レオのふたえ星

「今日の収録も集合時間ぎりぎりでさ〜、そろそろアイツなんとかしてくれよ」

 個室が多いことを売りにしている居酒屋の、四畳ほどの狭い個室。三杯目のハイボールを飲み干しながら言うと、向かいの席でレモンサワーのグラスを傾けていたなまえは、隠すそぶりもなく思い切り顔をしかめた。

「誰のこと?」
「わかるだろ。朔良だよ」

 自分と彼女、共通の知人である男の名前を挙げると、あからさまに目を逸らされる。正直なのはいいが、あまりに明確に嫌そうな反応をされるものだから、流石に相手の男に同情してしまった。
 長芋のわさび漬けの器を自分の前に引き寄せるなまえは、大学入学時からの友人だ。入学前のオリエンテーリングで偶然隣の席になった際、俺から声をかけたのが始まり。普段なら俺みたいな胡散臭い人間とは関わり合いにならないはずが、周りに知り合いが一人もいない心細さに負けたのだと、大変失礼なことを後になってカミングアウトされた。とにかくそれ以来、たまに二人で居酒屋に行くくらいの友人関係が続いている。
 俺が注文したものだというのに、食べた覚えのない長芋のわさび漬けを黙々と口に運ぶなまえはしばらく間をあけてからやっと答える。

「わかんないし知らないよ。芹のバンドのメンバーでしょ。自分らでなんとかしなよ」

 先程までと比べて二トーンほど下がった声は拗ねたように尖っていて、笑ってしまう。大学で俺を芹くんと呼んで駆け寄ってくる他の女の子たちのように可愛らしい性格はしていないくせに、突き放す物言いをしながら反応がわかりやすいところはちょっとかわいくて悔しい。

「冷たいこと言うなよ〜。元彼だろ」

 なまえの不機嫌そうな様子と比例して、自分の中にむくむくと好奇心が膨らんでいくのがわかった。それを隠しきれていなかったのだろう、とうとう機嫌を損ねてしまった彼女は、茶化すようなこちらの言葉を無視して、無言で長芋のわさび漬けを食べ尽くしてしまう。
 なまえと俺の所属するバンドのボーカルである檜山朔良は、半年前まで恋人同士だった。俺と仲良くするうちにハルとも顔見知りになって、いつも間にか朔良と付き合い始めていた彼女は、メンバーの大部分と親交がありながら、バンド活動をしている俺たちに明確な線引きをしていて、深入りしては来なかった。けれどそんななまえの気遣いも知らず、朔良は何かにつけて彼女に世話を焼かせていた。練習や本番の日はよく目覚まし役にしていたし、練習の後も自分の家ではなくなまえの家に帰ることもしょっちゅうだった。良くも悪くもトラブルメーカーで甘ったれな朔良の世話をしてくれたことに、リーダーの俺はひどく助けられたものだ。
 しかし、うまく行っていると思っていたふたりは俺の知らない間に別れてしまっていて、それを聞いたときはハルとふたりで声を上げて驚いたのを覚えている。挨拶程度しかなまえと話したことのなかった千哉でさえ、「朔良にしてはまともな人と付き合ってると思ってたのに」と呆れていた。

「おまえらなんで別れたんだっけ」

 当時の朔良は理由を聞いても答えてくれず、俺自身も余裕のない時期だったこともあって、そのままあやふやになってしまっていた。
 いい機会だと尋ねると、なまえは今度は梅水晶の器に手を伸ばし、取り皿にとり分けることなく器から直接食べ始める。長芋のわさび漬けに続き、梅水晶も俺には食べさせないつもりらしい。

「芹たち、一時期調子悪かったときあったでしょ。そのとき朔良が女連れ込んで別れた」

 目が合わないまま言ったなまえの言葉は、一瞬俺の思考を止めた。思い当たる光景を少しずつ思い出して、自分の口から「あー…」となんとも言えない言葉とため息が吐き出される。そうだ。なまえと朔良が別れたのはその時期だった。

 俺たちLiar-Sには、低迷期――あわや解散か、という時期があった。それはデビューしてすぐに訪れる。無様な音楽しか生み出せない自分たちと、それに騙される世間に絶望していたときだ。その状況を自分のせいだと背負いこんで、一際プレッシャーを感じていた朔良は精神的にひどく不安定で、そのフラストレーションを解消するように近寄ってくる女を食い散らかしていたらしい。俺自身に余裕がなかった時期というのもその時期と合致していて、いつの間にか終わってしまっていた二人の関係を取り持ってやることもできなかった。
 あの時のことは、乗り越えられた今だから話題にできるだけで、苦労した昔話みたいな美談にもならない。

