何も考えぬまま、力任せに掴んだ手首に赤い痕が広がるのが一瞬だけ視界をよぎった。白く細い手首だ。頭のずっと奥は冷え切ってしまって、その赤い痕に膨れ上がった支配欲が少しだけ満たされる。勝手知ったる様子で回す鍵の部屋は、なまえのものだ。真新しい金属のドアノブを乱暴に捻って、開け放したドアの中に彼女を引きずり込む。瞬間。
痛みと戸惑いに歪める表情。額に浮かぶ汗で崩れた前髪。ほのかに残る花の香水。間近に感じる彼女の気配にめまいがして、暗転。
――溜まっているのだ。正直なところ。
大学生の七月は、皆が皆今にも死にそうな顔をしている。持ち込み不可の試験。それも自分の専門でないならなおさら。その一週間に二千字以上のレポートの締め切りを五つも六つも詰め込まれて、前期の間中緩みきった脳は悲鳴を上げている。二週間も三週間も前にレポート課題は告知されるものの、余裕を持ってそれに取り組むなどという殊勝な学生はそういない。自分はもちろん、自分の周りの学生もみんな余裕が危機感を通り越して危機そのものに変わるまで、ひたすらに見ない振りを突き通してきた。
だがしかし。自分の恋人は、前に言った数少ない『殊勝な学生』のひとりだったのだ。
「え、家行っちゃダメなの?」
テスト期間が終わるまで、と言って立ち入りを禁じられたのが三週間前。ゼミも学科も違う彼女との関わりは一切が断たれた。もちろん電話とかメールとか、そういった通信の類は残っていたけれど、そんなもので自分の正直な欲求はごまかせない。しかし、テスト期間くらいは真面目に、と意気込む彼女を言いくるめることはついに叶わず、事実上約一カ月の『おあずけ』を喰らっていた。その上テストやレポートによって溜まるフラストレーションも相まって、オレはすこぶる機嫌が悪かった。
そしてついにテスト期間から解放、つまりは『おあずけ』からも解放され、オレは最後の試験が終わったその足でなまえが一人暮らしをしているアパルトマンへ向かった。姿をまともに見るのも久しぶりで、どきどきとはやる心臓に急かされるように、階段をリズムよく登る。まごうことなき彼女の部屋の前で、だらしなくにやついた頬を撫でつけながらインターホンへ指を向けたとき、
「あれ、涼太?」
「……へ、なまえ?」
エレベータホールの方から歩いてきた姿は、三週間ぶりに見たなまえその人だった。確か、なまえは今日の午後イチで試験が全部終わると聞いていたのに、もう夕方の六時を回ろうかという今の時間に帰宅するとはどういうことだろう。
「……なまえ終わるの早かったんじゃないんスか?」
「早かったけど……てか今日来るって言ってたっけ」
「言ってないスけど……」
てっきりテストが終わった日は、自分と過ごすのを彼女も楽しみに部屋で待っていてくれていると考えていた自分の、先程までの高揚感がしわしわと萎んでいく。語尾が小さくなっていく自分の声に被せるように聞こえたのは楽しそうに弾んだなまえの声で、みぞおちの辺りからどろっとした何かがあふれ出た気がした。
「まあいいけど。今日ね、友達とケーキ食べに行って来たんだ、おいしかったよ」
へえ。と呟いた自分の声にやけに覇気がないとは感じたけれど、その代わりに湧き上がる妙な苛立ちに全身が浸食されていくような心地がしたせいで特に気に留めることも出来なかった。なんだろう。気持ちの?重さ?ベクトルの大きさ?ちょっと違うんじゃねえのって。
何も言わずになまえの手を掴んで、ただ喉の渇きだけがヒリヒリと熱かった。
――ガン!
鈍い音がした。ドアの中になまえを引っ張り込んで、そのまま閉じたドアへ叩きつけるように彼女の体を押さえつける。深く合わせたくちびるの中で漏らすくぐもった声はまさに苦悶そのものだ。両手首を押し付けたまま、自分の体重を預けるようにしてからだでからだを閉じ込める。なまえに覆いかぶさったオレの影で、彼女の全身が染まっていた。引っ張り出した舌の、ざらつく表面を舐めて、噛んで、なぶる。咥内に広がるかすかなコーヒーの味が煩わしい。引き攣る喉が、ひどく色っぽいと思った。
「人のこと三週間も放っておいて、自分はひとりで楽しんでたんだ?」
息苦しさに浮かぶ目尻の涙が影に埋もれたふたりの間で光る。唐突に始まった口付けを受けるなまえはただ必死で酸素を取り込むばかり。彼女に声を出す暇を与えずにいるのは自分なのに、返ってこない問いにお門違いの苛立ちが喉元を抉った。期待しているのは、言い訳と、謝罪。しかしそれを聞いたところで、確かに感じてしまった気持ちの重さの相違はきっと癒されないだろう。ならばこの苛立ちと焦燥が混じり合った情動を彼女にぶつけることしか、今の自分にはこの昂りを慰める方法が見つからない。
きれいに着飾ったなまえの服を暴いて、放られたオフホワイトのチュニックがタイルへと落ちる。至るところへ指を伸ばしながらよぎった視界には、オレが脱ぎ捨てたシャツが横たわって、抵抗したことで脱げてしまったヒールのそばにはお互いの鞄が転がっていた。
スニーカーを履いてタンクトップとボトムスを身に纏ったオレにドアへ押しつけられるのは、スカートと今にも取れてしまいそうな下着以外何も身につけていないなまえ。ひどい格好だと笑ってしまう。
「りょう、た、外……きこえる、っ」
「……こっち、」
