オレが彼女を独り占めにしたいのだと言うと、彼は「アツシ、それは恋だよ」と微笑ましげな顔をする。――恋。あの子の視線を釘付けにして、歪む表情を舐めるように見ていたいというこの気持ちが恋なんだとしたら、恋ってやつは酷く自分勝手な感情なのだなと他人事のように思った。
「……オレ、泣かせたくなっちゃうんだよね」
「好きな子はいじめたいみたいなことか?こどもだな、アツシは」
「こどもねえ」
彼には言わないけれど、それはたぶん少し違う。だってこどもは、こんな風に好きな子に触りたいだなんてきっと考えない。逃げようとする手首を白くなるまで握りしめて、自分のからだで追い詰めて、目尻に溜まる涙をくちびるで掬ってあげたいのだ。だからたぶんオレはこどもじゃない。そしてきっと大人でもないだろうから、オレは果たしてヒトの何という部類に分けられるのか、ちっともわからない。もしかしたらヒトですらないのかもしれない。泣き喚いて逃げ惑う彼女をぺろりと平らげて、お腹の中でそっと愛でる。まるで怪獣みたいだ。
――そうだ、オレは怪獣。
怪獣と聞いて、いちばんに脳裏をよぎったのはひとつの歌だった。たしか怪獣のナントカという歌で、題名は思い出せないけれど歌詞はそこそこ覚えていて
ソラで歌えそうだ。砂漠にたった一人で生きる怪獣が、海と愛を求めて住み慣れたそこを出ていく歌。怪獣のくせに女々しいものだと思った記憶もあるし、今でもそう思う。
部活へ向かおうとする彼に、今日は気が向かないから休むという旨を伝えると、「恋煩いもほどほどにな」と苦笑を返されて行ってしまった。どうでもいいけれど、キコクシジョのくせに彼はどうして恋煩いなんて難しい言葉を知っているんだろう。元が日本人なんだからこのくらい当然なのだろうか。ぼんやり思考する自分の頬に、熱を帯びた西日が照りつける。赤く染まった太陽が、木々と建物の中に今にも呑み込まれてしまいそうだ。そう。あの歌の歌い出しも、そんなような歌詞だった。オレは海も愛もいらないけれど、そこにあの子がいるんだったら、どうやって泣かせてやろうかって算段を立てながら、意気揚々と今の居場所を捨てるんだろう。
「……紫原くん?」
おぼろげな声を、鼓膜がすぐさま拾い上げる。椅子の背にぐってりとからだを預けたまま横目に見た視界の端で、たった今まで思考に居座り続けていたまさにその彼女の小さな身体が、おずおずと教室に足を踏み入れるのが見えた。からだの大きさが違うのだから当然なのだけれど、こちらからしてみたら信じられないくらいに細い足が床を滑るようにするすると近寄る。普段はあまり近づいてこないのに、オレが動きを起こさないから安心したのかもしれない。それにしても本当に、蹴飛ばせば簡単に折れてしまうんじゃないだろうか。足だけでなく、彼女は身体の全てのパーツが小さくて、きっと捕まえるのにも苦労はしないのだろう。もし捕まえられたときには、そのちいさな身体と不用意に近づいたその浅はかさを恨むといい。
椅子に座ったまま、彼女を見上げる。あまり見上げるという行為をすることはないけれど、見上げられていても彼女は依然緊張した表情を崩さない。
「……部活じゃないの?」
「んー? サボり」
オレの言葉に何とも言えない顔をするその表情は、オレの嫌いな真面目くさった顔だった。部活や授業をサボるなんて考えが元々彼女にはないのだろうから仕方ない。だけどそもそも、『サボり』ということ自体が嘘なのだから、そんな顔を向けられる筋合もないのだ。サボりなんて、うそ。部活へ行こうと促した彼に言った、気が向かないから休むというのも、うそ。このあと練習には顔を出すつもりでいる。そんなしょうもない嘘をついたのは、自分たちの他に誰もいない教室に、彼女の鞄だけが残っているのに気付いたからだ。彼女の机の横に引っかけられたスクールバックには、中途半端な大きさをしたピンク色のカエルのマスコットがさがっている。なんでカエルがピンク色なんだろう。気持ち悪。
けれどその鞄のおかげで、そのうち彼女が教室へ戻ってくることがわかっていたから、しょうもない嘘を利用して彼女を待ったのだ。特別な用事があったわけではない。けれど、彼女のことを考えて、その顔を見たくなってしまった。それだけでオレにとっては十分な理由になり得た。
見たいと望んだ表情がたとえ、悲壮な表情を欲するものだったとしても。
「ねー、怪獣ってすき?」
突拍子もない質問に、彼女は眉を顰めて怪訝そうな顔をする。意味が分からないのも当然かと思ったけれど、どうでもよかった。質問をしたまま彼女の目を見つめ続けると、気圧されるように視線はそらされて、言葉を選ぶようにして赤いくちびるが震える。
「好きじゃない、かな……大きくて、怖い、し、」
「ふうん。まあなまえちんとろいし、すぐ食われて死んじゃうだろーしね」
今日初めての笑みを送ってやると、大袈裟にその細い肩を跳ねさせた。何も言えなくなってくちびるを噛む表情も、自分を守るように胸の前で握り合った手も、ぜんぶが的を得るようにオレの怪獣の部分をくすぐってゆく。
彼女が言った、『大きくて怖い』のは、オレのことだ。大きいといってもオレはヒトの範囲内だし、火だって吹けやしないけれど、彼女の言う『大きくて怖い』のは、オレも同じ。それに対して、こちらの顔を窺うように細かく視線を向けたり逸らしたりを繰り返す彼女のさまは、まさしく獲物だった。このおんなのこの中で、着実にオレは怪獣に近づく。オレの中の怪獣にこの子は少しずつ気付き始めている。そして自覚をするのだ。自分がその怪獣に狙われる獲物なんじゃないかって。
彼が去り際に言った言葉を思い起こす。『恋煩い』。でもきっとこれはそんな生易しい感情じゃない。これはただの、画策だ。少しずつ恐怖感を植え付けて、それでも害がないようなふりをして、狙いを定めて近づいて、近付いて、捕食するための。だからこれは、『好き』じゃない。こんな自分勝手な感情が恋で、こんな凶暴な思いが『好き』という気持ちなんだとしたら、恋をしている人間はみんな、ヒトの皮を被っただけの怪獣だ。
「じゃあさ、オレのことは?」
そしていつでも、その人に喰らいつく瞬間を待っている。