 注文用のタブレットを操作して、ハイボールとレモンサワーをひとつずつ注文しながらなまえの様子を伺うが、彼女が何を考えているか読み取ることはできなかった。

「…ヨリ戻さねーの?」
「戻さないよ。あの人別れた後もずっと彼女いたでしょ」

 『あの人』とわざとらしく他人行儀に朔良を呼ぶなまえの声に色はない。未練らしい未練はなさそうだが、それも当然だろう。なまえの話を鵜呑みにするなら、十中八九朔良が悪い。俺や朔良と違って嘘つきではない彼女が、今更このことで嘘をつく理由も思い当たらないし、あの頃の朔良の様子を思い出してもなくはない話だ。俺も朔良のことを言える立場ではないのだけれど。

「彼女っていうかセフレな。むしろセフレ以下」
「…最悪。どっちにしろわたしいらないじゃん」

 まるでセックスをするために恋人がいるかのようなことを言うなまえの言葉には自虐が含まれているような気がして、そんなことを言わせてしまったことに申し訳なさが募る。そんなことはないと言ってやりたかったが、今更何を言ってもなまえの中では終わっている話なのかと思うと、そんな無責任なことを言える気はしなかった。
 けれど、本当にそんなことはないのだ。なまえと別れたあとの朔良はそれまで以上に無気力で、かと思えばすぐにいらいらして誰の言葉も耳に入らないような状態だった。無愛想なのは何も変わらなかったけれど、なまえの横に立って気の抜けた顔をしていた朔良と比べてしまって、メンバーの誰もがなまえのことを惜しんでいた。
 バンド解散の危機自体は何とか自分たちメンバーだけで解決することができ、朔良も荒れた生活をすることはなくなった。でも、なまえがいたときとは、やはり違う。
 きっと朔良だって、自分自身でわかっているはずだ。

「…でも朔良、酔うとおまえの話するよ」
「……ええ?」

 メンバーや友人同士の飲み会やライブでの打ち上げの際、そこそこ酒に強い朔良は、あまり正体をなくすまで酔うことはない。けれど時折、いつも眠そうな目をそれ以上に虚ろにしてべろべろになっているときがある。ぼそぼそと話す声は、呂律が回らなくなってさらに聞き取りづらいが、「なまえがライブ会場にいた気がする」とか「大学でなまえが男と一緒にいた。誰だ」とか、珍しくうだうだ言っていたことを覚えている。
 朔良がなまえに未練があることは誰の目にも明らかだ。女遊びをやめてから、恋人がいた様子もない。けれど、朔良も自分のしたことを負い目に感じているのか、なまえに復縁を迫ったりすることはないし、普段そういう様子をちらつかせることもない。盛大に酒に酔ったときにぽろりと彼女の名前を口にするくらいだ。その度にハルは朔良を慰めて、千哉は「そんなにぐちぐち言うならちゃんと謝りに行け」とぽこぽこ湯気を立てていた。
 そんな朔良の様子をリークして、店員が運んできたレモンサワーを啜るなまえの訝しげな表情に苦笑いしていると、テーブルに置いていたスマートフォンが振動を始める。まるで図ったかのように、液晶画面に表示されたのは話題の人物である檜山朔良だった。

「あ、噂をすれば」

 なまえに断ることなく通話に応じると、普段と変わりない低くぼそぼそした声が聞こえてくる。目の前のなまえの顔が『まさか』と言いたげに歪んで、俺は苦笑いを貼り付けたままにした。

『…芹、おまえ今どこ』
「今どこじゃないよ。今日は依都さんと飲んでんだろ?」
『飲んだ。けど、彼女のとこいくって帰された』
「だからってなんで俺に連絡してくるんだよ」
『おまえいねーと家入れねーから』
「自分ちに帰れよ…」

 朔良は今でも頻繁に俺の家にやってきて、まるで自分の家のように入り浸る。それは前のようにひとりでいるのが寂しいからという理由ではなく、単に事務所や仕事現場から俺の家の方が近いとか、広くて便利だとかそんな理由だ。
 ため息を隠すことなく吐き出して、ちらりとなまえを見る。なまえは目を合わさず自分のスマホに指を滑らせているが、耳は完全にこちらに向けていた。眉間にしわが寄っているからわかる。
 なまえは朔良のことをどう思っているのだろうか。ふたりが別れた理由や今日の言動を省みると、なんとも思っていないどころか嫌いになっている可能性もなくはない。けれど、そうじゃないことを願いたくて、俺はわざとらしい笑顔を貼り付けるのだ。

