪魔くさい。任務を終えて、風間とのやりとりもそこそこに、同じブースへ帰るはずの出水も置いて、本部へ戻った。一刻も早く、あの馬鹿を怒鳴りつけてやりたかった。数が多かったとはいえ、たかだかトリオン兵との戦闘で、彼女は緊急脱出を使ったのだ。A級隊員にまでなったくせに。自分を無視して。こちらがどんな思いでいるかも知らないで。
 ブースの扉を乱暴に開けると、オペレーターの国近が、緊急脱出帰還用のマットの側で太刀川を振り返った。「うわあ」と引きつった声を上げられたが、気にしていられない。

「国近。ちょっと出てろ」
「太刀川さん顔怖いよお、ほどほどにね

 国近は相変わらずの間延びした声で返事をして、一度だけ、未だそこに座り込んだままのなまえの肩を叩いてから部屋の外へ駆けて行った。肩を竦ませて萎縮したままの彼女は、怖がっているくせに、こちらから視線を逸らせないでいるようだった。その強張る表情も、震える息を吐き出すように動く唇も気に食わない。苛立ちが募ってひどいくらいだ。何をやってる、だから言っただろうと、怒鳴りつけてやりたかったのに。

「っけ、い」

 そう、零して、息を止める。それからたまらなく泣きそうな顔をして、「たちかわさん」と、唇を噛んだのだ。途端に、力が抜ける。いつの間にかきつく噛み締めていた奥歯のさらに奥から、ぬるい呼吸が通り過ぎていった。
 彼女に名前を呼ばれるのは、久しぶりだった。最後にそうされたのは、まだ彼女が笑顔で自分の後ろを付いて歩いて、側にいるのが嬉しくてたまらないといった様子の声を伴っていたときだ。あの恥ずかしい呼び名で。とても、とても遠い日のことだった気がする。それが今は、こんなにも冷たい響きで、彼女には少しも似合わない声色で、そうさせてしまっている。太刀川のぐらぐらと煮えきっていた熱が、少しずつ冷えてゆく。

「……おまえ、ふざけるな」
「……ごめんなさい」
「どれだけ心配したと思ってる」

 出水が焦ったようになまえの名前を呼んで、いつもなら気が遠くなるほどに集中できるはずの戦闘で、その声と派手な衝突音ばかりが耳を騒がせた。こちらから離れるようにして近界民の中へ消えていくなまえの後ろ姿に、もはや怒りと呼べそうなくらいの焦りが心臓を鷲掴むのだ。こちらにそんな思いをさせておいて、なまえは『心配』という言葉にあからさまな反応をする。座り込んだままの黒い革張りの表面を爪で引っ掻くような音がした。先程までの泣きそうな顔はなりを潜め、まっすぐな視線が太刀川を射る。

「心配される必要ない」
「トリオン兵にやられてるくせにか」

 先程の醜態を付いてやると、面白いほど素直に押し黙った。だが目の力は消えていない。まるで睨むように目を据えて、太刀川をまっすぐ見つめる様は、風間に向かって同じようなことを言ったときの風間の目とそっくりだ。あの人は、人に過保護だ何だと言うくせに、自分だって大概だということに気付いていない。『過保護』と『兄気取り』を口煩く繰り返すのは、自分こそ、彼女に兄のような心持ちを覚えているからだと思えてならない。隊長と部下の関係にしては、風間は些か彼女に甘いのだ。だが、そんなことはどうでもいい。兄の座などくれてやる。自分はもう随分と前から、いっそ眩しいほどにまっすぐこちらへ歩いてくるこの少女を、妹などとは思えなくなっていた。
 押し黙ったままこちらを睨む視線に耐えかねて、息を吐く。首の裏を掻きながら視線を逸らした。何がどうして、妹分兼好きな女と睨み合わなければならないのか。その理由が自分にあることなど、とっくの昔からわかりきったことではあったけれど。

「……いつも通りやれって、言っただろ」

 なまえの爪が、もう一度黒い革張りを掻く。再び視線をやった彼女は、眉を寄せて、目尻が赤く、唇を震わせた、ひどい顔をしていた。今にも止まりそうな呼吸をしているのは彼女なのに、その顔を見た自分の方が息が止まりそうだと思った。震える唇から溢れる言葉は、案の定ガタガタだ。

「わたしの『いつも』なんて、知らないくせに」

 悔しげに言うひなせの言葉を聞いて、太刀川の目の前に、ひゅんひゅんといくつかの記憶が横切っていった。――馬鹿を言うな。衝動のまま吐き出された声は思いのほか強く、なまえの震える声など簡単に掻き消した。

