いちばん綺麗な永遠を捨てて

 おもわず吸い込まれてしまいそうに明るい月が空のてっぺんに到達した真夜中だった。空は金色の球体によって黒く染まることを許されない。そんな月に目を奪われることなく、ここ最近すっかり冷たくなってしまった空気から身を守るように毛布にくるまっていた。ただ睡魔に身を任せて、いつものように夢の中で夜の時間を過ごすだけのはずだったのだ。
 どこか遠くからする物音で、意識が微かに浮上する。浅いところで揺らめく意識を覚醒させるように、身を包んでいた毛布が無理やりはがされて、冷たい空気がその隙間から滑り込んだ。そして滑り込んできたのは、夜の冷たい空気だけでなく、その冷たさを全身に纏った柔らかな人の肌とその人を包む衣服の感触。薄く開けた視界には、影に塗りつぶされてもその明るい色を保ったままの絹が見えて、彼が来たのか、と唐突に理解した。なるほど、戸締りをしたはずの玄関からこの部屋に入って、こうして睡眠の邪魔をすることが許される人間は、わたしの中では彼しか存在しない。

「……りょー、た?」
「ごめん、こんな遅くに」

 意識よりも確かに覚醒している聴覚を揺らしたのは、普段より幾分も抑揚のない恋人のものだった。わたしに覆いかぶさるようにからだを跨いで、その腕で出来た特製の檻の中で静かに寝がえりを打つ。ずっと閉じていたせいで暗闇に慣れた目には、その表情がはっきりと目視できた。すっかりといつもの溌溂さを削ぎ落としてしまったような、色のない表情をしている。それに加え先程の抑揚のない声。明らかに普段とは違う空気を醸し出す姿に、「どうしたの」と問うた。たった今まで眠っていたからだは見事に擦れた音を発声する。聞き取れたのかも曖昧なわたしの声には何も指摘はしないまま、彼の口がか細く息を吸った。

「友達がさー、彼女と別れたんだって」

 彼の言う『友達』が誰なのかは分からないし、そのセリフが何を意味するのか要領は得られなかったけれど、かすかに鼻を掠めるアルコールのにおいに今までその友達とお酒を飲んでいたのだということは理解できた。そしてその中で友達の別れ話を聞いたのだろう。徐々に冴えていく自分の脳内で、目の前の恋人はその友達の話に必要以上に感情移入してしまったのかもしれないと思う。黄瀬涼太というヒトは、自分が一定以上に気を許した人間以外はほとんど興味を示さないけれど、その代わり気を許した人間に対しては盲目的に執着してしまう節がある。だから自分の好きな人が喜べば自分のことのように喜んで、悲しめばまるで自分がその渦中にいるように、悲しい気持ちを引き寄せてしまうのだ。
 「自分から振ったらしいんスけどなんかすげーへこんでて。ばかでしょ」乾いた笑みをこぼしながらも、表情は全く笑えていない。無理やり吊り上がった口角を眺めていると、たちまちそれは見る影を失くしてしまう。

「ばかなんだけど、ほんとへこんでて、話聞いてたら、なんかなまえに会いたくなって」

 ばかなのはきみのほうだよ。
 思わず言ってしまいたくなった。人の悲しみを勝手に引き受けて、自分のものに置き換えて、そんなふうに傷ついてしまう。顔も知らないその友達と元彼女を引き合いに出すのはおかしいけれど、人の不幸に感化されて不安がらせる程度の気持ちではないと、胸を張って言える。今みたいに夜中に突然押し掛けられて、無理やり起こされて、知りもしない他人の話をされていても、彼が傷ついているというのなら胸に頭を抱きよせてその髪を撫でてやりたいと思うくらいにわたしは彼に染まってしまっているのだ。
 だから今は、人の悲しみを引き受けた彼の悲しみを、わたしがぜんぶ飲み込んでしまおう。