「俺まだ飲んでるから…あ、おまえも来いよ。なまえいるぞ」
「は? ちょっと…」

 俺の一言に、やはり耳をそばだてていたなまえが目ざとく反応をする。そしてそれとほぼ同時に、電話の向こうにいる朔良も同じように怪訝そうな反応をした。

『は? なんで芹がなまえといんの』
「いーだろ別に。おまえの彼女ってわけでもないんだし」

 案の定彼女の名前を聞き止めて、低い声がさらに低く変わった。朔良が不機嫌になるような言い方をして煽るのは、もちろん意図してやっている。多分俺がわざとそうしていることを朔良もわかっているのだろう。わかっていて、それでも朔良が苛立ってしまうことを俺もよくわかっていた。

「ま、別にわざわざ来なくてもいいけど? よく考えたら朔良に来られても邪魔だしな〜」

 見え見えの挑発をしてやると、朔良はしばらく無言になって、「店どこ」と無愛想な返事を寄越した。店の名前と場所を簡単に伝えると、それに対する返事はなく、一方的に通話が切られる。勝手にしてやったような気分になって、フンと鼻で笑う勢いのままスマホの電源ボタンを押した。
 スマホをテーブルの上に戻して、グラスを煽るまでの俺の動作を責めるような目で睨むなまえは、俺がグラスを置くなり恨めしそうに言う。

「……芹、余計なことしないで」
「そう言うなって」

 責める視線はそのままに、固い声音で畳み掛けてくるものだから、俺は思わず笑いながらなまえを宥めた。
 なまえと朔良、ふたりのことに部外者の俺がいらない世話を焼いていることはわかっている。彼女に黙って勝手に朔良と引き合わせるだなんて、お節介もいいところだ。でも俺は結局Liar-Sのリーダーだから、なまえには悪いがどうしても朔良に肩入れしたくなってしまう。

「朔良のこと、嫌い?」

 呟いた問いかけに、なまえはすぐには答えなかった。汗をかいたグラスの水滴が伝うのも気に留めず、両手でぎゅっとグラスを掴み、傷ついたような顔をする。
 噤んでいたくちびるをやっと引き解いた声はすこし震えていた。

「……自分が一番大変なときに支えられなかった彼女とか、無理だよ」

 なまえを傷つけたのは、俺の言葉じゃない。過去の朔良と、彼女自身なのだ。



 教えられた居酒屋にたどり着き、目的の個室の襖を引くと、そこにいたのはなまえ一人だった。彼女がいることは最初からわかっていたことだったから覚悟をしていたつもりだったのに、なまえがたった一人で自分のことを待っていて、その視線を向けてくることに思いの外動揺してしまう。いるはずの芹がいないことも原因の一つになって、なまえと目が合った瞬間、俺の肩はびくりと震えた。

「……よう」
「…久しぶり」

 取り繕うようにひねり出した声は、いつもと同じものだったから少し安堵をする。なまえの方は少々気まずそうだ。それも当然だろう。俺たちは、恋人関係を解消するときに散々な言い合いをして以来、言葉を交わしていない。大学で偶然顔を合わせることはあっても、話をすることはなかった。なまえが自分に向けて話している声を聞いていると、無性に気が急いて、喉が乾く。
 タッチパネルで生ビールを注文しながら、芹がいないことについて聞くと、電話をしたあとすぐに帰ったのだと聞かされた。それまでの食事代も置いていったようだ。あれだけ煽るようなことを言っておいて、結局は気を利かせている。芹が俺を呼んだときや、自分は先に帰ると言ったとき、きっとなまえは嫌がっただろう。そのなまえも丸め込んで、俺とふたりで話をさせようとするのだから、本当に自ら損な役回りをする男だ。
 はあとため息をひとつして、灰皿を引き寄せながら吸ってもいいかと尋ねると、小さく「どうぞ」と返される。思えば、なまえの前で煙草を吸うことはたった数回しかなかった。煙草を吸い始めてすぐ、俺たちは別れたから。初めてなまえの前で煙草を吸ったときの、傷ついたような顔を今でも覚えている。

「芹と何話してた」
「別に大したこと話してないよ」
「大したことないなら教えろ」

 食い下がると、なまえは口を噤んで黙り込む。それでもこのままあやふやにさせるつもりはなかった。俺の悪い癖だ。なまえのことはなんでも知っていないと気が済まない。独占欲が強くて、わがまま。自覚はしている。
 今となっては彼女の恋人でもなんでもない自分に、そこまでの権利などないことはもちろんよくわかっていた。けれど、俺の口は「早く」となまえを急かして、俺の目はなまえのそれをじっと見つめる。彼女は眉間にしわを寄せたまま、「しょうがないな」とため息をついた。

