『与えてやること』が、自分はとても好きだった。それは言葉だったり、品物だったり、目には見えない『情』というものだったりもしたけれど、
自分の恋人となるその人に、何かを与えてやることが、自身の満足にもつながっていたのだ。そしてそれは、性行為に関しても同じであった。
行為の際に、どうすれば女の子が満足するのかも知っていたし、何を言えば女の子が喜ぶのかもわかっていた。
――しかし、彼女に限っては、『こうしてあげたい』ではなく、『こうしてほしい』と望んでいる自分がいることに気がついたのだ。
みょうじなまえという女の子は、特別『そういう』雰囲気を持った人ではない。人を見下すことに快感を覚えたり、性行為に積極的だったりというわけでもない。ただ、オレが彼女の瞳に、勝手にそういう色を見出してしまっただけなのだ。やわらかいのに、その奥は何よりも冷め切っているような目に映ることができたなら、自分はどんなに満たされるのだろうと思ってしまった。そんな勝手なオレの期待を怪訝に感じることなく、彼女は寧ろ応えるように、突き放すような目をしてオレを見る。だから彼女に肩を押された今、自分の思考を埋め尽くすのは戸惑いや驚きではなく、そんな瞳に見つめられることへの予感に震える歓喜だった。
とすん、と軽い音を立ててオレの背はベッドへとぶつかった。それを上から眺めて、目を細める彼女の眼差しに、からだの芯がじわりと熱を帯びる。驚きの声も、文句も、とっさに出てこなかったのは、本当は自分が無理やり組み敷かれたわけではないからだ。彼女の力なんて、いなせないわけがなかったし、自分の瞬発力があれば躱すことだってできたはずだ。それでもこうして彼女のなすがままに組み敷かれているのは、そうなることをずっと心の底で待ち望んでいたからにすぎない。自分が今までに持ったことのなかった考えは、口にすることはもちろん、認めることもできずにいた。けれどずっと、それこそ彼女を好きだと感じたその瞬間から、その何色にも振り分けることのできない虹彩に捕らわれることを、自分は待ち焦がれていたのだ。
「何も言わないんだね、押し倒されてるのに」
「っ、なまえっち…」
興奮と期待で熱くなる顔の横に両肘をついて、体重を移動させるのにしたがってスプリングが沈んで軋む。噎せ返るくらいの艶のある匂いをさせた髪が頬から耳の方へ滑って、蠱惑的に歪むサーモンピンクが脳裏をちらついて、頭をぶん殴られたようなめまいが襲った。鼻先がこすれあうほど近くにいるのに、くちづけをしてはくれない。甘い吐息に頬やくちびるを撫でられて、視界は大きな濃褐色の瞳に侵されて、じゅわっと舌の奥で唾液が溢れてくるのがわかった。
齧り付いてしまいたいくらいにぷっくりと膨れたサーモンピンク。でもオレは、そのサーモンピンクを壊したいのではなく、齧り付かれて、ぐしゃぐしゃに壊されてしまいたかったのだ。ひとりでに荒れる息と、濡れる眼球が示すのは、紛れもない確かな劣情。
「……キス、して」
くちびるが震えるそのままに呟くと、そのことばを聞いて視界いっぱいに広がっていた静かな虹彩がきゅっと細まった。そんな風に彼女が返す全ての反応に緊張が纏わりついて、どくどくと心臓が血液を廻す。目の前にぶら下げられたそれを一刻も早く手にしようともがくのに、それはひらりと宙を舞って、オレの頬を撫で逃げてゆく。だからひざまづいて希うしか、選択肢が見つからないのだ。今すぐに、そのくちづけがほしい。
「……いいよ」
囁かれたと気付いたときには、呼吸が止まっていた。やっと、捕食された。えも言われぬ満足に全身が痺れて固まる。啄ばまれたと思えば噛みつかれて、引き出されては押し込まれて、呼吸も唾液も正常な思考すら、すべて奪い去ってしまうように蓋をされた。そうやって呼吸をする器官を塞がれながら、薄らと瞼を開けたままを保つ。ぼんやり霞む視界いっぱいの双眸は、白くふっくらとした瞼で覆われている。黒く長い睫毛が震えて、それらの奥には、あの虹彩が閉じ込められているのだと思うだけで、息が詰まった。そして永遠にも錯覚してしまうほどのキスの後、ゆったりと濃褐色のそれが現れて、たまらなく心臓が強張る。
「黄瀬くん、目、とろとろだよ」
「だっ…て、なまえっち、ずる…」
「ずるいのは黄瀬くんでしょ、すっごくイヤラシイ顔してる」
浅く息を吐き出しながら彼女は言うけれど、そんなものはお互い様だ。確かに今の自分は頭の中がぼうっと白んで、からだ中の力も抜けてしまって熱だけが這い回っているから、ひどく情欲に滲んだ顔をしているのだろうけれど、彼女には負けていると思う。白い肌を影が覆って、目の下だけが血色に染まって。こめかみに汗で張り付いた髪が筋を作り、赤く腫れた唇は、べっとりとオレの唾液で濡れている。そんな顔を見せつけられるたび、オレのからだは果てがないほどに熱を放って、いちばん敏感なぶぶんが疼くように痛むのだ。
「っう、あ……!」
おもむろに、彼女の指先がその箇所に触れた。びりびりとした痺れが全身を駆け回って、大袈裟なくらいに腰が揺れてしまう。足に跨ったまま起き上がっている彼女を追って、ベッドに肘を立てて身体を起こす。依然見下ろされたままの体制で、優しく微笑む彼女を見るのが厭に心地良かった。手にしているものや行っている行為はひどく淫靡なのに、携える頬笑みがまるで天使みたいにやわらかくて、可笑しな倒錯に襲われて視界がぐらりと揺れる。
「ちょ……待った、」
「どうして?気持ちよくない?」
まずは、といった具合に先のほうを彼女の掌が包みこんで、バラバラに滑るやわらかな五指に背筋が震える。そのまま擦り上げられるように触れてくるものだから、喉の奥からうめき声がこみ上げて、噛みしめ損ねた奥歯の隙間から零れた。――気持ちよくないはずなんてない、ただただ、気持ちいいだけで、気が触れてしまいそうだ。握りしめたシーツには大量の皺が寄って、刺激を与えられるたびに握るちからが強くなり、ぎちっと繊維が切れる音がする。おもわず顎を引いて息を呑みこむと、それを咎めるように指先が伸びてきて、だめ、と顎を掬いあげた。
「……見てて欲しいんでしょ?」
声も出さずに頷いた。完全に、無意識。本能だけが支配しているからだの隅々へ、与えられる刺激の波が行き渡ってゆく。視線を絡ませたまま、行為は続いた。異様で、可笑しくて、それがさらに自分を煽りたてる。自分を見つめる彼女の瞳が冷たい色で瞬くのに、時折愛おしそうに細まるのが、たまらなかった。
オレのぜんぶはその瞳に見透かされていて、それで十分だったけれど、もしかしたらその瞳を通して、彼女の中は自分で一杯なんじゃないだろうかって。彼女に支配続けられた自分に意図せず訪れた彼女を支配している感覚。一層脳がぐらついて、正気でなんかいられない。手だけで愛撫されていたそれに、ゆっくりと彼女のくちびるが寄せられる。支配されることで支配してしまえるような、複雑な感情をもっと与えてほしかった。
――もっとさわって、たべてほしい。