彼女はオレにとって、奇跡のひとだった。
自分より六つも年上のその人、みょうじなまえさんは、中学時代からモデルなんてものをやっているせいか、きらびやかな色を纏ってはもてはやされ調子づいて、無意識の横柄さを振り翳していた一六歳のオレにとって、センセーショナルな女の人だった。優遇されるのが当然で、羨望の的でいるのが常だった自分に、『平等』という『特別』を教えてくれた人だった。『特別』であることが『ふつう』だった日常に与えられた、『ふつう』に接されるという『特別』な振る舞いは、身の丈以上の自意識と虚無感にまみれた自分にはあまりにも鮮明な『痛み』だったし、致命的な『恋』だった。
彼女は奇跡のように心が広く、懐が深かった。やさしく、理知的で、彼女がオレに与えるのは安心や安らぎみたいなあたたかいものばかり。たまにもたらされる痛みだって、それらを引き立てるだけのものに過ぎなかった。オレが十八歳になる頃になっても、少しも変わりなく、ただ完璧な恋人同士の関係がそこにあった。
奇跡のような、夢のような、時間だった。
「……そろそろ別れよっか」
――夢が、醒める。
薄い扉が力なく閉まる。後ろ手に鍵をはじいてドアバーを降ろして、踵を踏みつぶしながら脱いだブーツがタイルに転がるのには見ない振りをした。右の肩が重い。この程度の荷物で悲鳴を上げるようなやわな造りはしていなかったはずだと、目一杯膨らんだトートバッグを放り投げる。重りをなくしたというのに、右の肩には未だずっしりとした重みが纏わりついていた。
彼女は、嫉妬という感情には無縁の人だった。
そこに恋愛を絡めずとも、人の感情には常に妬みや嫉みという悪癖がついて回る。恋愛感情の中に場所を移したなら、それはなおさらだ。けれどなまえさんは、そんなものに当てられて心を汚すようなことを一度だってしなかった。バスケに明け暮れるオレの日常に不満ひとつこぼさず、くたくたな自分を労って受け止めてくれたし、バスケ以上に淡白な実力社会である芸能界で、時折荒んでしまう自分のそばでいつも変わらずにいてくれた。紙面に映る自分の隣にどんな女性が佇んでいようと、自分だけを見つめて「かっこいい」と頬を染めていてくれたのだ。
それは途方もない安らぎだった。何者にも汚されない、狭まることのないあたたかい懐に、オレはただ抱かれていればよかった。自分にはこの人がいればいいと、彼女のやさしさに包まれるたびに思った。そのたびに生まれる、泣き出してしまいたくなるような言い様のない寂しさも、いつかなまえさんが消してくれると信じていた。
「だいじょうぶ、寂しいのなんか、すぐなくなっちゃうから」
別れを突き付ける彼女へ食い下がろうとした自分を、宥めるようにして笑ったときの目尻も、口角も、声色も、ひとつ残らず、今まで決してオレを責めなかった彼女の笑みとそっくりで、既視感と倒錯に揺れた脳内はそこでフリーズした。力任せに問い詰めてしまいそうになったのは、その笑顔はオレに安らぎをくれるときにだけ浮かぶものだって思い込んでいたからだ。
こんなことを言うときにそうやって笑うのは、違うじゃないか。崩れそうになる自分の足元を踏みしめていることに必死で、喉からは掠れた息しか生まれてはくれなかった。
フローリングに転がるトートバッグから見慣れたスウェットがこぼれている。彼女の家のにおいが染み付いた自分の衣服は、オレの家ではひどく居心地が悪そうに横たわって沈黙していた。
彼女が初めてバスケの試合を見に来てくれたのは、オレが十六のときの夏のインターハイだった。日帰りで大阪まで行ったのは初めてだと笑って、ひとりで高校生ばかりの体育館にいるのは緊張したと肩を竦めていたことを鮮明に覚えている。応援遠征には懲りたと言って、それ以降観戦に来てくれたのは近場で行われる試合だけだったけれど、観客席に小さく彼女が見えるだけで、全身が熱で打ち震えた。もしなまえさんが来てくれた試合が、あのときの桐皇学園との試合だったなら、きっと負けることはなかったのだろう。彼女の存在は、オレの中にそれほどの熱量を生んだのだ。
