なみだの落下地点

 ざわざわと騒がしい昼休みの教室で、わたしはたったひとり自分の席から動けないでいた。膝の上で右手を覆うように包みこんで、ある箇所を見つめたまま。薬指の根元から突き上げるような痛みがして、その痛みと痛み以上の焦燥とで背中にジワリと汗が浮いて、制服がそれを吸い込んでゆく。どくんどくん、と耳元でやけに大きく血液が循環する音が聞こえた。――どうしよう。
 食堂に行こうと言ってくれたいつものメンバーの誘いには、ちょっと先生に呼ばれているからと嘘をついて断ってしまった。四限のときのわたしの様子を気にかけてくれた男の子にも、なんでもないからと首を振った。だって、誰にも気付かれたら、いけない。ぐるぐると渦を巻く思考回路の副作用で、痛みもどこか遠くへ行ってくれたらよかったのに、それは誤魔化しようのない事実なのだと、じくじくと痛む指が告げていた。大丈夫。このまま我慢していれば、きっと良くなる。そうしたら、人の耳に入ることもない。大丈夫。祈るようにきつく目を瞑ったわたしの肩を、誰かの手が軽くたたいた。瞬間、大きく跳ねたからだに、その人のほうが驚いたような声を上げる。

「おわ、びびった」
「……あ、日向く、ごめん」
「いやいいけどよ、どうしたおまえ、具合悪いのか」

 浅く息をつきながら見上げた彼は、心配そうに眉を寄せている。相変わらず心配性だなあと思うけれど、そうやって言えるような心の余裕はわたしにはなかった。大丈夫、と笑顔を見せると、寄せた眉を更に怪訝そうに顰めて、わたしの言葉を少しも信用していない様子が窺える。

「大丈夫って、おまえなんか体育から帰って来たときから変だっただろ、怪我でもしたのか」

 溜め息交じりの言葉に、普通に呼吸をしていた喉が締めつけられた。ひゅっと大袈裟に空気を呑む音がして、それを見た日向くんが一層訝しげに目を細める。その表情からすぐさま顔を背けると、膝の上にのせた両手に視線が吸いこまれてゆく。左手の指の隙間から見える右手の薬指には、影だけではない暗い色がじわりと滲んでいた。
 教室の隅で静かな掛け合いをするわたしたちには誰も気づかず、ただただ人の声が波になって聞こえてくる。必死で取り繕うとする自分の声はあからさまに震えていて、その波の中で掻き消えてしまいそうだ。

「ちがうの、大丈夫だから」
「なに我慢してんだよ、手、どうかしたのか」

 薬指の第二関節あたりを覆う内出血の跡は、斑点になってその部位の異常を示している。治まる様子を見せない痛みではなく、頭の中をものすごいスピードで駆け巡っていく未来の予感に泣きそうになった。「……突き、指」ほとんど消えそうな声が、くちびるから漏れる。
 三限目の授業だった体育でバレーをしていた際、ふとした拍子に右手の薬指を突き指してしまった。そのときはたいして気にしていなかったのに、授業が終わりに近づいても、授業が終わっても、治まるどころかひどくなる痛みにざわざわとした不安がこみ上げてくる。着替えが終わって目をやったその箇所は青紫色の斑点が滲んでいて、それを見るのが怖くて四限の授業ではペンもろくに握ることが出来なかった。
 でも痛いなんて言えない。突き指したなんて言えなかった。

