「黄瀬くん、さつきと喧嘩した?」
心配そうな、気遣わしげな様子で尋ねられた問いは、オレの呼吸を一瞬止めてしまうのに十分な威力を持っていた。部活へ向かおうとするオレを引き止めた彼女と自分の間には、教室の入り口を挟んで張りつめた空気が立ち込めている。――いや、そんなふうに感じているのは自分だけだ、きっと。たまらず胸を破って飛び出してしまいそうな心臓を何とか抑えつけるように、息を吐く。
「……べつに、いつも通りっスよ。桃っちが何か言ってた?」
いつもより作り込んだ笑顔を張り付けてやると、なまえは口を噤んで俯く。オレと桃っちの様子が少し違う気がして、と悲しげに眉をひそめる彼女に何も気にすることはないのだと言い聞かせた。取ってつけたような言葉を信じ込んで、ひとまず安心した様子を見せる彼女に手を振って、背を向ける。その瞬間に張り付けた笑みは消え失せて、喉にへばりつく苦味を無理やり飲み下した。
――言えるわけがない。オレと桃っちのふたりが、きみに恋をしている恋敵だなんて。
自分がなまえを好きだと気付いたのと、彼女がなまえを友人以上のひととして見ていることに気付いたのは、同時だった。なまえを見る自分の目に籠る熱と、同じ熱量の視線を注いでいる姿を目にしたから。彼女たちが同性だという事実があっても、彼女が抱いているのが友愛だなんて生易しい感情ではないことはすぐにわかったし、彼女もオレがなまえに同じ思いを向けていることには気付いているのだろう。
言わなくてもわかる。三人で談笑しているとき、自分となまえが彼女と別れて同じ教室に向かうとき。そのときどきに注がれる視線が、まるでオレの首筋を焼き切るような熱を孕んで視界に鋭く突き刺さるのだから。
その熱を黙って享受するオレは、お返しに同じくらい侮蔑を込めた眼差しを彼女に返しながら、思うのだ。
――桃っちはずるい。オレと同じ気持ちを秘めていながら、いつも彼女の隣で彼女の頬笑みを手に入れる。自分には到底向けられっこない笑顔だ。オレは彼女の手だろうが、髪だろうが、それがどんなにわずかな時間でも、『触れること』がそれだけで意味を持ってしまって、どうしてもそこまで踏み切れない。なのに桃っちは、こわくなるほど簡単にその手に触れる。腕を絡めて、そのからだを抱いて、頬を摺り寄せて。彼女の笑顔を常に近くで見ていられる権利を、触れられる権利を、女だというだけで簡単に手に入れる。桃っちが望めばそれは、永遠の権利だ。
オレは今すぐにでも、そのくちびるに触れてしまいたいのに。
部室の扉を開けると、その先で鮮やかな桃色が視覚を刺激する。それなりの広さをした部屋には、その人しか存在が認められなかった。扉が開く音につられてこちらを向いたまなざしが、オレのものと混じり合うと途端に鋭く細まってゆく。やわらかな瞳の色に、ジワリと暗い影が刺した。
「……おつかれっス、桃っちだけ?」
「うん、きーちゃんが一番乗りとか、めずらしいね」
「たまたまホームルーム早くて」
ロッカーの中に鞄を放り込みながら乾いた笑い声をあげる。やり取りしているようすだけを見れば、これがまさか恋敵の会話とは思わないのだろう。それどころか、少しいい雰囲気をさせた部員とマネージャーに見えるかもしれない。ところがオレたちふたりの間に流れるのは、誤魔化しようもないくらいの圧力を含んだ空気だけだ。それを無理に取り繕うことは、オレも桃っちも、しない。そんな余裕をちらつかせる暇なんて見せられる程度の気持ちではないのだ、お互いに。
「……なまえっちに、桃っちと喧嘩してるのって聞かれちゃった」
