深夜零時のバスタブと甘い溜息

 浴室というのは、ある種の孤城だ。城というには狭すぎる空間でも、浴槽に溜まったぬるめのお湯にからだを沈めたときの心地良さは、わたしだけのお城だと形容しても相違ない。そんな空間に閉じこもる時間は、自分にとって一番の至福だった。
 毎日ピカピカに磨いたたまご色の浴槽の中に半分くらいのお湯を張って、その都度選んだバスオイルを贅沢に使う。そのバスオイルを選ぶのも、毎日の楽しみだ。脱衣所の一番手に取りやすい棚に並んだ透明のビン。揃いの銀色の蓋を被ったそれは、透明から薄黄色、褐色や緑色のものまで、様々な色をした液体が詰まっている。シトラスに、ローズマリー、ココナッツ・グァバ、グリーンティー。効能にもいろいろあるけれど、香りを楽しむ方がわたしは好きだ。それらのにおいで一杯になった浴室に、文庫本や雑誌を持ちこんで、携帯音楽プレーヤーを防水機能の付いたスピーカーにセットして、準備が整う。からだと髪を洗って、すべてを済ませたらゆったりと浴槽に浸かりこんで、胸の前まで蓋を締める。その上で本や雑誌を広げて、1時間・2時間を平気で過ごすのだ。
 おそろしく長い時間をかけながら雑誌のページをめくっていると、脱衣所の方のドアが控えめに開く音が聞こえてくる。

「なまえー?大丈夫っスか?」
「え、なにどうしたの、大丈夫だけど」

 浴室のドア越しに人影が揺らめくのが見える。そこからかけられた声は少しくぐもっていて、人影が落ち着きなくこちらの様子を窺うように動いていた。

「風呂長いから、なんかあったのかと思って」
「あ、ごめんわたし本とか読むからお風呂長いんだ」
「そうなら言ってくれりゃいいのに。沈んでるかと思って心配したんスからねー?」
「ごめんて」

 お風呂が長いのが、わたしにとっての日常で通常運転だったものだから気がつかなかったけれど、他のひとにしてみたら、とんでもなく長風呂なのだ。人を浴槽で沈むような、間抜け呼ばわりした彼がいるときにお風呂に入るのは初めてだったから、彼が驚くのも当たり前だ。無用の心配がこそばゆくて、くすぐったく漏れた声が浴室にぼやんと響く。あまり聞いたことのない、呆れたような声が新鮮で、このままもう少し聞いていたくなった。はあ、と大きく息を吐きだしたドア越しの彼に「ねえ」と呼び掛ける。曇りガラスの向こうの影が、ぴたりと制止した。