くちづけの隙間で息も切れ切れに吐き出されたなまえの言葉に、手を止める。さすがに玄関のドアに押し付けるのはかわいそうだし、外でドアの前を通る人間になまえの声を聞かれるかと思うと癪だ。かと言って場所を移動できるような余裕もなくて、土足のまま玄関に上がり込んですぐ近くの壁に薄い肩を再び押さえつける。「こんなの玄関と変わらない」「となりの部屋に聞こえる」、となまえは喚くけど、残念。隣の部屋には誰も住人がいないなんてとうの昔に知っているのだ。
――ていうか、
「そんなこと考えるとか余裕あるんスね?」
普段より幾分低く作った声を耳に吹き込んでやると、自分のからだで閉じ込めたなまえの肩が震える。胸や腿をオレの指が掠めるたび、眉根が悩ましげに寄って、吐き出す吐息と噎せ返るような熱気にめまいがした。
目の前になまえを差し出されれば、オレの視界は嘘みたいに狭まって、他のことを考える余地なんてこれっぽっちもなくなってしまうのに。
「っちが、」
「まあなんでもいいスけど、もう止める気ないから」
恐怖でも、惰性でも、快楽でも、何でも。なんでもいいから。
すぐ近くに見える鎖骨は、なまえが喉を引き攣らせるたびに薄い皮膚を押し上げて、小さなくぼみを作る。その中に流れ込む汗はとろりと甘い蜜のようにオレを誘いこんで、誘い導かれるがままに舌でそれを絡め取ってはくぼみを唾液で濡らした。
指を這わせて、水を呼ぶ。彼女が溢れさせるものは、汗も、涙も、もっと別の水ですら、オレを誘っては、溺れさせる。舌と皮膚と指先と、オレのからだ全部で暴くのは、彼女のからだと心、すべてであってほしいと思う。
だから彼女とオレの気持ちに溝があるのかもしれないと思うことは、とても、――とても、おそろしい。
「ほんと、オレはこんな、好きだっつーのに、」
きっかけはとてもくだらないことだと自分でも思う。それでも、ふたりの気持ちに差があるだなんて考えは、『くだらない』で済ますことなんて到底できそうもない。
「いいかげん、泣きそうっスわ……っ」
情けないことばだ。けれど快感と別の意味で震えてしまうオレの声を聞いて、傷ついた顔になるのはなまえの方だから、その傷ついた表情に思わず沸き立つ期待。彼女にそんな顔をさせておいて期待するなんて、それこそ情けないというのに。
抵抗の色を失くしていくなまえの腕が縋るように首筋へ絡みついて、手繰り寄せる。彼女の指で掻き混ぜられる自分の髪は、なまえの一挙一動に翻弄されるオレの、偏向する心にとてもよく似ていると思った。
息を整えながらベルトを外すオレを、彼女は焦点の定まらないうつろな目で見つめる。それがあまりに扇情的で、だらしなく開いた赤いくちびるを塞がずにはいられなくなる。夢中で舌を追っている間にベルトを外すのを忘れてしまっていて、先に進みたいのに彼女はなかなかそうはさせてくれないらしい。
「……っは、ぁ、なまえ、ベルト取って……」
耳朶に小さく光る透明なピアスにくちびるを寄せながら促すと案外素直に、首へ絡みついた腕がからだを伝って降りてゆく。ひやりと冷たい指先がタンクトップの上から腹部をなぞるから、人知れず奥歯を噛み締めた。
「……なまえ、はやく」
「ま、って、」
ぎこちない手つきでベルトのバックルを弄るなまえは、ふらつくからだを支えようと自分の額をオレの肩に押し付ける。それでもひっきりなしに熱い息を吐き出して、露出したオレの首筋にことごとくそれをぶつけてくる。
――本当、生殺し。
バックルからベルトを引き抜くと、息苦しかった下半身が少し楽になった。ふらりと手を垂らして、なまえは上半身を壁へ預ける。そのからだを追って、壁についた両手でその髪を揉みくちゃにしながらくちびるを塞いだ。苦しそうな息遣いとくぐもった声をキスの隙間で洩らすから、いつまでたってもくちびるを離すのが惜しくて、赤いそれに舌を這わす。
こんな一方的に行為を進められてつらいだろうに、眩しそうに細められたまなじりが優しいから、目を離すことが叶わない。
オレの唾液で濡れたくちびるが紡ぐ声すら、あんまりにも、やさしい。
「……涼太、すき、」
くちびるを離しただけの至近距離で視線を合わせながら、なまえはそんなことを口走る。その上垂らしていたはずの手が何時の間にかオレの背中を、それもタンクトップ下の素肌を滑っていて。汗で濡れる肌に構わず、つるつると這い上がる指先はオレの貪欲な欲望を自由自在に操るのだ。
そんなんだから、オレは何回だって、この女の子が欲しいんだって切望してしまう。
「……は、ほんとかっこわる……」
言いたいことは山とあるのに、ひとつも声にはならなかった。彼女の言葉の前になす術なんて見当たらない。空虚な隙間を埋めたくて仕方なくて、なまえの片足を抱え上げるようにしてそのまま、貫いた。
快感を逃がすように声を漏らすなまえの目からは、次々と涙が溢れては、伝う。赤く蒸気した頬もその涙でまみれて、くちびるを寄せると涙の味がした。それが顎から胸の間を通って、汗と混じり合いながら爪先まで。彼女の体内から溢れ出る液体は、誰でもないオレを感じることで零れるのだと思うと、途方もなく気持ちよくて、満たされた心地がする。
軽く上回ってしまいそうなオレの気持ちとの差を埋めるくらいに、その涙を流してくれたら、いいのに。
「――もっと、泣いて……」
こんな気持ち抱える必要なんかないって、十分そのなかはオレで満たされているのだと、堪らない感情を溢れさせてみせてくれ。