逝かないで、夏

 一日の長い間照り続けた太陽がいまにも沈もうかという時間帯。空は透けた様な水色と、西日色の橙、そして夜の藍色を四方から寄せ集めたような曖昧な色をしていた。いつもなら閑散としているはずのその通りは、色とりどりの浴衣や甚平に飾られた人々の波でごった返している。その人並みの中で、少々不釣り合いな揃いの制服を着た六人組がなにやら立ち往生していた。

「黄瀬くんと一緒に回るのは反対です」
「なまえっちひどい!」

 黄瀬を気遣う様子など少しも見せず、なまえはそう断言した。
 なまえの言葉に噛みつくように言い返した黄瀬をよそに、笠松もなまえの言い分に頷いてみせる。自分よりもだいぶ上にある憎たらしいほどに整った顔は、まるで狙い澄ましたように同情をそそる表情をしていて、逆に苛立ちを募らせた。これだけの人がいる中でこんな男を連れて歩いていたら、この男の顔に引き寄せられてくる女性たちに目をつけられて、面倒な思いをするのは目に見えている。しかし、今ここでこのマネージャーの言うように黄瀬を置き去りにしようものなら、この男はそれ以上に面倒くさいことをしでかすのもまた目に見えているのだ。

「だーいじょうぶっスよ!みんな花火見に来てんスから!」
「じゃあ一回でも逆ナンされたら置いてくからね」
「なまえっちが彼女のフリしてくれたら万事オッケーっしょ」
「謹んでお断りします」
「うわ、なまえっちにフられるとかちょー不名誉」
「ぼこす」

 我が部のエースとマネージャーは、いちばん下の学年ながら実力はピカイチで、仕事の質も申し分ない。この黄瀬という男がいるせいでマネージャーには苦労させられたことが何度かあるが、なまえは十分良く働いている。こうして二人で言い合いをしていることはしょっちゅうで、笠松も今までと違う意味で心労が溜まることもあるが、それはまあ、悪くはない。

「うるせえ! しょうがねえから行くぞそこの馬鹿ふたり!」

 にらみ合う一年生組に怒声を飛ばしてやると、二人は渋々ついて来ながらもまだなにか言い合っているので、笠松は人知れず溜息した。もし黄瀬がつかまって面倒なことになりそうなら、なまえの言う通り、置いて行ってしまえばいいのだ。黄瀬だって適当にあしらって追ってくるだろう。
 屋台が連なる通りでは一層人混みは増し、どこかしこで火を扱っているせいか熱気がこみ上げる。暑さは皆感じているだろうに、人々は決して楽しそうな様子を崩さないのだから、祭りとは偉大だ。

「おー、やっぱ浴衣はいいな、ここはひとつナンパでも……」
「森山さん男(ら)しいっす!」

 浴衣を身にまとった少女たちが行き交うたびにその姿を目で追って、森山はその涼しげな目元をきっと細めた。ナンパを狙うのにそんな男前な顔してんじゃねえよ、と黄瀬は思ったが、その後に続いた早川の謎の称賛に、それを声にする気力を失ってしまう。

「オレより問題じゃねえんスかこの人たち……」
「どうせ失敗すんだからほっとけ」

 溜め息を吐き出しながらぼやくと、隣にいた笠松はいっそ清々しいほどに気にも留めていない様子で注意する素振りすらしなかった。だがしかし、森山には悪いが、笠松の言うことが正解だと信じて疑えない。いつかの苦い思い出と、燦々たる結果は、黄瀬の記憶にも傷跡を残したままだ。笠松にも見限られた二人が懲りずに品定めするのを、ただ小堀だけが口添える。

「あー……今日はなまえもいることだしやめとけ、な?」
「小堀先輩を見習ってくださいみなさん!!!」
「うるせえっつってんだろでかい声出すな!」

 ぎゃいぎゃいと声を上げるなり笠松にはたかれたなまえは、はぐれたら面倒だからと、五人に囲まれるような場所に定位置を得ていた。人並みより背の高い男に周りを取り囲まれるのは、何とも言えない窮屈さを感じざるを得ない。しかし不満を漏らすとまた笠松の怒声を浴びてしまうことは目に見えていたので、渋々その位置に落ち着いた。
 綿菓子、やきそば、金魚すくいにきらきらと電飾の鮮やかなおもちゃの剣。視界にも賑やかな光景の中で、なまえはあるものに目を留めて、「あ、」と、思わず足を止めた。
 ――その直後、なまえの後ろを歩いていた黄瀬のからだが思いきりぶつかり、ふたたび一悶着起こったことで、また二人は笠松から怒声を食らうこととなる。



「ファイトっ!早川先輩!」
「まかせ(ろ)!」

 なまえが目を留めた屋台は、『ヨーヨー釣り』と看板を提げて、色とりどりの水風船が小さな水槽の中で浮いたり沈んだりを繰り返している。水風船に目を輝かせた#name#に、早川は「オ(レ)が取ってや(る)!」と息巻いた。「先輩男らしい!」と無駄に褒めそやすなまえの期待は、儚く散ることになるのだが。

 ――慎重とは程遠く、短気を体現したような彼に繊細なこよりを扱うことは難しかったらしい。白く細いこよりは見事水に溶け切れ、大きな水風船が水面から浮くことはなかった。そのうえ、ひとつ好きな水風船を選んでいいという屋台のおじさんの好意も、「情けは受けねえ!」という謎の男気を見せて断ってしまったのだ。するとそれを見兼ねた小堀が、苦笑を蓄えながらリベンジに名乗りを上げ、器用に水風船を掬い上げる。「ほら、」と、人一倍大きな掌が慎重に釣り上げた水風船を大事そうに受け取って、なまえは嬉しそうに破顔した。