「もうちょっとそこにいてよ。なんか今、声聞きたいし」
「……誘ってんスかそれ」
「さあどうでしょう」

 呆れを通り越してさらに低くなった声が込み上げさせる笑みをかみ砕く。「はだかでいるくせによくそういうこと言えるっスね」と続けられたふてくされた声に、ついに笑い声が漏れてしまった。そういったことをすぐ口にしてしまうのは正直デリカシーに欠けると感じるけれど、そんなことを気にもしない気安さが滲んでいる。それをうれしく思ってしまうあたり、わたしの感覚はもう侵食され始めてしまっているのだろう。ドアの向こうの人影が、壁を背にして座りこんだ。こちらの要求を呑んで、しばらくそこにいてくれるらしい。
 のぼせるんじゃないのか、本なんてリビングで読めばいい、というようなお説教にも似た言葉を聞き流しながら、また一枚と雑誌のページをめくる。その見開きのページ片面ずつに現れた、やわらかそうな色を蓄える金髪に、ぬくまってぼんやりとした思考が瞬いた。こんなに薄っぺらい紙の中に、現在進行形で自分の鼓膜をくすぐる声を出すその人と同じ人がいる。その人が載っているのを目的にこの雑誌を買ったのだから当然なのだけれど、実際にこうしてすぐそばに本人の存在を感じながら、別の世界で生きる彼を見るのは未だに慣れない。普段見ている髪型と違って、毛先がくるりと丸まって四方へ跳ねている様子は一層彼の髪の柔らかさを引き立てているし、チャコールグレーでふわふわのカーディガンの袖を手の甲まで引き上げた手で頬杖をついて、こちらへ視線を送る表情はきゅっと胸を締め上げる優しさを滲ませている。
 こんな顔を、紙面を通していろんな人に見せてしまう彼だから、生きる世界が違うのだと後ろ向きになってしまったこともあった。でも、やわらかそうに光を蓄える髪が、実は傷みがちで、お風呂上りのケアに必死になっていること。うつくしく形を整えた表情が、本当は大口を開けて涙が出るくらいまで笑ったり、拗ねたり、耳を赤くして照れるんだってこと。そんな決してかっこいいだけじゃない自分をわたしに見ていてほしいんですって言ってくれたから、今では紙面の彼もただ純粋に彼の一部だと受け止めることができるのだ。
 次のページをめくると、同じく見開きに彼の姿があって、その写真の下部に文字が敷き詰められている。ずらりと並ぶ文字列に目を通してみると、なかなか見過ごすには惜しい内容のようで、ひとりでに口角が吊り上がった。返答を返さなくなったわたしの名前を訝しげに呼ぶ彼を無視して、その文字列を、声でなぞる。

「『あんま経験ないんでよくわかんないですけど』、」
「は、」
「『なぜかその人に執着しちゃって、いろんな顔が見たくて喜んだり自己嫌悪したり、それをずっと繰り返していけるのが、恋かなって』。はは、かっこいー」
「え、ちょっとそれもしかして……」
「『話題の現役高校生モデル黄瀬涼太、リアルな恋愛観を語る』」
「うっわ、ほんとやめて……」

 今日いちばんに辟易とした声を上げた涼太は、きっとドアの向こうで頭を抱えて項垂れているのだろう。姿が見えなくても容易にその様子が想像できて笑ってしまう。本気で嫌がるのは、このインタビューで、この質問で、見るのが他でもないわたしだからだと自意識過剰な確信がある。でもきっと、自意識過剰だなんて彼は言わない。「なまえのこと答えてるようなもんだから、恥ずかしいに決まってんじゃん」なんて、少し怒ったような表情で言うのだろう。

「これ、脚本?」
「ガチっスよ、失礼な」
「へー。じゃ、涼太くんはわたしに執着してるわけですか」
「……そーっスね」
「わたしのいろんな顔が見たいんですか」
「……そうなんじゃないっスか」
「わたしに恋してるわけですか」
「……あーもう、まじでやだ……」

 ドアを一枚隔てているせいで、フィルターをかけたようにくぐもった声が一段と聞きとり辛くなる。予想通り頭を抱えているのだと得意げな気持ちが沸き立って、今にも鼻歌になってしまいそうな笑みが漏れた。そう、彼はわたしに恋をしている。一見、カメラに向かって微笑んで、どんな女の子も手の上でころりと転がせてしまえそうな人。けれどこうやってわたしに背中が震えるような実感を与えて、思ったとおりに揺らされてくれる。そしてわたしは、それにどうしようもなく甘く震わされているのだということは内緒だ。
 紙面上で溶けそうに微笑む彼の姿にお別れを言って、全身でバスタブに沈み込む。あと少ししたら、お風呂を出よう。もちろん彼にはリビングへ行ってもらって。そしてリビングで拗ねたように尖らす彼のくちびるにキスをして、ふわふわのタオルで髪を拭いてくれるように、おねだりするのだ。
 一層温まった浴室に、みずみずしい気持ちに浸った自分の声が反響する。

「わたしもね、涼太に恋してるよ」
「……だから、誘ってんスかそれ」
「さあどうでしょう」

 笑い声と溜め息とを溶かし込んだら、バスオイルよりもずっとあまいにおいがバスタブの中に満ちる。その中に浸かったまま、もういっそふたりで溶けてしまいたい。
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