「知ってるに決まってるだろ」

 たくさん訓練して、A級になったことも。
 今でも風間さんに鍛えられていることも。
 出水に愚痴りまくっていることも。
 月見に弱音ばかり吐いていることも。
 ――全部、知ってる。

 太刀川がひとつひとつ呟いていくうちに、大きく見開かれていく瞳に光る膜が張ってゆく。その膜が、ゆらりゆらりと揺れるたびに光って、ああ光ったと思えばすぐさま、目の淵に溜まっていった。瞬きをひとつすると、その大きな目でも抱えきれないくらいの水分が溜まって、眉間にぎゅうと皺が寄る。ぶさいくなのに、この手で引き寄せたくなるのはどうしてだろうか。
 久しぶりに見た顔だった。ボーダーに入ってからの彼女の顔は、悔しそうだったり、真剣なものだったり、笑っていたりもしたけれど、太刀川がそれを目の前で直接目にすることは一度もなかった。それが今、自分のことを見てその目から涙を溢れさせようとしている。懐かしいくらいの泣き顔のままこぼれてくる言葉は、嗚咽と、それを堪えようとする呼吸のせいでひどい有り様だ。震えて震えて仕方ない声が、「なんで?」と言うのを辛うじて聞き取った。自分から突き放したくせに、彼女をずっと見続けていたのは、心配だったからに他ならないけれど、それを言うのは適切ではないだろう。先程の二の舞だ。だからと言って、必死で兄を追いかけるだけの幼い彼女に、『好きだから』なんて言えるわけがない。ならばと瞬時に選んだ言葉は、思いのほか、こっぱずかしい。

「大事だからだ」

 だから、ボーダーになんか入って欲しくなかったし、認めるわけにもいかなかった。撥ね付けて、傷つけたって、守られる側の人間でいてくれればよかった。なのに彼女は、自分を追ってA級にまでなって、自分のいないところで危険に身を晒し続ける。こんなことなら、自分の側に置いておけばよかったと、何度思っただろう。その頃には今更引っ込みもつかなくなって、周りの人間を通してでしか彼女のことを見つめられなくなっていた。でも、なまえを本当に突き放すことなど、自分にはできるはずもない。
 太刀川を見つめたまま丸く見開かれたなまえの瞳から、ついにぼろりと大きな雫がこぼれてゆく。

「……わるかった」

 ――ようやく言えた言葉だった。好きな女を突き放してひとりにして、こんなことならと何度後悔しても言えなかった言葉が、彼女の涙を目の前にしてようやく唇から滑り落ちる。言葉が溢れるのと一緒に、形のない胸のつかえも崩れてしまって、なまえの涙をこうして側で見ていられることが、太刀川をひどく安堵させた。
 涙をひとしきり流しきって、なまえがこちらを見る。太刀川を遠ざけるのことない幼い眼差しには、再び宿った憧憬と振り切りきれない不安とが交互に見え隠れしていた。

「慶ちゃんって呼んでもいい?」
「……いや、それはないだろ」

 昔から呼ばれ続けていた呼び名は、成人した髭面の男の呼び名にしてはあんまりなものだろう。そうやって呼ばれて振り返る自分を、風間や迅あたりに見られたらと考えると気恥ずかしいどころの騒ぎではない。それに、なまえからその呼び名で呼ばれることは、自分が彼女にとっての『兄』なのだと言い聞かされるようで面白くはないから、すぐには頷けなかった。渋る太刀川に、なまえは不満げな視線を寄越す。その瞳は今の今まで流していた涙の名残りで潤んでいて、それ以上拒むのは憚られた。ため息と一緒に「好きにしろ」と吐き出すと嬉しそうにするものだから、ようやく自分の側に戻ってきた彼女を留めておくためなら、もう少しだけ『兄』でいてやるのも、仕方のないことなのかもしれない。

「慶ちゃん」
「……なんだよ」
「けいちゃん」
「……なまえ」

 なまえの唇が象る自分の名前は、相変わらず恥ずかしい呼び名で、驚くくらい心地良くて、少しだけ泣きそうになった。促されるまま、彼女の名前を呟くと、不意に喉の奥が狭くなる。何者にも遮られることのない彼女の笑う顔を見て、太刀川はやっとのことで唇の端を綻ばせたのだった。
 風間曰く『兄気取り』の自分は、どうやってこの『妹気取り』を『好きな女』として扱えばいいのか。これっぽっちもわからないまま、なまえの前髪を一度、二度と、撫で下ろした。



(ワールドトリガー夢アンソロジー「恋の指先」寄稿)
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