甲高いスキール音が耳に痛かったのは、もうずっと昔だ。この音と、ボールがネットをくぐる音、ベンチからの歓声が、今は自然と心臓を湧かせる。爪先でドリブルの勢いをすべて殺して、斜め後ろへ飛ぶ。跳躍のいちばん高い地点から、てのひらから指先までを丁寧に使ってボールを放つ。まっすぐにゴールへ向かったボールが枠に触れぬままネットをくぐる乾いた音がして、そのままコートへ落ちるのと同時に着地した。驚くほど、いつも通りだ。彼女のそばを離れ、小さいとは決して言えない穴を抱えているはずなのに、プレイには一切の影響はない。それをありがたいと喜べばいいのか、薄情だと嫌悪すればいいのか分からない。一年の夏のインターハイ、ウィンターカップ、二年の夏の県予選、彼女が見に来てくれた試合を反芻するのを、止められなかった。
「黄瀬、どうした」
「――え、なにが」
文句ひとつないシュートを決めた自分にかけられた憂慮に気の抜けた返事をする。振り返った先にいた同学年のチームメイトは、怪訝そうに眉を寄せていた。最後の先輩が卒業して、しばらくが経った。新しく作られつつあるチームと、相変わらず飛ぶ監督の怒号。この海常というチームで出会った初めてのキャプテンが教えてくれた、『エース』という役割を果たし続けていられる、オレの居場所。自分の情けなさに憤って、使命感に満ちたままに溢れた「このチームが好きだ」という言葉に、なまえさんは、オレにこの場所があってよかったと、力のすべてを出し切って空っぽになった背中を抱きしめてくれた。
あのぬくもりを身体の中に留めておきたくて、オレは呼吸をすることもやめたくなる。
「おまえ今日口数少ないけど、何かあったの」
プレイに少しも支障は出ていないというのに、傍目から見て今日の自分は『何かあった』ように見えるらしい。気遣わしげな言葉に笑顔を向けたつもりが、彼の顔は眼前を覆う自分の髪で隠されてしまった。前髪も随分と伸びた。この髪をそっと避けて、開かれた額へ小鳥のようなキスをしてくれる人もいなくなったのだ、伸びたままにしている意味もない。
「……あー、だいじょぶ。 振られただけっス」
「……おまえが?」
「まあね」
「浮気とか?」
「しねーっスよ、失敬な」
「じゃあ、された?」
「……それは、ない、と思う」
二年と数カ月、交際を続けている中で浮気をするに至ったことは自分と彼女のどちらもなかった。けれどいつだったか、嫉妬という感情で濁らない目に寂しさが湧いて、その真似事をしてみようかと思い立ったことがある。しかし、それは思い立っただけで終わった。そんなちっぽけな寂しさを解消するために、この人を傷つけてはいけないと自分の無意識が悟ったからだ。何度か隣り合ってシャッターを切られた仕事仲間の女の子からの電話を、なまえさんのいる前で取ったときのことだった。簡単な相談と他愛もない笑い話を終えて電話を置くと、隣にいる彼女の瞳が不信に揺れる色を瞬く間に取り繕って、何も気取られないような色へ変わるのを見てしまった。そこでオレの失敗談にもならない浮気の算段は呆気なく途絶えたのだった。
この人の瞳を淀ませてはいけない。恋人として、彼女を愛おしいと思う気持ちが本能に警告をしたのだとそのときの自分は思い込んでいた。好きだから、彼女を傷つけたくないのだと思い留まった自分に誇らしさすら感じた。なまえさんへの自分の感情は、すべて、完全に、尊いものだけで構成されていたのだ。自分の中にいる彼女の姿は、自分のずっとずっと遠くにいて、オレは遠くで、彼女が笑みをたたえる様子を何より尊いものとして見守っているだけでよかった。
