マンションの階段を上る足が、引き攣るように痛む。つい最近買ったばかりのパンプスで一日歩き回った爪先には熱がこもっている。自分の部屋の前に立って、肩に引っかけたかばんの内ポケットに入れた鍵を探った。痛む足を誤魔化すように二度、足踏みする。ポケットを探る指に金属が触れて、それを引っ張り出そうとして――そのまま制止した。ひとりでに開いた自宅のドアに、それまで感じていた足の痛みが遠くへ行って感じられなくなってしまう。高い音をあげてドアが軋んだ。かばんに手を突っこんだまま制止しているわたしを、開いたドアの隙間から見える笑顔が迎える。――どうして。その言葉は喉に張り付いたまま、出てこない。だって、このひとがここにいるなんて、そんな関係はもう終わってしまったはずなのに。
「おかえり」
やわらかな音で紡ぎだされる言葉も、繊細なガラス細工のようなつくりをした表情も、自分の頭の中で少しも色褪せてなんかいなかった。まだ上手に消しきることができていない思い出とこれっぽっちもズレを感じない。
「失くしてた合鍵見つけたから、返しに来たんだ」
玄関先の靴箱の上へ、なめらかな筋の張った指がそっと置かれて、わたしが手に握っているものと同じ銀色の鍵が乗せられる。照明を受けて鈍色の光を放つ鍵は、パンプスを脱ぎ捨てたわたしの鞄をとり上げるこの人の持ち物だった。
このひとは、わたしの恋人だったのだ。そして、それはもう過去の話だ。
平和的破局だった、と思う。荒っぽい言い争いも、どちらかの癇に触れるようなことをしたわけでもない。終始穏やかに話し合いが進んで、別れることになったのだ。お互いがお互いを好きでいることに疲れてしまったから。辰也のことが好きで、どうしようもなく好きで、でもそれをありのままに伝えることができなかった。自分ばかりの気持ちが先行しているようで、いびつにねじ曲がった思考しかできないわたしは、恋人であるのに依然駆け引きをやめることができない関係が次第に息苦しくなって、疲れてしまったのだ。
辰也と付き合っているのに疲れたから、別れたい。そう言ったわたしに、彼は眉を下げて、何も言わずにうなづいた。このひとの優しさに、最後まで甘える形になってしまったけれど、それが別れてからも時たま顔を合わせる要因になっている。
恋人という関係を経て、何もかも知ってしまっている人と過ごすのは、これ以上ないくらいに、居心地が良かった。
「返さなくてもよかった?」
「……いいわけないでしょ」
含んだような笑みにどういう顔を返していいのか分からなくて背けてしまう。複雑な気持ちが渦巻くのは、その笑顔に見覚えがありすぎるからだ。
きれいなままに終止符が打たれてしまった関係は、その瞬間から褪せることのない輝きだけを蓄えている。どうしようもない好きを募らせて止まってしまった記憶はおそろしいほどうつくしい。ふと思い返して、そのあまりの輝きに懐かしさ以上の感情が溢れそうになってしまうくらいに。
リビングに入ると、テレビは賑やかなバラエティを映しだしていて、テーブルには文庫本とコーヒーの入った深緑をしたマグカップが鎮座している。そのマグカップはいつも彼が使っていたそれだし、本を読んでいるのにテレビをつけてしまう癖も何一つ変わっていないようだった。部屋に彼の気配を感じるのは、もう日常ではなくなってしまったというのに、あたりまえみたいにそれを受け入れてしまっている自分もいる。そうやって部屋の中に自分以外の人間がいるという温かみには、どうしたって太刀打ちできないのだ。
「また、テレビつけながら本読んでる」
「落ち着くんだよ。そっちこそ、また足赤くなってる。新しい靴で仕事に行くと、いつもそうじゃないか」
「だって、嬉しくて履きたくなっちゃうんだもん」
「しってる。それで懲りずに明日も履いて行くんだろ」
そうやって、わたしのことを自分がよく知っているみたいなことを言う。そしてそれが悔しいくらいにただしいのだから、どうしようもない。わたしは、まだこの人のものなんじゃないだろうかって、錯覚してしまう。そんなことはただの過去の残像だというのに。
「もしかして、男と会って来たのか?」
たばこのにおいがする。そう言って一瞬だけ距離を縮めて、鼻先が首筋へ寄って来たと思えばたちまち離れていく。案の定ぎょっとしてしまったわたしのことなんて、お構いなしだ。辰也は、とてもきれいな顔のつくりをしていて、いま寄せられた鼻筋は歪みなんて言葉を知らないみたいにまっすぐ伸びているし、どこかの女優顔負けに白い肌はつるりとこおりのように滑らかで、おもわず歯噛みしてしまいたくなる。そしていっとう印象的なのが、その瞳だ。流麗な線を描く縁取りは涼しげなアッシュグレイを際立たせて、いつも吸い込まれそうな心地がしてしまうからあまり長くは見つめていられない。今だって、そうだ。
確かに今日、わたしは仕事を終えて帰宅するまでの間に、男のひとと会っていた。会社の飲み会で知り合った違う部署のひとで、営業部らしくいつも前のめりで情熱に溢れていて、無垢な人。そのひとが吸うたばこのにおいが移ったのだろう、指摘された途端に髪や衣服にまとわりついたにおいが気になってしまう。
――辰也は、たばこを吸わなかった。目が合うとかわいらしく小首をかしげて見せる彼の仕草が、頭の中でフィルムムービーみたいにカタカタと流れてゆく。
あの彼は、辰也みたいに海のにおいのする香水をつけていなかった。少しの汗と、シトラスのにおい。
あの彼は、辰也みたいにスマートな物腰ではなかった。一生懸命さが感じ取れて、目を覆いたくなるくらいにまっすぐだ。
あの彼は、辰也みたいにわたしをだめにする優しさを持ってはいないだろう。へこたれたり投げやりになったら、きっと叱ってくれる人だ。
そんなふうに、彼と過ごしていても頭の片隅には必ず辰也がいるんだってことは、何があっても言ってはいけないのだと思った。
髪を鼻先まで持って行って、煙たさに少し嫌な顔をするわたしの視界に入り込んだ辰也は、アッシュグレイをやわらかい三日月形に変える。何があっても言ってはいけない、けれど、このひとは言えないことも簡単に見透かしてしまえるようなひとだ。だからあまりその目に見つめられたくはないのに、それすら見通しているのだろう。無理やり視界に入りこむ双眸が冷たく光る。
「ほんと、嫌なオトコだなあ」
「そうか? なまえ相手だと、どうもね」
そういう言葉も。あーもうホント、嫌になっちゃう。いっそ清々しくて、笑えてしまった。テーブルに置かれたマグカップを取って、辰也の飲みかけのコーヒーを一口だけ流し込む。苦かった。辰也のコーヒーはなんにも入れないブラックで、わたしのコーヒーは砂糖がひと匙とミルクがたっぷりの、ほとんどカフェオレみたいな液体だってことは、ふたりの約束事だった。
今日はやけに、昔のことを思い出す日だ。それもこれも全部、辰也がこの部屋にいるからで、きっと明日からはまた彼のいない日常に戻ることができる。心地良さの中に滲むノスタルジー。切なさの割合が肥大していくのも、彼が近くにいるからだと目を瞑った。「――もし、付き合うなら、」
「オレよりもいい男じゃないと許さないよ、――なんてね」
「……そんなの、すぐ見つかるよ」
「はは、ひどいな」
ねえわたしは、明日も「あなたよりも」いい男を探して、あなたを頭の片隅で生かしながら呼吸をするの。滑稽かしら?