Wanna be your POP STAR

 自分ひとりだけの足音と、息が切れる音が響き渡る廊下は、騒々しい普段とは全く異なる顔を見せている。次々横切る教室にも、長く続く廊下にも、生徒の影は一つだって認められなくて、この「学校」という場所が今は機能していないのだということを無言で知らせた。

 「夏休みは楽でいい」なんてこと、ほとんど思ったことがない。
 オレにとって夏休みなんてものは、一日の授業がまるまる部活に変わるだけで、それまでと何ら変わりはなかった。変わらず毎日学校に行って、思い出したように仕事をして、たまの休みを目一杯過ごすだけ。勉強がバスケに変わったことは、諸手を上げて大喜びしたいところだけれど、今はそれもできそうにない。
 彼女と無条件に会える権利みたいなものを、この夏休みというものは無常にも奪って行ってしまうから。

「――え、」
「黄瀬?」

 どうせ毎日来るからいいやと、いつか持って帰ろうと教室のロッカーに置きっぱなしにしていた学校用のジャージの存在に気付いたのは、部活がもう終わろうという時間。忘れない内に取ってきてしまおうと部活を抜け出させてもらって、自分の教室のドアを開けたその先には、みょうじなまえ、その人がいた。窓側の列の一番後ろ。彼女の席ではないそこに適当に腰かけているなまえっちは、夏休み前と変わらない制服姿で、それまでは長かった前髪が眉の下で揃っていた。その彼女のくちびるが自分の名前を紡いだ瞬間、どっと心臓が大きく動く。
 彼女に会えない期間にしてはあまりに長い1ヵ月半。始まったばかりのそれに憂鬱な気分が身体を埋め尽くして、頭を掻き毟りたくなったばかりだというのに。目を丸くしてオレのものと絡んだ視線に、十分暑さを感じていた身体が一層体温を上げた。

「なまえっち…なにやってんスか」
「いつものくせで置き勉したままなの思い出して、取りに来たの」

 持っていた教科書類を机の上でトンと揃えて、ダークブラウンのリュックに詰め込みながら、彼女は「部活?」と小さく首をかしげた。その動きにつられて、肩から背中へ流れていた長い髪がするりと落ちる。ひとりでに呼吸器がきゅっと締まるのが自覚出来て、それを誰に対してかごまかすように目を反らした。

「まあ、そーっスね。で、オレも忘れもの」

 感じられる自分の体温と、息苦しくなってしまう呼吸がなんだか気恥かしくて、わざと無駄に音を立てながら自分のロッカーを漁る。ロッカーの中を覗き込むように、その扉で彼女から自分の顔を隠してやっと、力が抜けた。なまえっちに聞こえないように、ゆっくりゆっくり、息を吐く。
 偶然にしたって、うれしすぎる。気持ちが悪いくらい占いを妄信している彼ではないけれど、運命なんじゃないだろうか、なんて。
 ロッカーの奥でくしゃくしゃになっていたジャージを引っ張り出して、ロッカーの影から顔を出す瞬間に精一杯の笑顔を作る。ふわふわと高まっていく気持ちを何とかして伝えたい。でもこの気持ちは自分の中の『ホンモノ』すぎて、軽口の中に上手に紛れ込ませなければ、口にすることなんてできやしない。

「……夏休みなのになまえっちに会えるとかラッキー、なーん、て…」

 「なーんてね」とわかりやすい冗談らしく締め括ろうとした言葉は、オレの計算通りに言い切らせてはもらえなかった。というのも、なまえっちがしわくちゃのジャージを握ってだらしない笑顔を浮かべているであろうオレの方を見て、固まったように動きを止めていたからだ。教科書よりも一回り小さい、英語の例文集をリュックへ詰めようとしている手も中途半端な位置で止まっていて、まんまるく見開いた目が大きく二・三度、ぱちくりとまばたきする。
 戸惑った後に、オレが「え、」と思わず声を零すなり、彼女はハッと我に返ったようにこちらから目を反らした。例文集を素早くリュックに詰めて、どこか焦ったようにチャックを締める。何かよくないことを言ってしまっただろうかと、自分の言動を振り返るオレをよそに、リュックの形を整えていた彼女はふと動きを止めた。