ひとりで佇むオレの心臓の近くに、何かが抜け落ちたような穴があいている。隙間風にピリリと焼けつく空洞は、なまえさんを自分のために傷つけてしまいたくなる愚かしい感情が消え失せた痕なのだと、目を瞑った。依然塞がらないその穴は、今になって存在を主張するように鼓動のような疼きを放つ。この空洞の意味を取り違えなければと、彼女を尊いものへと据え置いた本能へ憎らしげに告げるのは、その抜け落ちた『何か』だった。
彼女が、背中を丸めて猫背になる姿が好きだった。いつもしゃんと背を伸ばして、ずっと先だけを見つめているような人だったから、そんな姿を見ることはそうそうなかった。しかしその日のなまえさんは膝を抱えるようにしてカウチの隅に座り込んで、小さく背中を丸めていた。傾く西日の光が溶けるように薄暗くなってゆく部屋の中で、オレはしばしその姿に見蕩れた。好きだ、と思った。何を言えばいいのか見当もつかなかったけれど、彼女がいつも情けない姿を見せる自分にしてくれるように、ただ包み込んでやりたくて、名前を呼ぶ。
「……なまえさん?」
「――あ、涼太くん、来てたの」
眠りから覚めるように二・三度瞬いた彼女は、抱えていた膝を降ろして、丸めていた背を伸ばした。小さくなった背中に纏った寂寞も、ぼんやりと一点を見つめる瞳に翳る不安も、一瞬でなりを潜めてしまう。オレは今度こそ本当にかける言葉を失って、まっすぐに伸びた背筋の上で微笑む彼女を見つめるだけだった。
「……うん、なまえさん、オレ腹減ったっス」
「ごめんね、ちょっと待って」
「……うん、」
仕事で失敗したのかもしれない。友達と喧嘩をしたのかもしれない。可能性の範疇で思いつく理由は山のようにあるのに、「何かあったの」というひとことすら出てこなかった。「ごめんね」と謝るのは何故かも聞けやしなかった。そのときのオレには、なまえさんの言葉を彼女の『強さ』として認識することしかできなかったのだ。
彼女は、幼く不甲斐ない自分をやさしく包み込んで安心させてくれるような懐の持ち主だから、オレが同じように彼女を受け止めてやれたらなんて、おこがましくて、厚かましいことなのだと、開きかけたくちびるを縫いつけた。伸ばしかけた腕を縛りつけた。丸くなったなまえさんの背が、たちまちまっすぐに伸びてしまうのを、それからのオレは遠くで眺めていることしかできなかったのだ。
そして訪れた別れのときも、なまえさんの背はしゃんと伸びたままだった。
「もう、涼太くんが思ってるような人じゃいられなくなっちゃうから」
このときだって、聞きたいことは山のようにあったのに、ひとつだって答えをもらうことはできなかった。今でもその言葉の意味を図りかねて、こめかみが痛む。オレが思っているような人って、何だ?オレがなまえさんだと思っていたあの人は、違う人だったとでもいうのか。そうじゃいられなくなってしまうって、何だ?なまえさんはずっと、オレの中の彼女を演じていたとでもいうのか。もしそうだというなら、もしそうだとしても、そんなふうに仕向けたのは、紛れもなく彼女だというのに。
いつか彼女が消してくれると信じていた、言い様のない寂しさはどうしたらいいのだろう。心臓の近くにあいた、彼女へのエゴが抜け落ちた空洞をどう埋めたらいいのだろう。彼女の『強さ』の前に掻き消えた、丸くなった背中を好きだと思った理由はどこに留めておけばいいのだろう。失くしたはずのそれらは、そっと息を潜めて、てのひらの中でか細く呼吸を繰り返している。
差し出されるがままに信じた彼女の姿に耄碌していたとして、それでもオレは、瞼の裏にこびりつくなまえさんの姿を、耳に残る声を、体内で灯り続ける熱を、忘れることなんてできない。