「小堀先輩ありがとうございます!」
「いいよ、よかったな」

 水風船を顔の前で掲げるなまえの目が一層細まる。屋台の灯りが風船の中の水に反射して、ゆらゆらと波紋を立てるのがひどくきれいだった。海のように真っ青な水風船を見つめるなまえに、少々くちびるを尖らせた黄瀬が目配せする。

「でもなんで青?黄色とかピンクとか、もっとかわいいのあるじゃないスか」

 他の色には目もくれないまま「青いのがいい!」と明言したなまえへの不満は、自分の名前にも入った色への小さなこだわりだろう。相変わらず無意識の自己主張が強いと苦笑しながら、それでもまっすぐに水風船を見つめた。
 他の色なんて選べるわけない。だってこれは――

「だって、青はウチの色でしょ?」

 学校名にも入った海原の色。コートの中を縦横無尽に駆け回る、はためく真っ青なユニフォーム。
 #name#にとってその色は、どんな色よりも魅力的なものなのだ。

「……おまえはほんと、」

 ぽつり、と祭りの喧騒に掻き消されてしまいそうな声が落とされた。それをなまえが聞き返すよりも早く、声の主は頭ひとつ下にある彼女の髪の毛を混ぜる。撫でる、というにはいささか乱暴なそれに慌てた声をあげて、なまえは不可解そうな顔をした。五人の中でいちばん自分に近い顔が、じんわり赤く染まっているのは祭りの灯りのせいではないことだけが確かだった。

「なんですかキャプテン!」
「ンでもねーよ!ほんっとおまえら一年は馬鹿ばっかだ!」
「オレ完全に濡れ衣!」

 飛び火した「馬鹿」に苦言を呈する黄瀬と暴言を吐き続ける笠松に置いてけぼりを食らいながら、納得いかなそうにくちびるをすぼめるなまえを見兼ねて、森山はその乱れた髪をスイと梳かす。
 頼り甲斐のあるマネージャーで、かわいい後輩。彼女がいてくれることは、何かしら自分たちにいい影響をもたらしている。すべて自分たちのためにその表情を変えて、笑って、泣いてくれる。そんな彼女を、大事に思わないはずが、ない。

「……気にするな、ただうれしいだけだよ」

 不思議そうに首を傾げるなまえの頭をぽんぽんと二度叩き、何時の間にか笠松と共に黄瀬を叱る早川と、二人と黄瀬を宥める小堀の方へ足を進めた。なまえもそれを追って地面を蹴る。跳ねるようにつられて揺れる水風船に、くすぐったい気持ちがからだを満たした。
 あの人たちといることで、自分の日常はこんなにも輝くのだ。

「あ、そろそろ花火はじまるんじゃないですか?」

 祭りが始まったときよりも闇を深くした空の下で、人並みがざわざわと移動していくのを目で追った。そしてその波に乗せられるがままに、六人は足を進めていく。



 急に視界が開けた先には、深い闇色をした空が広がっていた。このような都会の中で、ここまで広く高い空が見られるのだということになまえはちいさく息を呑む。水面に沿って、建築物の光がきらめいている様子はとても美しかったけれど、いまからそれよりずっと大きく盛大な光が見られるのだという期待に、彼女の胸は高鳴った。当然ではあるが、海に沿って建てつけられた柵の周りには、黒々とした人の波が押し寄せていて、海のそばまで寄って行って、ということはできそうにない。
 思わず、はあ、と深い溜め息をついてしまったところを、笠松に「花火は上にあがるんだから見れるだろ」と不器用に慰められてしまう。それに苦笑を返そうとしたところで、腹部の奥深くへ響き渡るような重い轟音があがって、なまえの目は一瞬でそちらへ引き寄せられた。

「うおおおおお!」
「ふは、うるせえ」
「注目浴びっからやめろ!」

 轟音が響くたびに興奮した声を上げる早川の様子に、小堀はおかしそうな笑みを漏らす。花火の音に負けないほどの声にしびれを切らして、笠松がその頭を殴り付けた。騒がしいその様子もどこか耳に心地いいと、なまえはくちびるを緩める。

「たーまやー、とか言うべきか……」
「森山先輩……真面目な顔で言うことですか」

 にやつく自分の隣でそんなことを言う森山は、言っていることのわりに至極真面目な顔をしていて、なまえは思わず笑ってしまった。まったく、ロマンチックになんかなりやしない。
 四人のちぐはぐな様子を目にしながら、あと一人の彼はやけに静かだと気付いた。
笠松たちとは反対側のなまえの隣にいる黄瀬は、次々と打ち上がる花火に視線を釘付けにされながら、「おおー」と感嘆の声をあげる。瞬いてはぱらぱらと散る火花の光に照らされるその整った顔立ちが、いつもコートで見せる大人びた様子と違い、まるで子供のようだった。そして、なまえは悟る。自分と彼は、子供なのだと。
 変わらず騒がしい四人は、気兼ねないと言っても確かに先輩で、なまえたちをここまで導いてくれた頼り甲斐のある人たちだ。考えも心も、まだまだよわく拙い自分たちの先に立って、いつでも力強い背を見せ続けてくれた。だからこそいつか、――きっと、そう遠くない未来――その背中は自分たちの前から消えてしまう。

「……ずっと、このままでいてーなぁ、」

 誰に言うでもなく落とされた言葉は、おそらく隣にいるなまえにしか聞こえていないだろう。エースの願いは、たった一度だけの夏は、黒塗りの空で開く花火のように瞬いては消えるだけ。
 ――けれど、願わずにはいられない。

 それくらいにまぶしい夏の中で、ぼくたちはいとおしい今を走っている。
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