還胎

 一日中酷使したために少々足がむくんで、仕事用のパンプスが少しきつくなってしまっている。かすかな痛みに素知らぬふりをして闊歩する自分の背を、ピンと静かな張りを持った声が引きとめて、わたしは帰路を急ぐ人の波の中で立ち止まった。

「なまえ?」

 立ち止まったわたしと、わたしを引きとめた声の主の間には無遠慮に人々が行きかってゆく。時折向けられる怪訝そうな視線に気付くこともできずに、その人を見るわたしはしばし呼吸を止めていた。震えるように開いたくちびるから零れ落ちた「……いづき、」という彼の名前も、案の定震えてしまっていたけれど、この喧噪の中ではきっと彼には届いていないのだろう。
 お互いに目を見開いたまま視線を交わす。その声を聞いたのも、その瞳を捉えたのも、七年振りのことだった。



「よかったら、ウチで飯でも食わない?」

 ふたりして「久しぶり」、とお決まりの文句を並べたあと、次の言葉が上手く見つけられなくなったわたしに、伊月はそうやって問いかけた。突然の誘いに思わず瞠目してしまったけれど、彼の家はここから二駅と近いらしく、店よりも家の方がゆっくり話せるだろ、と肩を竦められてしまえば、断る理由なんか見つけられなかった。

 一歩前を歩く伊月の肩口を眺めながら、自分の心臓のあたりがじわじわと熱を持ち始めたことに気付く。伊月とは、高校に入学した時に知り合って、それから三年間そこそこ仲のいい友達を続けていた。大学進学のためのコースが分かれたことで少し疎遠になって、わたしは駆け足で流れる時間についていくのに必死だったから、結局お互いの進学先も知らないまま卒業してしまった。
 切れ長で涼しげな瞳が、変わらずにまっすぐすぎて、その瞳に見つめられたときのかすかな居心地の悪ささえ、ひとつだって変わってはいない。ここだよ、と小奇麗なマンションを指して振り返ったやわらかい眼差しに、息が止まりそうになってしまったことは、気付かないでいてほしかった。
 彼らしくきれいに整頓された部屋に通されると、伊月はつまみになりそうな料理を作ってくれるらしい。「海老好き?」「好き」、空気はこんなにぼんやりとしているのに、心臓の熱は時間を経るごとに輪郭を増していった。

「伊月は今何してるの?」
「オレ? 研修医」

 尋ねたわたしが思わず固まってしまうようなことを、伊月は何でもないように言ってのける。噂程度に聞いていた、彼が医学部に進学したというのは事実だったらしい。すごいね、と思ったままのことを口にすると、「まだ全然見習いだけどな」と苦笑して、男の人にしては薄い肩をそっと竦めた。その動作が、高校のときのそれとひとつも違わずに重なり合って、眩暈にも似た既視感を呼び起こす。
 わたしは、知っている。その華奢な肩が、本当はちゃんとたくましいこと。長い指がつながる手で大きなボールを巧みに操っていたこと。涼しげでおそろしく深い色をした瞳が、わたしを視界に入れるときだけは、甘く優しい色をしていたこと。そのことをわたしが気付いていて、わたしが気付いていることを彼自身も分かっていたことも、ぜんぶ。
 ほんの少しの危惧と、確かに終わりを告げる時間への自覚が、ふたつの手をつなげることを阻んだことは、いまでも小さい傷跡を残している。

「伊月の家でご飯食べてるなんて、嘘みたい」

 ほとんどひとり言のようなわたしの言葉に、料理をテーブルへと運び終えてから冷蔵庫を覗く彼は、「……そうだな」と声を落した。缶ビールを二本取り出すと、そのうちの一本をわたしへ手渡す。プルタブを上げる瑞々しい音が響くと、そのアルミ缶を一度だけ煽った。「……でもほんと、参った」

「ずっと、後悔してたっていうか。色々、」

 かすかに濡れたくちびるから洩れた言葉は、思わずわたしの肩をびくりと揺らす。伊月が一口だけ飲んだ缶ビールは、テーブルの上で放置されたまま、次の一口に手を出す様子も見せない。それと同じものがわたしの手の中で冷たい温度を失くして、ゆっくりとぬるくなって行った。優しいカーブを描くまなじりと、薄ら皺を刻んだ眉根のちぐはぐな様子に、心臓がじくり、とひときわ大きな熱を放つ。

「後悔するのが嫌で、考えないようにしてたんだけど」

 ――会えちゃったら、このザマだもんなあ。
慎重に作り上げられた笑顔の硬くなったくちびるの端から、湿った笑い声がこぼれて、溶けた。何も言えずにただ伊月の顔を見つめ返すことしかできないわたしの指に、缶ビールから浮いた水分が伝い降りてゆく。指から手の甲へとその雫が伝うのと同時に、蒸れたシャツの内側で一筋の汗が伝って行くのを感じた。

「……どこの大学行ったのか聞けなかったこととか、ほんと、色々」

 ほとんど呼吸なんかできていないのではないか、それくらいに、息が詰まる。酸素の足りない頭は、目の前をちらちらと霞ませて、眩暈まで引き起こす。どんな表情をしているのか分からないわたしを見つめて、伊月はどうしようもなく、やさしい頬笑みを蓄えた。意識がぐらついて、思考がぐずぐずになる。きっと、この笑顔は、わたしのことを跡形もなく溶かしてしまうつもりなのだ。
 アルミ缶に浮いた水分で濡れた指先が、そうっと、頬を伝い降りてゆく。なぞられた部分が、濡れて、火照る。

「たぶん、いまでも好きだよ、」

 その言葉に、確かに熱は籠もっているのに、言葉尻に感じる薄情な色がわたしの目の奥を冷たく焼く。彼の声が鼓膜から入って心臓へ届くなり、電流が走るようにしびれる自分のからだは、正直にわたしの気持ちを発しているのに。

 ――「たぶん」じゃないわたしは、その言葉に一体どう答えたらいいの。
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