ジーンズのポケットに詰め込まれたキーホルダーが擦れてくぐもった音が鳴る。部屋の鍵と、自分でもなんだかよく分かっていない適当なマスコット。それらと一緒に連なっていた彼女の部屋の鍵がひとつ消えるだけで、右のポケットがこんなにも軽い。見かけは自分の部屋の鍵と大して変わらないというのに、そこにどれほどの重みが詰まっていたのだろう。背中を預けた扉は変わらず暗いグレーの色をしていて、この奥にある今は無人の部屋も、変わらないままでいてくれたらと彼女らしいシンプルなインテリアを思い起こした。カツ、という安っぽいヒールがコンクリートを叩く音は、きっとあのくたびれた黒いパンプスが生み出すものだ。
「……涼太くん?」
『憧れ』だということに気付かぬまま始まってしまった恋人同士だったとしても、やはり自分にとって、彼女は致命的な『恋』だった。
「……おかえり」
「ただ、いま」
力の篭らない声を耳にしながら、立ちあがって鍵穴の前を開ける。鍵を開けるように促したつもりが、なまえさんはまるで夢を見ているようなぼんやりとした眼差しでこちらを見るものだから、思わず笑ってしまった。
通された彼女の部屋は何一つ変わっておらず、思い起こした通りの光景が広がっている。けれど、チェリーブラウンのカウチにオレの脱ぎ散らかしたスウェットは乗っていないし、洗濯物の中に色褪せたロイヤルブルーのタオルだって見当たらない。自分の気配をなくしてしまった彼女の部屋は、寒くて、寂しい。
「急にごめん。言いたいことが、あって」
「……うん、座って?」
言われるままに遠慮なく座る。正面から見て、自分が座るのは右、彼女は左。カウチにふたりで座るときの定位置だ。声の調子は穏やかでも、彼女の表情は口元だけがかろうじて笑っているだけで、緊張して強張る表情は穏やかとは言えなかった。黒とダークブラウンの色しかない虹彩が戸惑いと不安に揺れて、照明の光を取り込んできらりと光ったように見える。うるおう瞳に息を苦しくされながらも、空洞が満ちていくのを感じて、今まで肝心なことは何も言えなかったくちびるを引き解いた。
「オレね、なまえさんのこと、好きじゃなかったんだと思う」
彼女の瞳が一際大きく、ぐらりと揺れる。そんなあからさまな動揺を、今まで一度も見たことがなかった。憧れを抱く人のやさしさに包まれて、ほとんど彼女に心酔しているのに等しかった自分は、彼女を揺れ動かすような革新的な言葉を言うつもりなんか端から持ち合わせていなかったのだから当然だ。
なまえさんはオレの「憧れ」だった。身の丈より幾回りも大きなものばかりを与えられて、自分の大きさを測り違えていた自分に、等身大でいることの心地良さを教えてくれた。そんな人のぬくもりと、いつだって安心させてくれるやさしさに、完全に満たされたオレはその居心地の良さに身動きをやめてしまった。すべてを許して受け入れてくれる慈愛にただ抱かれて、ひとりでも立っていられる強さを見つめるだけだった。奇跡のような、夢のような人だと思った。
オレは憧れた彼女とそのまま、ずっとそこに浸かり込んでいたかったのだ。
「なまえさんも、知ってたんスよね」
そんなオレの愚かな妄信に、なまえさんはいつだって何も言わず笑顔で応えてくれていたのだ。侵食する嫉妬の感情に心を傾けないように必死になりながら、折れそうになる膝を何とか支えて、オレの憧れるみょうじなまえを体現し続けた。「もう、涼太くんが思ってるような人じゃいられなくなっちゃうから」なんて言葉を言わせてしまってなお、失望させまいと姿を消すことを選ぶようなひと。
「……わたしが勝手にやって、勝手に我慢できなくなっちゃっただけだよ。 涼太くんがそんな顔することないから」
愛情に擬態した憧れを押しつけるオレに、本当の愛情をくれるようなひとだ。
頭を垂れた表情は笑顔の名残などひとつもなく、今にも雫を作り出しそうな水分の膜を張る瞳が瞬いている。眉間に込めた力が抜けないままのオレを、そんな顔をするなと慰めてくれるように、オレも彼女を慰めてやれたらよかったのだけれど、それはできそうになかった。
