ご馳走様がきこえない

 自分ではそういうつもりも、ましてや自覚したこともありはしないけれど、自分はひとに「犬のようだ」と比喩されることがめずらしくなかった。こんなにでかい図体をした男を、あのペットだとかセラピーのように癒しの存在として名高い犬と表現するなんて、正直なところどうかと思うし、どう反応していいのかもわからないしで、本人としては複雑な気持ちを抱えている。

 しかし、だ。今ばかりは自分の行動を客観的に振り返ってみて、「まるで犬みたいだなあ」とたしかに思ったのだ。

「なまえっちー……?」

 半開きになったままの口から流れ出た声は、驚くほどに覇気というものが感じられない。自分が発した声だと他の人間が聞けば、おそらくぎょっとしてしまうくらいの不安定な音。それなのにこの声が向けられた当人はこれっぽっちも反応を返そうとはしなかった。こんなにかわいそうな声を出しているのに、あんまりだ。からだ中のどこにそんな酸素があったのかと思ってしまうくらい大量の溜息を吐き出す。それにすら何のアクションも返ってこないのだから、落ち込むどころか項垂れてしまう。

 こんなの、いたずらをしておあずけを食らっている犬みたいではないか。

 自然と下がってゆく肩と一緒に力が抜けるからだをやわらかなカウチに預けながら、視線だけは彼女に釘付けにされたまま動くことはなかった。床に座ったままべっとりと頬をカウチの肘乗せにつけて、うらみがましい眼差しで見つめる先の彼女がオレに向けるのは、キッチンの前でせわしく動き回るからだの背面だけだ。その動きにつられるようにして、身に付けたエプロンの背中で結んだリボンが、ゆらり、ゆらり、ゆれる。そんなたかが細長い布切れの動きですら、彼女に付随するものとして意識するだけでどうしようもなくかわいく思えてしまうのだから、自分の思考回路はすっかり彼女に侵略し尽くされてしまっているのだろう。でもちっとも嫌じゃない。むしろ本望だ。

「ごめんってばー、反省してるっス…」

 ひときわ大きく喚いてみたけれど、そのあとに続くのは彼女の優しい、お許しの溜息なんかじゃなく、トントンと包丁がまな板を叩く無機質な音だけだった。どこに掠ることもせずに、自分の声が部屋の空気に溶けてゆくのは悲しいやら恥ずかしいやらで居心地が悪いし、何より虚しい。それでもなお、彼女がオレの言葉に無言を返すのは、今日彼女を出迎えた際のオレの対応に、大層腹を立ているからだ。
 ――反省しているとは言ったが、実際はあまり納得いっていないのだけど。

 ただ、久しぶりに休日を一緒に過ごせるのがうれしくて、家にやって来た彼女を玄関先で抱きしめただけだ。そして、背中とかお尻の方をちょこっと触っただけだ。それから、彼女がオレのために料理をしてくれるというから舞いあがって、彼女の制止も聞かずに耳の後ろとか首筋の方とか、口付けただけだ。最後に、かばんから覗くエプロンに何か悶々としたものを掻き立てられて、目の前で付けてくれるようにしつこくお願いしただけ、だ。
 「ね?お願い、このままエプロンつけて見せて?」ドアと自分のからだで彼女を挟み込んだまま。若干怪しげに自分の息が上がっていたような気もしたけれど、頭がぽーっとしてしまっていて、彼女の様子をうかがう余裕がなかった。俯き気味でエプロンを握りしめる彼女が何か言ったなと気付いたときには、思い切り腕をつっぱられて、突き飛ばされて、ひとこと。

「やめてって言ってるでしょ!今日はもう触るの禁止!」

 それから、言葉が交わされた記憶がないのだ。触る触らないどころの話ではない。彼女は無言で台所に立って調理を始めてしまって、そのエプロン姿すら正面で見ることはできておらず、自分のヒットポイントはすでにゼロ間近である。

「お願いだからなんか言ってよ、無視はホントつらいから!」

 怒られることも呆れられることも、もちろん出来る限りないほうがいいと思っている。けれどこんなふうに、口を利いてくれないまま存在を気にも留めてもらえないなら、叱られた方がずっとマシだ。ふわふわのシュシュでひとつにくくった髪を揺らして振り返って、こっちをむいて。しょうがないなって笑ってくれる。そんな妄想を、背中を向けたままの姿を眺めながらふくらませて、終いには泣いてしまいそうになる。

