ベイビー・クライ

 重々しく、その箇所から全身に響き渡るような疼きが、白んでいた意識を呼び戻す。からだ全部を支配する怠惰は、昨晩の行為によるものなのだと考えなくても分かりきったことだった。薄暗い室内は、まだ日が昇りきらないことを指していて、壁に掛けられた時計は六時より三十分ほど前を指している。そして目を開けたすぐ先には、こちらを向いたまま目を瞑って、いまだ夢を彷徨っている彼のそれはそれは美しい寝顔があった。

 黄色い髪が白い肌とシーツの上に散らばって、忌々しいほどに長い睫毛は真っ直ぐに伸びている。しゅっとした輪郭に、くっきり通った鼻筋。薄いくちびるは小さく開いて、心地良い寝息を漏らしていた。シーツの隙間から見える、逞しい肩と、大きなてのひら。これらがいつもわたしには限りなく優しく触れてくれることは知っているけれど、昨晩はそれがまるで違うものみたいに、自分のからだを蹂躙していたのだと思うと、なにか、変な気持ちがする。いつもと違う様子に、恐怖を感じた。けれど、わたしよりもずっと傷ついた色を見せる彼の双眸が見えると、訳の分からない罪悪感が勝って、何だって受け入れてしまいたいと、そう思うのだ。

 ――そして彼の凶暴な欲望を前にして、確かに、欲情してしまう、自分もいた。

 不可解で、あまりにも恥ずかしい感情を振り払うようにベットから起き上がろうと寝がえりを――打った、のだが。

「〜〜い、っ、」

 言葉にならない痛み、とはまさにこのことだろう。寝がえりを打った瞬間に腰から響き渡る鈍痛が、起き上がることを不可能にした。昨夜は玄関で一通り行為を終わらせて気が済んだかと思いきや、脱ぎ散らかした衣類はそのままに、このベットへと連行されたのだ。結局、苛立ちを隠しきれない態度を露わにさせたまま、何度となく求められて、気を失うように眠りに落ちた。

 今までに感じたことのない鈍痛に、意図しない内にこれまでの行為が手加減されたものだったと知らされて、どうしようもない。
 『オレはこんな、好きだっつーのに』、なんて、まるで彼の気持ちが独りよがりみたいな言葉も、本当、どうしようもなくて。
 痛みに耐えるため、息を詰めてふたたび起き上がろうとしたわたしのからだは、起き上がることをしなかった。今度のそれは、腰に感じる痛みのせいでなく、後ろから――涼太が眠っているはずの方からかかる力が、わたしのからだを引き留めたからだ。

「……涼太?起きたの?」

 腹部に巻き付いた長い腕は、まごうことなき彼の腕だ。そして、背中に感じるぬくもりと、首筋に押しつけられる額とさわさわ触れる髪の毛の感触が、彼に抱きしめられていると認識させる。そのはっきりした力の輪郭は、彼が目覚めていることを示しているのだけれど、彼は何も言わず、ただ巻き付く腕の力を強めることしかしなかった。

「どうかした?ちょっと、痛いよ」

 腹部に腕が回されていることはもちろん、かけられる力が痛む腰へ響いて、鈍痛を呼び起こす。痛むことを伝えると、その力はそろりと緩くなったけれど、決して離れようとはしなかった。そして力を緩めた代わりに、首筋に押し付けられている額が一層そばに摺り寄せられる。 ――ああ、甘えて、いるのか。

「……なあに。言ってくんなきゃ、わかんないよ」
「……怒ってる?」

 やっと聞こえた彼の声は、笑ってしまうくらいに、弱気なものだった。いたずらをした幼い子供が大人の機嫌を伺うように、おそるおそる。そんな様子がおかしくて、触れ合う素肌が思いのほか心地良くて、わたしは思わず笑ってしまう。彼の言葉の意図するところはわかる。昨晩の行為のことだろう。彼は今までに、あんなに力任せに求めてきたことはなかったから、きっとわたしの機嫌を損ねてしまったのではないかと不安なのだ。最中はそんなしおらしい様子をこれっぽっちも見せなかったくせに、一晩明けたらこれなのだから、本当に、笑ってしまう。

「どうして?」
「……きのう、その、ムリヤリ、だったから」
「……ちょっと怖かったかな」
「……ごめん」

 力のない謝罪と同時に、巻きつく腕の力がほんの少し強くなる。その力を感じながら、昨日の彼の様子をぼんやりと思い返した。余裕のない眼差しと、言葉よりも先に求められるくちびる。切ない声は明らかな不安をにじませて、心臓から削り取ったようにそのままの形の気持ちを口にした。