「オレがもし、なまえを嫌いって言ったり別れたいって言っても、頷いちゃだめだから」
「……うん」
「嘘だから」
「うん」
「ぜったい、だめだから」

 決して反論を許そうとしない言い分の中に、見逃しようのない懇願があった。『うん』と三度目の肯定を返す。彼の不安をこれ以上色濃くさせることがないように。不明瞭な『もしも』を否定して、言葉の上で縛ることが彼の安寧を保つなら、どこまでも縛っていてほしかった。わたしだってそんな彼のことを、たとえどんなに頼まれたとしても、きっともう離してあげられない。
 薄ぼんやりとした暗闇に、煌々とぎんいろの光が射し込んだ。月明かりがやわらかく彼の姿を包み込んで、浮かび上がらせる。そして一際光を集めているのが、ふたつの眼球だった。水の膜が光を吸い込んで揺れる。まるで月を映した水面のようだ。ゆらゆらと揺れる眼球に張り付いた水分の膜が、瞳の淵に溜まって真珠みたいな粒のかたちへかわってゆく。透明のそれは、月の光と、そして彼の瞳の光彩とを水に溶かしたような輝きをたたえていた。
 下の目蓋と睫毛に支えられていたそれは、音もなくこぼれて、目で追う間もなくわたしの頬へぽつり、おちた。

「――あいしてる」

 しずくが落ちる音よりも消え入りそうな音色が空気を揺らす。世界中でたったふたり、かみさまにすら聞こえない、わたしたちにだけ聴こえるように。
 熱を持った目尻にそっと触れると同時に、閉じられた睫毛の先からぱたりとしずくが滴り落ちる。ずいぶんと悲壮な声をしているのに、表情からはなんの感情も読み取ることはできなかった。再び開かれた眼球は、乾くことを知らぬようにうるおいを保ったまま。ひとときも視線を逸らすことなく見つめ合いながら、ひたすら彼の涙を受け続けた。
 月明かりで光る彼の潤んだ瞳にふと、影が射す。目元に金糸が触れた。濡れた睫毛がそっと伏せられて、か細い息を吐く彼のくちびるへ、わたしの呼吸が吸い込まれていった。いつもあたたかい色を溶かしては三日月の形へ変わる瞳に、涙を浮かべさせる言い知れぬ寂寞。それが少しでも軽くなるのなら、わたしの呼吸の最後のひと掬いまで、彼にあげてしまっても構わなかった。
 くちびる同士が静かに重なり合ったあと、滑るように舌先が絡む。アルコールの味が咥内に広がって、それが消えてしまうまで。そんなふうに彼の胸に巣食う悲しみも消してしまえればいいと、強くあつい舌を吸った。隅々まで混じり合ったふたりの唾液を喉へ流し込まれて、喉を鳴らすとまた閉じた目の近くに水の冷たさを感じる。そして気が遠くなるくらいの長い間、わたしたちはくちびるを交わし続けた。

「どこにもいかないで」

 キスを終えると、覆いかぶさっていたからだをベッドに横たえて、力強くわたしを掻き抱く。温まったわたしのからだと冷たい彼のそれが重なり体温を分け合って、ひとつの個体のように同じ温度になる。抱き合ったまま絡められた足に彼のジーンズが擦れる痛みも、今は少しだって気にならなかった。髪に埋めたしゅっと伸びた鼻筋が、シャンプーのにおいをいっぱいに吸い込んで、からだを締めつける力がゆるりと解かれる。
 「なまえ、」どんな音も押しのけてわたしの耳に飛び込む声。ひとつだって聞き逃したりしない。

 ――「朝が来ても、ここにいて」
 耳に届いたか細い声がかき消えると、それは静かな寝息へと変わって行った。

 濡れた彼の頬と髪を輝かせる月は、てっぺんから少し傾いてここから遠くなっている。月がもっと傾いて、遠ざかって、消えていけば、空の全てをうつくしく輝かせる太陽が昇るのだ。世界が目覚めて、たった二人のひそやかな夜が終わる。けれどもしこの夜が明けて、朝が来て、彼の瞳にふたたび涙が浮かぶのなら、わたしは黄金色の朝日も、ピンと張った空気も、小鳥のさえずりさえ、ぜんぶ飲みほして終わらない夜を守ってみせるから。
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