本当に欲しかったものはもう忘れてしまったよ

 今、ここにいるこの時間だけを切り取って、自分のすべてだとしてくれたら、どんなに満たされて、楽なのだろうと心から思うよ。

 オレは、この人とふたりきりでこの部屋で過ごす時間がすきだ。それだけが大切で、必要で、ほしいものなのだとわかる。
だから、自分と彼女以外の、その周りで起こるあれこれ。例えばこの不可解な関係へのジレンマと彼女への気持ちで行き場をなくして、考えることを放棄してしまった透明な彼や、独占欲を拗らせて、彼女や自分たちを遠ざけようと甘っちょろい牙を剥く群青の彼。
 そういう、オレと彼女を取り巻くそのほかのことには、これっぽっちも興味がないのだ。

「ここに来る前に、黄瀬ちんに会ったよ」

 駄々をこねて、阿婆擦れだなんだと必要以上にひどい言葉をぶつけて、そのくせ誰より『一番』をほしがっている淀んだ黄金の彼にも、その彼らの話す『彼女』にさえ、興味がない。
 整頓された部屋のフローリングの上に、無造作に鞄を放りながら言った言葉に、彼女は目を丸めながらこちらを仰いだ。オレよりも少し長いくらいの髪が、肩からするりと落ちる。世間話のつもりで話すオレの温度と正反対に、空気がすうと冷たく変わってゆく。

「どうせオレが来る前にも誰かと会ってたに決まってるって、言われた」
「……ごめんね」

 傷ついた顔をして、目を伏せた。わからない。『そんなことないよ』でも『そうだよ』でも『そんなのどうでもいいよ』でも、なんでもいいのに、彼女は『ごめんね』を選択する。 オレが今この時間だけを欲していて、それ以外になんの意味も感じていないことを知っているのに、『この時間以外の彼女』の気持ちを、オレに傾けようとするのだ。
 オレはこの時間の、『オレの彼女』だけがほしくて、『彼らの彼女』をほしがったことなど、ただの一度もないというのに。

 ああ、思い出せない。『こう』なる前は、彼女はどんな人だったっけ?オレは彼女にどんな気持ちを抱いていたんだっけ?

「なまえサンが謝ること?黄瀬ちんがガキなだけでしょ」

 言いながら、彼女の座るソファの隣へぼすんと沈み込んだ。彼女からは、オレの好きな甘くて体に悪そうなお菓子のにおいはせず、代わりに柔らかで吹けば消えてしまいそうな花のにおいがした。 目を瞑って、彼女の肩に寄りかかる。オレと彼女の体格差では、寄りかかるだけで彼女のことを押しつぶしてしまいそうになる。けれど彼女は意外と頑丈で、けろりとした顔で逆に寄りかかってきたりするのだ。
 彼女は何も言わない。オレが、オレ達が、彼女をどう言おうと、彼女は決してオレ達を悪く言わなかった。彼女がオレの心の中に波風を立てないことは、ひどくオレを満足させたし、楽だった。許されて、与えられる。奪われることは何ひとつない。

 ――ああ、そうだ。最初は、姉みたいな人だと思ったのだ。優しくて、大らかで、安心する。 けれどいつだったか、彼女の瞳に導かれるがまま、間違いのようにそのからだに触れてしまってから、それまで自分がどんな風に彼女を思っていたのか、もう思い出せなくなっていたのだ。 抱き寄せてくちづけをした彼女は、それまで感じていた姉なんてものとは到底思えないほど、甘え上手で、わがままで、綺麗で。

「ねえ今日は、なにもしなくていいよ。一緒にベッド入って、手つないで寝よ」

 重なり合うように触れていた手を握る。彼女の手は自分のものと比べると本当に小さくて、包むようにするとすっかり見えなくなってしまう。 オレはまたそれに満たされて、彼に会って言われたことなど、頭の中の遠く見えないところへ消えていってしまった。そしててのひらの中で、彼女の手がそっとオレの指を握るので、先ほどのことが消えていってしまったことすら、もう忘れてしまうのだ。

「明日の朝まで、オレのこと考えてて」

 この時間だけ許される願いごと。オレはこの願いが叶うことを疑わないし、それ以外が叶うことを望まない。それ以外、ほんとうにいらなかったから。

「……いつも、そうだよ」
「……ん、そーだね」

 そうだ。いつだってこれが正解なのだ。次の日の朝まで、こうやって手を握っていられる間、この時間だけ彼女を自分だけのものに出来る。明日や明後日のことなんて、遠過ぎて考えることも億劫だ。いま、彼女の瞳に映るこの時間だけが、きっとオレが欲しかったものだから。

 ――手を握ると、あたたかかった。優しくて、大らかで、安心する。けれど、それだけでは満たされない確かな何かを、オレはもう見つけてしまったのだ。
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