「突き指?じゃあ早く保健室に」
「っ、やだ……!」

 自分もついていこうとしたのか、保健室に行こうと踵を返そうとした彼の背中を、おもわず零れた掠れ気味の声が引きとめた。

「え、なんでだよ。手当てしねーと良くなるもんも――」
「だって、ピアノが……」

 ふたりの間の呼吸が、一瞬だけ止まる。「……ピアノ?」ふたたび動いた空気の中で首をかしげる彼へ、ぽつり、声を落した。 
 わたしはピアノを弾くことが好きだった。合唱部に伴奏専門の部員として所属しているし、学校の祭典で生徒が歌う際の伴奏をすることもある。そんなわたしに、吹奏楽部から定期演奏会へ協力してほしいという依頼があった。定期演奏会で吹奏楽部がビックバンド風の演奏をすることになって、そのピアノ奏者として参加してほしいというものだ。ピアノはほどんどの場合がひとりで演奏するものであったし、わたしもそういうものだと思っていた。けれどビックバンドでは、大勢の演奏者や様々な楽器との演奏の中に、自分と自分のピアノが入ることができる。それはわたしにとってとてつもなく新鮮で、魅力的なものだった。ピアノは他のほとんどの楽器と違い奏者はひとりで、責任も重大だ。だからこそその奏者として選ばれた喜びは大きく、わたしは胸を躍らせていたのだ。それなのに、指を怪我してしまっては、ピアノを弾くことはできない。だからどうにかして突き指をしたことは隠さなければならなかった。友人や保健教諭にそのことが知られれば、吹奏楽部員に伝わってしまうかもしれないし、そうしたらメンバーから外されてしまうかもしれない。
 それは絶対に嫌だった。
 締めそこなった蛇口から水が滴り落ちるみたいに、自分の口からぽつりぽつりと断続的に言葉がこぼれ落ちる。それを黙って聞いていた彼は、わたしが話し終えると肺の底から大きな溜息を吐きだして、ぐしゃりと握るように髪を撫ぜた。大きなてのひらが触れるあたたかさに、何かがこみ上げてきそうで息を止める。

「……たく、おまえはいつも考えすぎなんだよ」
「だって、せっかく選んでもらったのに、わたし、」
「あーだから、落ち着け」

 行くぞ、と続けざまに言われて、腕を引かれる。無理やり保健室に連れて行かれるのかとからだを固くしたわたしに、日向くんは「バスケ部の部室なら問題ねーだろ」と付け足した。呆気にとられたまま腕を引かれて、昼休みの廊下を行く。何も言わない日向くんにわたしも声をかけることができないまま、彼とその仲間たちがいつも使っているであろう部室の前へ立たされた。見慣れないドアを彼がそっと開くと、少しこもったような汗のにおいと制汗材の残り香が鼻先をかすめる。
 「汚ねーとこで悪いけど」そう言ってわたしをベンチへ座らせると、壁に備え付けてある棚を覗き込んで、日向くんは救急箱らしきものを取り出す。
それを持って、バスケットシューズや雑誌が乱雑に散らばる中を上手に避けてもどって来ると、当然のようにわたしの前に跪いた。テーピングとかそういうものの知識が一切ないわたしが何も言えないのを尻目に、日向くんは救急箱から取り出した白いテープをくるくるとわたしの指へ巻いてゆく。突き指をしてしまった右手薬指の第二関節を挟むように、側面から斜めに固定するように。その慣れた手つきを見て、彼のキャプテンらしさと彼自身のきめ細やかさを見た気がして、すっと胸が暖かくなっていくようだった。テーピングを終えると、指がしっかりと固定されているか確認をして、大丈夫だ、とひとこと言う。
  ――あんまり腫れてねえし、ちゃんと固定して安静にしとけば今は大丈夫だろ。でも帰ったら一応病院行っとけよ。
 そして顔を上げて、視線がかち合う。穏やかな眉間とやわらかな目尻に、呼吸をする期間が一瞬動きを止める。そして言うのだ。

「大丈夫、治るよ」

 まっすぐに見つめられた透明のレンズ越しにある目がとてもやさしい色をしている。口元にたたえた微笑に喉の奥を締め付けられているみたい。息を吸って、吸って、震えながら吐いて、話すと声が震えそうで何度も口を開けて閉じてを繰り返す。そしてやっと言葉に出来たというのに、それは結局震えてしまっていた。

「……ほんと?」
「ホント。大丈夫だから」

 日向くんの『大丈夫』という言葉が、鼓膜を揺らしてじわじわと熱を持って心臓へ降りていく。自分があんなに繰り返し使っていた強がりの『大丈夫』と、日向くんの言う『大丈夫』は同じ言葉とは思えないほどに、その音階は力強く優しかった。――ああ、だいじょうぶだ。「ありがとう、」ほとんど泣き声みたいな声を漏らすわたしのからだの隅々までその心地良い音階が広がって、目からぽろりと、しずくがこぼれる。あんなにまとわりついていた疼くような痛みも、彼の優しさの前では霞んでしまう。

「ほら、もう泣くな」

 涙を止めようと送る電気信号を無視して、こぼれ続ける涙がそっと日向くんのシャツの袖口へ吸い込まれていった。こちらがどきどきしてしまうくらいに優しい仕草は、泣いていることとは違う意味でわたしの頬を染めて、その頬に当たる彼のシャツと、流れ続ける涙の冷たさを際立たせている。

 ――ぽつり。まるで涙が零れ落ちるみたいにひそやかに。恋に、落ちたんだ。
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