残さず食べたお皿の上で

 電車の扉だとか、教室の入り口は、ひとがくぐるには十分の高さを持っている。極々平均的な身長しか持たないわたしは、それらの高さを特別『高い』とか『低い』とか、感じたことは今までに一度もなかった。気にする必要がないのだから、当然だと思う。自分に関わりのないことにかんして、どこまでも無関心になれるのが人間の性なのだ。だから移動教室の際に教室を出入りしたり、出かけで電車に乗る際に、当然の行為のようにひょいと頭を下げる彼を見るといつも、彼が規格外のからだの大きさをしているのだということを実感させられる。その行動が身体に染み込んでしまっている彼にとって、それは別段特別なことでもないらしく、「大変だね」と声をかけるといつも「べつにもう慣れたし」と答えが返ってくる。物心ついたときにはもうその身長は他より幾分も大きかったというのだから、当然といえば当然だ。
 だけれど今日、普段より少し遅く――ホームルームが始まるぎりぎりの時間に――教室の入り口をくぐった彼の姿に、身体の大きさとは別の意味で目を丸くしてしまった。

「……紫原くん、今日はまた随分とすごい格好だね」
「あー、今日朝練長くてさー」

 マジだるいと言いたげにうんざり顔を浮かべながら、わたしの隣の席へスポーツバックを降ろした。うんざり顔と言っても、彼はあまり表情に感情の起伏が現れない。だからその顔がいつもとどう違うのかと問われても、正確な答えを返せる自信はなかった。けれど、前を留めずに腕が通されただけのカーディガンと、無造作に襟ぐりが開けられたままで、本来そこに通されるはずのネクタイを手に握っている姿は、やはりいつもよりお疲れなように見えるのだ。
 彼の言葉から推察するに、彼の所属するバスケ部の朝練が思ったよりも長引いて、ホームルームに間に合わせるために着替えを適当にしたのだろう。このどこまでもマイペースを体現したような彼が、ホームルームに遅れることを気にするなんて珍しいけれど、そういえば彼が教室に入ってくる際に、違うクラスの男の子が彼の背を押していたような気がする。そんなところまでも世話を焼かなければならない彼のチームメイトに、小さく同情した。
 なぜならわたしも、彼の世話を焼かなければならない人間の一人だからだ。

「先生来ないね」
「そーだね。ねえなまえちん、ネクタイむすんで?」

 ――ほら、これだ。
 時間になっても先生が現れないことで、いまだに静まる様子を見せない教室内。その一角でそんなことを言ってのけるのは、文句なしにこの学校で一番身体の大きな男だ。身体は規格外に大きいくせに、そうやって小首をかしげて見せる仕草が似合ってしまうのはどうしたことだろうか。なにを考えているのかちっともわからない目に見つめられて、男の子にしては長めの髪をさらりと揺らして首を傾げられては、反論も何もできなくなってしまう。
 チームメイトの人たちも、こんな気持ちを味わっているのだろうか。それがどうかはわからないけれど、わたしの場合はまず間違いなく、『世話を焼かなければならない』のではなく、『世話を焼いてしまっている』だけなのだ。

「……じゃあちょっと、屈んで」

 はあい、と相変わらず間延びした声を上げて、ネクタイを手渡すとその身体が申し訳程度に屈む。自分より五十センチも高い身長の人間となると、ネクタイを締めるのも一苦労だ。カッターシャツの襟を立てて、つるりとした素材のネクタイをさっと通す。朝の教室でするには恥ずかしすぎる行為だという自覚はあったので、手早く済ませてしまおうと手元に集中していた、――のに、この男の予想もつかない行動のせいで、わたしの心臓はおもわず悲鳴を上げてしまうのだ。

「なまえちんネクタイむすぶの上手だねー」
「っう、わ、」

 身体の大きさの割にあまり低すぎない声が、頭蓋骨に響いて聞こえてくるようだ。
 身体の大きさの通り、重い体重が少しだけ頭の上にのしかかってくる。
 ネクタイを結ぶために彼の首元へ向かう顔が、頭上からかけられる体重によってがくんと下がる。つむじのあたりに当たる硬い感触は、きっと、おそらく、紫原くんの顎なのだろう。