 ふたりの気持ちに溝があるなんて、そんなこと、ありはしないのにね。
 からだが震えるほどの欲望と、溢れるままに縛り付けてしまいそうな独占欲を、どうにか押さえつけようと必死になる彼のそばが心地いい。

「……謝るのは、わたしの方でしょ?」
「え……」

 戸惑う彼の腕の中で、痛みを堪えてふたたび彼の方へと寝がえりをうち直す。今日はじめて見た彼の顔は、まるでおいてけぼりを食らった子犬のようだと思った。傷ついたように下がる眉と、ぺたりとしたままの髪。顔を見てしまえば、込み上げる愛しさに逆らうことなんかできなくて、身長差のために普段はもっと遠くにある彼の額へ、ひとつだけくちづけを落した。「っわ、」と声を上げる様子に思わず笑ってしまう。頬が赤い。

「ほっといてごめんね。わたしだって、涼太に早く会いたかったよ」

 約1カ月、彼に触れることができなくて、自分で課しておきながら、会いに行ってしまいたくなった。でもそれじゃあ、恰好が悪いし、自分が決めたことも満足に守れないみたいで悔しい。
 ペタンと張り付いたままの彼の前髪をさらさらと撫でてやると、期限を伺うような表情が力が抜けたように一変して、真一文字に結んでいたくちびるがツイと尖る。見覚えのある表情がやっと現れたことで、昨日から胸につっかえていた不可解な罪悪感が、ふわふわと浮いて消えていった。不安そうな、傷ついた顔なんて見せないで、笑ったり拗ねたり、ころころ表情を変えてくれることにたまらない安らぎを感じている。

「……オレのこと置いてケーキ食べに行ったくせに?」
「今日一緒に行こ」
「……1か月分くっつきたかったのに」
「今日くっつけばいいよ」

 熱が立ち上るみたいに、首から上を真っ赤に染めると、ああもう!と声を上げた彼に、すっぽりと抱きすくめられてしまう。腰のあたりで絡みついていた腕が背中から肩を包みこんで、身動きが取れない。相変わらず腰は痛むし、力任せに抱きしめるものだから息も苦しい。けれど衣服一枚の隔たりもない抱擁は、わたしをひどく幸福な気持ちにさせた。

「……でもやっぱ、ごめん」
「なにが?」
「……酷く、しちゃったじゃないスか、きのう」

 鼓膜を柔らかくくすぐる声色は、先程のように弱弱しく掠れていた。わたしはそれを大切にしまいこむ。痛いくらいに、激しい劣情。それはわたしのからだに今も痛みを残している。そんな風にしてしまえるくらいの欲望をこころのなかに隠していたこと、わたしのことを気遣って、今まで手加減をしていてくれたのだということ。昨晩の行為で、はじめて知った彼の思いやりだった。その優しさの中に、浸って、溺れていたくなる。
 けれどそれ以上に、抑制しない、飾らない、生まれたままの彼の欲望の中に、わたしのことを浸してほしいと思う。

「……涼太が我慢する必要ないんだからね」
「……どういうこと?」
「したいようにされたいくらい、好きってことですよ」

 彼の息を呑む音が耳元の空気を震わせた。きつくなる抱擁と上がっていく体温は、混じりけのない欲望を知らせてくる。ゆるりと緩んだ腕の力は、少しだけふたりの間に隙間を作った。確かめるように覗き込んでくるライトブラウンの瞳には、薄く水分の膜が張っていて、水面のように揺れて光る。

「……したいようにしていいですか」
「したいように、してください?」

 わざと目線を合わせるようにして言ってやると、笑っているのか、困っているのか分からない表情を浮かべた。眉間が切なく、うっすらと皺を刻んでいて、彼が傷ついた顔をするのはいやだけれど、この表情は好きだなと思う。
 わたしのことが欲しいんだって、彼の全身で感じてくれている表情。
 からだを労わるように優しく、これ以上ないくらいに丁寧に、そっとわたしを横たえる。ライトブラウンの虹彩を情欲がゆらゆらと揺らす様を見て、きっとわたしも同じように揺れた虹彩をしているのだろうと思った。仕方がない。きみを好きだという気持ちに、手加減をするつもりなんて万にひとつもないのだから。
 蕩けてしまいそうなくちづけを合図に、ふたりでシーツの海を泳ごうか。
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