「…朔良となんで別れたのかって話だよ」

 なまえは目を逸らしながら言いにくそうに呟いてグラスを傾けるが、中身はほとんど減っていない。ちょうど店員の持ってきた生ビールを黙って受け取って、一口二口と煽る間、彼女は一言も声を発しなかった。

 俺たちが別れたのは半年くらい前のことで、Liar-Sがおかしくなってしばらく経ってからだった。俺たちの音楽が本当は誰にも届いていなかったのだとわかって絶望したときも、なまえは変わらない態度で俺のそばにいてくれた。けれど、そのなまえに応えることが俺にはできなかった。Liar-Sの曲を聞いてくれる人間の顔が見えなくなって、歌い方がわからなくなって、それでも世間は俺たちを褒めそやす。何もかもどうでもよくなっておざなりな歌を歌えば、仲間は目から光をなくした。
 前みたいに歌えなくなった。煙草を吸った。千哉が曲を作らなくなった。父親が死んだ。家に帰らなくなった。――なまえ以外の女を抱いた。
 父親が死んで、なまえが抱きしめてくれたときの温度を、俺はよく覚えていない。あの頃彼女が俺にしてくれたことを、覚えていないのだ。居心地が悪くて、鬱陶しくて、離れたかった。他の女を相手にしていれば楽だった。簡単に満たされて、何も考えず眠ることができる。なまえが「どうして」と泣いたとき、もう限界だった。

「……あんときは悪かったよ」

 短くなった煙草を灰皿に押し付ける。なまえの目をまっすぐに見ることはできなかった。あの頃、俺が突き放して、俺が傷つけた彼女の目が、その傷を忘れてしまっていることに気付くのが恐ろしかったから。

「いいよ。もう昔の話だし」

 なまえはそう言って俺の言葉を切って捨てた。許されたようにも聞こえたけれど、昔のことだからと許容されることは、ただ彼女の感情の波から手放されることのように思える。それは今の彼女に、自分以上に大事な人間がいることを示唆されている気がして、鳩尾のあたりがぎゅっと痛んだ。

「おまえ、男いんのか」

 じっとなまえの目を見つめると、視線が合った瞬間ぐっとくちびるを結んで、目をうろうろと泳がせ始める。それだけで俺の知りたいことは十分に示されているように思えたけれど、極めつけはたっぷり沈黙したあとに、「……いる」と小さな声で返されたことだった。

「嘘つくな」
「ついてない」
「バレバレなんだよへたくそ」

 なまえは俺と違ってうまく嘘をつけるような人間ではない。嘘をつかせたって、今みたいに態度が明らかにおかしくなるか、下手くそな笑顔で誤魔化すしかできない。俺がなまえ以外の女を抱いていることを初めて知ったときのなまえの顔は、確か、それだった。俺はそんな彼女に言い訳をしてやることも、抱きしめることもできないで、ただ黙って背を向けたのだ。
 見え見えの嘘でなまえに恋人がいないことを察して、安堵のため息を誤魔化すように二本目の煙草に火を付ける。くゆる煙の向こうで、なまえは口を尖らせながら小さく呟いた。

「……朔良は彼女いるんでしょ」
「いねーよ。おまえと別れてから」

 顔をそらして煙を吐き出しながら答える。吐き出された煙は上方へ流れながら薄く消えていった。そのあと視線を合わせたなまえの表情をうまく読み取れなくて、言葉を続けられない。
 恋人がいないというのは間違いではない。なまえと別れてから今まで、恋人と呼べる存在は作らなかったし、そうなりたいと思える女にも出会わなかった。
 けれど、それを言葉にして言ってはいけない気がした。そんな安っぽい理屈は気休めにもならない。俺を見つめる視線は、俺を責めているように見えた。その視線を受けて、喉の奥で何かが震える心地がして、逃げるように目を瞑る。

「嘘だ。セフレいたって芹が言ってた」

 瞑った目を、すぐさま開いた。その視界に映るなまえはふてくされたようにくちびるを尖らせている。告げ口をした男の名前に思わず舌打ちをした。お節介を焼く割に、ネガティブキャンペーンを忘れないあたりあいつの腹黒具合が伺える。

「……それは彼女じゃねーだろ」

 セフレ、なんて重すぎる単語に返せるのはそれくらいだ。あのとき俺がストレスの捌け口にしていた女たちに名前をつけるなら、それで正しいのだろう。彼女たち一人一人の名前はもう覚えてすらいないから、それ以外に彼女たちを示す言葉もない。考えれば考えるほど、自分は最低な男に落ちていって、それをどうにかする術は何も持たない。
 灰皿に転がっている一本目の煙草の吸殻は、萎びれて転がって、あのときの俺自身のようだった。