「ちょっと、紫原くん、おもい」
「えー、頭のせただけじゃん」
「それでも重いよ! ほら、もう結んだから」

 否応なく下げさせられてしまった視線を何とか持ち上げて、あとは結び目を持って締めるだけになったネクタイを、きつくなり過ぎないように締めてやる。その結び目のところをぽんと叩いて、そそくさと離れようと身をよじるのに、からだは言うことを聞いてはくれなかった。それどころか腰のあたりになにかが巻きついて、わたしのからだを動かすまいと引き留めている。先程よりも縮まった距離で、表情が見えないまま落ちてきた声に、引き攣るように喉の奥底がきゅうと締まった。

「じゃあ次は、ボタン留めてね」
「はあ? もう、それくらい自分でやってよ」
「オレボタン留めんのヘタだからさーおねがいー」

 目の前には、ひとつもボタンが留められずにだらりと垂れ下がったカーディガン。彼の次の要望は、このボタンを留めてくれというものらしい。だがわたしは正直、もう勘弁してほしかった。ネクタイを締めることもただでさえ恥ずかしい行為であったのに、頭の上に顎を乗せられて、腰に手を回されて、そのままボタンを留めろだなんてとんでもない。
 ――近い、のだ。朝の教室には似つかわしくない、あってはいけない距離。わたしの顔は今にも燃え上ってしまいそうに熱を持っている。

「ほら、なまえちんはやく」

 こんなにも大きな図体をしておいて、どうしてこんなに可愛いのだろう、このひとは。
 頭の上に顎が乗せられているせいで、話すたびに歯と顎が噛みあう音と、声が頭蓋を通してがくがくと響き渡る。ああもう、やけくそだ!黒いカーディガンと同じ色をしたボタンに触れる指が、細かく震えているのには知らない振りをした。きっと教室でこの光景は浮いているのだろう。これだけの大男が、女生徒に覆いかぶさっているのだ。誰も声をかけてくれないのは、それがこの紫原敦という人間だからだ。彼はよく分からない人物として認識されているし、彼のやることにはとりあえず口を出さないでおこうという暗黙の了解のようなものがこのクラスには存在している。助けが来ないことを早々に悟って、目の前のいつつのボタンを留めることに全神経を集中させた。

「ねーなまえちんさー」
「なに!」

 早く早くと自分自身を急きたてていたせいか、上がる声も思わず乱暴になってしまう。しかしそれを気に留めることなく、いつものように平坦で間延びした声が頭上から、頭蓋を通して響き渡る。

「なまえちんの髪の毛、いーにおいすんね」

 ――ほんとうに、なにを言って、

 びしりとした緊張がからだを走った瞬間に、ガラガラと教室のドアが開く音が鼓膜に入り込んだ。先生がきた。それと同時に、わたしを引き留めていた拘束は嘘みたいになくなって、その大きなからだはひらりと身を翻す。最後のボタンを留めたばかりの指は、そのままピクリとも動かなかった。
 ありがとー、と頭蓋を揺らすことなく、通常通りに鼓膜を通って入り込んだ声は、変わらず平坦で間延びしている。遠くで担任の教師がざわつく教室を諌める声がする。燃えそうにあつい熱を蓄えていたというのに、さらにじわりじわりと体温は上がってゆく。言葉が出ないとは、まさにこのことだ。ひとのことを散々揺さぶって、恥ずかしい思いをさせておきながら、自分はまるで何でもないような顔をして身をかわす。引き際のぬくもりも、最後に落とされた言葉もすべてとんでもない破壊力を携えているくせに、ちっとも計算した様子はないのだからいちばん性質が悪い。わたしひとりで慌てふためいて心臓を揺らされているだなんて、卑怯じゃないか。

 なぜか放ってはおけないこのひとに、いつもどうしようもなく振り回されて、――きっといつか、ツイラクする。
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