だってオレは、なまえさんに泣いてほしかったから。
「でもね、オレちゃんと、なまえさんに恋してたんスよ」
「……恋、」
「うん。全然、上手くやれなかったけど」
なまえさんが与えてくれる安らぎの中で抱かれていられれば良かった。でも、与えられるだけでは寂しくて、自分が感じるだけの安らぎをオレが彼女に与えてやりたくて、泣いてしまいそうになった。傷つけることがひどくおそろしくて、心臓の近くにあるその部分に穴をあけた。その空洞に詰まっていた感情は、自分のために彼女を汚してしまいたくなるオレのエゴで、自分だけがそんな感情を持つことに耐えきれず、消してしまおうと思った。彼女の背中が丸くなる姿が好きだったのは、彼女をいつもより小さく見せてくれるからだった。あらゆるものに簡単に左右されて、たやすく捻くれてしまう自分をそのまま包み込んでくれる彼女のように、本当はその背中を丸いままでいさせてやりたかった。
自分だけの気持ちが一方通行になることが堪らなく怖くて、蓋をしたのだ。憧れる気持ちのまま、ただ与えられて包まれているだけで満足しているほうが楽だったから。
「……もう、オレといるのは無理?」
「……涼太くん」
折角なまえさんは隣にいてくれたのに、片思いの恐怖に耐えきれず、生まれた恋心を勝手に殺してしまうような情けない男だ。
完全に俯いてしまったために顔を隠す前髪の奥で、ぽつりぽつりと、雨のような雫がこぼれるのが見えた。わずかに痛みを残しながらも、オレは嬉しかった。情けない男ではもういたくないから。
――ああ。やっと、この人を慰めることができる。
「オレは、なまえさんじゃなきゃって思うから」
いつだって寂しいって言っていいよ。その涙を掬い取ってあげるから。
やきもちも、妬いていいよ。ごめんねって困ったような顔で謝らせてほしい。
へこんだっていいよ。丸くなった背中に手を添わせて、抱きしめたいと思う。
こぼれる涙を拭おうとする手を取って、両手で繋ぎとめる。膝を突き合わせるくらいまで近寄って、俯いたままの額にそっと自分のそれを押し当てた。緊張と不安で指を冷たく冷やす彼女も、堪えきれず涙を流す彼女も、今まで憧れ続けていたなまえさんのやさしさや強さには無いものなのかもしれない。けれどそんな姿にいっそ息苦しいまでの愛おしさがこみ上げるのだ。奇跡や夢みたいに、形を持たないものには決してもたらすことのできない情動。これが恋なんだってことを教えてくれたのもなまえさんだ。
「なまえさんがまだわかんないって言うなら、もういっかいオレと一緒にいてほしい」
『奇跡』や『夢』のように曖昧な存在ではなく、たったひとりの、オレだけのひとになってほしいのだと気付いた。
額を一層すり寄せて、ふたりの前髪が混ざり合う。はらはらと涙をこぼし続ける彼女の息遣いをこの距離のままずっと聞いていたかった。冷たく震える小さな指先が、固くこちらの指を握ったことがきっと彼女の答えだ。なまえさんの手を繋いでいた両手のうちの左側を、そっと小さく丸まった背中へ添わす。背骨とそのへこみを指の先に感じながら、上から下へ、ゆっくりと撫でおろした。
今まではただ眺めていることしかできなかったこのなだらかな曲線に、そっと手を添わすことができる。小さく丸くなったそこがしゃんと伸びてしまう前に、丸いままでいさせてやることができるのだ。いつだって自分を安心させてくれたこの人を、今度は自分が慰めてやれる。一方通行の恐怖に苛まれることなく、彼女を差し置いたままの憧れを押しつけることなく、オレとなまえさん、ふたりだけのための『恋』をするのだ。
臆病なエゴを抱えながら、息が止まりそうな恋をする自分が生まれて、夢の中で蹲っていた自分に別れを告げた。そして今になってやっと言える、とっておきのアイラブユーを、たったひとりのきみだけに。