言う必要のないことだということは、わかっていた。だからこれは、わざと。浮かべた笑みに反して、空気が外側から凍りついてゆく。しかし彼女はそんな空気を物ともせず、そんなことないのにね、と美しい笑みを返した。その笑顔の中に、優しさだとか穏やかさだとか、そういった慈しみの感情のたぐいはひとつだって含まれてはいないのだけれど。
そんなふうに、自分がこの世で一番かわいそうだと言わんばかりの顔をして、嗤う。――笑い飛ばしてしまいたいのは、オレのほうだというのに。
「きーちゃんはずるいよ」
◆
「きーちゃんはずるいよ」
くちびるから滑り落ちた言葉に色があるとしたら、きっと心臓を切り取ったように真っ赤な色をしているのだろう。目の前の男の子は、まるで自分がこの世で一番かわいそうだと言わんばかりに顔をぐしゃりと歪めた。――泣いてしまいたいのは、わたしのほうだというのに。
彼がなまえに焦げるような思いを向けていることは、知っていた。いつもわたしの隣で微笑むなまえに向けられる熱視線は、彼女の次にわたしを捉える。ふたつのライトブラウンがすぐ隣にシフトするだけでここまで色を変えてしまえることに感心する気持ちすら覚えたものだ。慈しむようで火傷をしてしまいそうに熱を帯びた色と、火花が爆ぜるようにぶつかって立ちこめる威嚇のそれ。前者が向けられるのはもちろん彼女で、後者が向けられるのは自分ただ一人だった。どうせなら自分が彼女と同姓だからと、軽んじてくれればよかった。そうしたら彼の気持ちはその程度だと嘲笑うこともできたのに。確かに恋敵と認識しているのだと思わせる視線をわたしに送ってくる彼のひたむきさに嫌気が差す。
それを視線に乗せて、見つめ返す。精悍な顔つき。高い背丈。男のひとを感じさせる硬いからだ。自分の嫌悪の裏に羨望という感情を見つけて、くちびるを噛んだ。
――きーちゃんはずるい。どんなに近寄っても、触れても、好きだと言っても、わたしでは彼女の心は揺らせない。どんな接触も、どんな言葉も、女のわたしが何をしたとしても、それは何の意味も持たないままやわらかく彼女の中で死んで行ってしまうのだ。なのに彼は、ささやかなわたしの永遠に入りこむ。わたしだけに向かっていた優しい笑顔を取り上げてしまう。どれだけ近くで、どれだけ長い時間、その笑顔を見つめることを許されても、一番近くで一番長い時間それをすることは決してわたしには許されない。
わたしはずうっと、彼女のいちばんのひとでいたいのに。
視界で輝く金色の髪に背を向けて、後ろ手に部室の扉を閉める。そのまま部室から少し行ったところで、名前を呼ばれた。
どんな音よりもひときわクリアな音質で鼓膜を揺らす音の先には、こちらへ駆け寄るなまえの姿がある。
「さつきごめん、今から部活なのに」
「全然大丈夫だよ!どうかした?」
申し訳なさそうに眉を下げる彼女へ差し伸べようとした手が、かわいい朱色のくちびるから紡がれた言葉に制止した。
「……あのね、黄瀬くんにも聞いたんだけど、ふたり、喧嘩とかしてる?」
そんな風に気遣わしげな顔をして吐き出す言葉は、自分と同じように、彼を案じるものだ。自分の横に並ぶ彼の影が、じわじわとわたしの領域を食い殺してゆく。――わたしたち、ふたりだけで十分すてきな友達だったじゃない。友達なんかでは満たされない気持ちを押し殺して、それだけを守ってきたというのに、そこに居座り続けることもできないだなんて、まったく厄介ものに巣食われている。
「そんなことないよ。きーちゃんとは、いつも通り」
自分の口から流れ出る親しげな呼び名にも、反吐が出そうだ。ぬるくあまやかな、わたしたち三人を閉じ込める檻を壊すには、どうしたらいいのだろう。そのくちびるに触れて、愛しているのだと言えばわたしはそこから抜け出すことができるのだろうか。
――そんなの、できるわけがない。その先に、あなたがわたしを選ぶ未来はきっと存在しないもの。