「……でも、わたしじゃだめだったんでしょ」

 隣の部屋が静かなタイミングでなければ、きっと聞こえなかった。そのくらい小さな声だった。グラスを両手で掴み、うつむいたなまえの目は前髪に隠れてしまって見えそうにない。小さすぎるつぶやきをもう一度頭の中で再生した。自分ではだめだったと言う彼女の意図はすぐにわかることだったのに、俺の呼吸を一瞬止めてしまう。再び息を吸い込んで言葉を発するよりも早く、彼女は続けた。声は、少し湿っている。

「付き合ってたって、辛いときにそばにいるのはわたしじゃだめだったんでしょ」
「ちがう」

 否定する言葉は、呼吸より早く、彼女の言葉が言い切られるより先に吐き出された。十分に息を吸っていたはずなのに、まるで空気が薄い場所にいるみたいに息が苦しい。
 ――違う。おまえじゃだめだったんじゃない。本当はおまえじゃないとだめだった。

 父親が死んで、なまえが抱きしめてくれたときの温度を、本当は鮮明に覚えている。煙草を吸い始めたとき、心配そうに声をかけてくれたことも、ひとりを嫌う俺のために、普段ならこちらから呼びつけないと来てくれなかった俺の家で待っていてくれたことも。本当は嬉しくて、まるで救われたような気持ちになって、そのままずっとそこにいてほしかった。でも、俺にそれを願うことは許されなかったのだ。
 どうやったって、腑抜けた歌しか歌えない俺は、なまえの思いには応えられなかったから。なまえの優しさを踏みにじって、傷つけている自分に気付きたくなかったからだ。音楽やなまえから逃げたくて、手っ取り早く楽になりたくて、考えなくていい方を選んだ。それが俺の大事なものを貶める行為だとわかっていても、たった今その場所から逃げたかったのだ。
 「どうして」となまえが泣いたとき、俺は彼女の目に映る自分が、ひどく卑しい姿をしていることを知る。

「自分がダサすぎて、おまえに見られたくなかった」

 まるで懺悔をするように呟く俺を、なまえは顔を上げて見つめていた。今、彼女の目に映っている自分は、どんな姿をしているのだろうか。Liar-Sで本当の歌を歌えるようになった自分は、あのときほど情けなくはないだろう。けれど、あんなに彼女の傷ついた顔を見ることが恐ろしかったのに、今はその傷が消えたことに気付く方が恐ろしいと思っている。なまえのことを思っているつもりで、俺はどこまでも自分のことばかりだ。
 うつむいて前髪に隠れていた彼女の目は、今はこちらを見上げて、時折光って見える。涙は流れていなかったけれど、もうすぐ溢れてしまうのかもしれない。

「……わたしは、ダサくても歌えなくても、朔良が好きだったんだよ」

 俺はいつまでたっても自分を甘やかすことで手一杯なのに、なまえは俺を思って声を震わせるのだ。卑しくてわがままで弱っちい俺を、星を見るような目をして見つめている。眩しそうに、そしてすこし悲しそうに目を細めて。濡れた眼球が光って、彼女の瞳の方がよっぽど星のようだった。

「でも、我慢できなかった。わたしじゃだめなんだよ」

 なまえじゃだめだなんてそんなこと、あるわけがない。俺はずっと、おまえじゃなきゃだめだったのに。

「おまえよりいい女なんていねーよ」

 指に挟んだまま、吸いもせず細く煙を立ち上らせている煙草を灰皿に押し付けて放り、グラスを固く掴んだままの彼女の手に触れた。グラスの雫で濡れて、冷たい。振り払われるかと思ったけれど、なまえは黙って手を握られていた。じっと目を見つめて言うと、なまえは眉間にしわを寄せて、泣くのを堪えているような顔をする。なまえを泣かせたいと思ったことは一度もなかったけれど、泣けばいいのにと今は感じていた。
 なまえを傷つけることが怖くて、なのに自分のために傷ついてほしい。そんな身勝手な感情を彼女に向けるなんて許されないことなのに、この感情以上に大きなものを、なまえ以外の誰かに抱くことはきっとない。そう、わかる。

「なまえより好きになれる女がいねーんだ」

 都合がいいと怒るだろうか。信じられないと笑うだろうか。
 けれどこれ以上の『恋』を俺は知らないから、だからどうか、ここにいて。



title by kurihara.k
- ナノ -