「黄瀬ってさあ……」
「な、なに?」
「……やっぱいい。イケメンの考えることはわかんないわ」

 ぼんやりと呟かれた自分の名前と、中途半端に打ち切られた言葉。気にしないで、と笑って肩を竦められても、オレにはそれに笑い返すなんて余裕はこれっぽっちもありはしなかった。
 彼女に会えない寂しさも、偶然出会えたときの喜びも、それに付随する情けないくらいの動悸だって、彼女がくれるものなら何だって喜んで受け取りたい。――でも、これは違うと思う。ぐらぐらと腹の底が煮えてしまいそうにもどかしくて、もやもやと纏わりつく違和感。
 一瞬で突き放されて認識する彼女との距離に、怖くて目を瞑ってしまいたくなる。

「なんスかそれ。ねえ、なに」
「だからもういいって」

 いくら食い下がっても、なまえっちはその違和感のわけを教えてくれようとはしなかった。それがオレにはどうしようもなく怖くて、焦りを生んで、どうにかしなければと頭の中がぐちゃぐちゃになる。
 そんなの、いやだ。こんなに好きなのに、『もういい』とか『オレのことが分からない』とか、言わないで。

「じゃーね、黄瀬」
「……え、帰るの?」
「そりゃ帰るよ」
「じゃなくて! 待っててくれたりとか……」

 カタン、と誰のものか知らない椅子から立ちあがったなまえっちの姿を慌てて目で追った。こんなふうに、長い夏休みのたった一日、たった数十分の偶然。それがこんなにも嬉しくて、もどかしくて、惜しいと思っているのは自分だけなのだろうか。明日からももちろん夏休みは続いて、オレは練習のために毎日学校に来るけれど、彼女はそうではない。今ここでさようならと手を振って見送ってしまったら、次に彼女と会えるのは一体いつになるかなんて、考えたくもなかった。
 偶然が生んだ、いつもとは違う形をした日常を、まだ離したくはない。思わず引き留めてしまった言葉は、『まだ一緒にいたい』のだと、明確な感情をストレートに伝えてしまったと気付いた瞬間に口の中の水分が蒸発した。目を丸くしたなまえっちは、きゅっと眉間に皺を寄せて、くちびるをきつく結ぶ。硬くなる表情に嫌な予感と焦りが汗と一緒に噴き出して、カラカラになってしまった口がひとりでに動き出す。

「っや、練習もう終わる、し、まだ明るいけど、ひとりよか一緒に帰った方が危なくないかなって、おもって、オレ、」

 自分でも何を言っているのか分からない言葉をとりあえず羅列しようと、舌だけが空回る。「………え、と、」ああ、どうしよ、

「――まってる」

 あちらこちらへ泳ぐオレの情けない言葉を切り裂くように、紡がれた声に導かれて視線を上げた。彼女の顔は、眉を寄せて唇を結んだ、オレに苦しくなるほど冷や汗をかかせる表情のままだった。――けれど、まっすぐな声とは裏腹に、視線はうろうろとせわしなく、俯き気味の頬にかかる髪からのぞいた耳は、燃えるように赤い。
 その熱が移ってしまったみたいに、自分のからだも、燃えるように、熱い。

 ねえ。なんで。なんでそんな顔してるの。ほんとう、本当に、いっそひと思いに、教えてよ、

「……なまえっち」
「……なに」
「もー……、ほんと、さあ」
「なによ」
「……なまえ、っち、」

 好き、だって、伝えたらその先は決まってしまう。
 「おまえに告白されたらみんな『わたしも』って言うよ」。自分の中の片思いを吐露するたびに言われた言葉。それが励ましだってことも、あながち的外れじゃないことも分かっている。
 ――でも。
 『みんな』って、誰だ?その『みんな』の中に彼女がいなければ、意味なんてない。どれだけ多くの女の子に好かれたって、たったひとりの女の子が振り向いてくれなければ、意味なんてないのだ。告白することでそばにいられなくなる可能性があるのなら、臆病だなんだって言われたとしても、この気持ちはそう簡単には伝えられない。そんな風に顔を赤くするわけも、切実な表情を浮かべるわけも、それがオレの心臓を掴んで離さないわけも。浮かぶ淡い期待は、まだ確かな形にはならないから、もう少しだけふたりの間に浮かべていたい。

 もっとオレに夢中になって。オレをもっと夢中にさせて。そんなことばかり願ってしまう。
 はやく気付いて、――これが、恋だ。

「……すぐ迎えに来るから、待ってて」

(わたしに会えてラッキー、とか、そういうの。黄瀬にとっては、ふつうのことなの?)
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