この世で一番うつくしく言葉を封じる方法を教えよう

 自分はきっと、脊髄の一滴まで、この女に騙されているのだと何ともなしに思った。

 うっそりと細められるまなざしは心臓を握るように息を苦しくして、甘ったるいにおいは鼻腔から全身へ廻る。桜色の爪をつけた指先が、踊るように髪を、肌を、弄ぶ。その指に導かれるように、あちらで翻弄されては、こちらで呆れさせられて。忌々しいくらいの不可解な劣情は、どうしてかこの女から離れることを赦さなくて。
 確かに自分は、この女の纏う何かに毒されている。

「……赤司か」

 ソファに座ったまま眉を下げるなまえの白い首筋には、およそ正気の沙汰とは思えないような痣が遺っていた。赤、どころでなく赤紫と青紫を混ぜ込んだような大きな痣がたったひとつ、首から肩へと流れるラインの真ん中で、存在を主張している。このような行為に及んでしまうのは、おそらく赤い髪をしたあの男しかいない。その名前を口にすると、一層眉を下げて彼女はまた笑った。
 オレはそれを見ないように目を反らしながら溜め息する。この女が形作るもの、生み出すもののすべてが、オレにとっては毒でしかありはしない。

「……湿布でいいか」

 いいか、と聞きながらも、すでに湿布を探そうと動き出したからだを、彼女に腕を取られることで引きとめられた。視界に留まるまっさらなくちびる。口紅の類の何にも染まっていないそれが、一音一音を至極やわらかく紡ぎ出す。そして自分の名前が形どられるその様は、オレの理性だとか、常識を、いとも簡単に突き崩してしまうのだ。

「真太郎くんが、いいな」
「……本当に、しょうのない女なのだよ」

 なまえはどうしてか、赤司や他の彼らと違い、自分のことだけを名前で呼ぶ。オレの名前の響きが好きなのだと、そう言われたことだけは覚えていた。呼び方が違う、たったそれだけのこと。それだけのことに、こうして心を割いてしまっている自分を心底くだらないと思う。けれど、思いがけず与えられた「特別」な音階が、彼女のくちびるから零れだすたびに、オレの正常な思考を沈溺させていく。

 広がる睫毛がこちらを向いて、緩やかに開くくちびるが紡ぐたった七文字。

「真太郎くん」

 鼓膜を弱く震わせながら脳髄を揺らすその音は、その腕を突き放そうとする意志を掻き消して、唐突に眩暈を生むのだ。
 甘えるように持ち上げられた両腕に引き寄せられる。背を曲げてその腕を自分の首へ促すと、まるで蜜のようにとろりと纏わりつく。小さなからだを支えるように持ち上げ、腕に馴染む重さにずくり、と疼く痛みを目の当たりにしてしまわないように一瞬だけ目を閉じた。

 こんなことは、間違っている。それははっきりとわかっている。たったひとりの女に執着しては互いに憎しみや仲間意識を合わせたような感情を持つ自分たちも、その全てを欲して縋る、哀れな女も。こんなことはいけないと、歪んでいるのだと、教えてやらなければならないのに、

「……いつも、ごめんね」
「……迷惑をかけられるだけなら、とっくの昔に放りだしている」

 そしてそれができないほどに、抜け出せなく、なっている。オレの言葉を聞いたまま、無言で首に絡んだ腕をやわく強める結子を、ただしいところまで引っ張り上げてやりたいのに、何がただしいのかすらわからない。こうやって抱き上げて、彼女を運んでやることが許されること。絡ませた腕の先でたおやかに伸びる指先に触れられること。ベットの上にそのからだを降ろす際に響く、スプリングが軋む音に耳鳴りがしてしまうことも。
 何が、いけなくて、何が、ただしいのか?

 からだから手を離しても、緩く首に絡んだ腕が離れる気配はない。絡んだまま、ふたたび引き寄せられて、今度はくちびるが触れる。オレの何もかもを突き崩す言葉を紡ぐ、そのくちびるが、触れる。

「――ちゃんと、捕まえてて」

 この声が、言葉が、形ばかりの言い訳を見えなくしてしまう。この女をどうにかしてやらなければならない。そんな考えを盾にして、都合のいいように騙される。ただしいも、間違いも、どちらでも構わない。彼女の紡ぐ何もかもが、甘く痛むからだの奥を騙しきってくれるのなら、騙されるのも、また悪くはないのだ。
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