 なまえ、と今日いちばんに情けない声がぽろり漏れた。彼女の背中が、ゆっくりと、緩慢な動きでそれに応える。

「……もう、自業自得でしょ?」

 振り返るときの髪が揺れる様子も、ほとんど呆れたみたいに眉を下げる表情も、オレが想像していたそれと全く同じだ。それなのに、実際に彼女の動作として目の前で繰り広げられると、とたんに胸が苦しくなって息が詰まる。妄想なんて、目の前のリアルには追いつきやしない。きっと自分は、そこらの女の子よりずっとそれらしい恋をしている。男のくせに、こんなに心を揺らして、気持ち悪いくらい。それくらいに、このひとが好きだ。

「……近くに行っていい?」
「触るのはだめだからねー」

 ようやく出された、オレにとっては厳しすぎるくらいの妥協案。すぐさま立ち上がって、彼女のすぐ近くへ駆け寄った。すぐ近く、でも触れられない距離。手を伸ばすことを許してはくれないから、ただその場に立ち尽くすだけだ。ほとんど使ったことのない自宅のキッチンは、見事に彼女によって使いこなされていて、彼女に手をかけられた食材たちが自分の胃袋に入る支度を整えている。それはとてつもなくうれしいことのはずなのに、自分の胸の内を占めるのは不満ばかりだ。

 「近いよ」彼女がおかしそうに笑う。「だって」零れた自分の声は明らかにふてくされている。――その一瞬、

 間近で振り返られて、少し息が止まった。でも次の瞬間に、彼女はもっと息の止まるようなことをしでかすのだ。
 背伸びをして、首が伸びあがって、鼻の頭に、ちゅ、と濡れた音がひとつ。鼻先をかすめる彼女のニオイ。

「今日は触るの禁止って言ったでしょ。ご飯はもうちょっと待って」

 彼女は顔を遠ざけて、すぐにまた背を向けてしまった。触るの禁止って言ったくせに。自分から触るのはノーカウントとでも言うのか。なんだそれ。

 ゆらり、ゆらり。

 視界をよぎる、薄い桃色をした細長い紐が、自分の視線を強く引き付けて目が離せなくなる。彼女のエプロンは特別凝った風でもなく、とてもシンプルな形をしていて、背中でちょうちょの形に結ばれる紐も、変哲のないただの布切れだ。
 ――なのに本当、なんでだろうなあ。

 ゆらり、ゆらり。

 その動きを、視線が追う。その揺れるリボンに、心臓を撫で上げられているようだ。喉をくすぐられているようだ。まるで、ねこじゃらしをちらつかされて知らず知らずに遊ばれる、猫のようだ。
 つかまえたく、なってしまう。

 ゆらり、ゆらり。

 指先で、そのリボンの端をはじいた。それまでの揺れ方と違う動きを一瞬だけ見せて、ふたたびもとの動きへ戻る。まだだ。まだ、まだ、もっと。知らぬうちに潜めていた呼吸のまま、その端を、握る。やわい力を込めれば、しゅるっと乾いた布切れの音がして、ちょうちょの形がゆるやかに壊れてゆく。

 ゆらり、ゆら、り、

 今の自分は、狙った獲物を見事とらえた、ぎらついたケモノみたいな目をしているのかもしれない。犬みたいにお預けを食らって、猫みたいに遊ばれて、ケモノみたいに牙をむいて?――まあそんなの、なんだって構わない。だって彼女に近づいて触れようとするオレは、他のどんな動物でもない、ただのオトコなのだから。

「っ、え、りょうた、」

 慌てた声を上げる彼女に優しい言葉をかけてあげる余裕なんて持ち合わせていなかった。そもそも、その余裕を削ぎ落とすような真似をしたのは他でもない彼女だ。やっと触れた彼女の肌。調理を行っていたその手はかすかに濡れている。もう、無理。むりって、ねえ、なまえっち、

「――オレ、おなかすいちゃった」
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