Be done for it, daring.

 今日はやけに熱心だな、と眼下の小さな頭をゆっくりと撫ぜた。不可解と感心とか交互にやってきて、ぼんやりとその様子を眺める。しかしいつもより熱心な彼女の愛撫に、そんな余裕はあっという間に奪われて、不可解や感心なんて、余計なことを考えるどころではなくなるのだ。
 はあ、と、吐息とは思えないほど大袈裟に息を吐き出して、少しでも快感を逃がそうと必死になっている。そうでもしないと、うわずったままに情けない声が漏れてしまいそうだ。あとからあとからやってくる刺激に、昇りつめた限界がいまにも壊れそうで、思わず、彼女の名前を呼んだ。

「っ、なまえ、っち、くち、離して…、っ」

 自分の足の間でうずくまる彼女の肩に添えた手に力が微塵もこもっていないことはわかっていた。『離して』と言いながら、自分の言うとおりにはならないことも、なってほしくはないのだということも、ぐずぐずに融けた意識の中で、わかっていた。いつだって、なんだって彼女に好き放題されていたくて、されるがままでいたかったのだ。
 「だいじょうぶ」と、言ったのだろう。くぐもった声がして、予期せぬ舌の動きに肩が跳ねた。素知らぬふりの彼女に、くちが塞がったままで宥めすかされて、閉口。何が大丈夫だというのか。こっちはちっとも、大丈夫じゃない。咥内で次々と湧く唾液を飲み込みながら、蠢く黒い頭頂部を見つめた。あちこちへ乱れた髪のせいで、表情は窺い知れない。
 ――顔が、見たい。時折白み始める意識がついには瞬く。先端に触れる喉奥も、裏側に這う舌先も。なまえが、他でもない自分に、粘膜と粘膜が混じり合う刺激を送る姿を目に焼き付けておきたかったのだ。肩を抑えていた手を、頭部へ伸ばす。汗ばんだ手に触れるのは、汗を吸ってしっとりと重たくなった髪。彼女の表情を見えなくしてしまうそれを耳にかけるようにそっと避けると、白い肌が赤く蒸気している様子が飛び込んで、くらり、眩暈がした。

「んぅ、なまえ……っあ、」

 閉じられた瞼を縁取る睫毛はふるふると震えて、愛らしい朱色で彩られたくちびるはおそろしく似合わないものを含んでいる。その動きにあわせて、一瞬のタイムラグもなく訪れる狂おしいまでの情動。いま視界に広がる圧倒的な光景の中で、自分と彼女が唯一触れ合っているそこから淫猥な水音が漏れ、自分の鼓膜が彼女のかすかな吐息を捉えたことが、決定的な一撃だった。



 力の抜けた手を伸ばして、彼女のくちびるへ押し当てた。人差し指と親指で白く汚れた端を拭ってやる。「ありがとう」と告げられる言葉に苦笑だけを返した。くちびるだけではなく、羽織ったままの制服のシャツにも跳ねてしまっているようだし、逆に申し訳なくて、礼を言われるのは複雑な気分だった。
 小さなくちに、自分よりずっと華奢なからだ。こういう風になったとき、毎回のように思うのは、自分のありったけの欲望を含んだものを、この小さなからだが取り込んでしまうことに対する危惧だった。自身では一度も味わったことのないそれは、決していいものとは言えないだろうから、彼女のからだに悪影響を与えたりしないものかと心配になる。そうでなくても、いつも尽くしてもらっているのは自分なのだ。いつだって、与えられている。
 無視できない引け目を感じて何も言えないでいると、そんな自分の膝のあたりに彼女の頭が寄り添わされ、ふたつのまなこがまっすぐにこちらを見上げた。

「……もっと気持ちよくなってほしいんだけどなあ」
「え、なに言って……」

 瞠目した後に、気の抜けた声がこぼれる。彼女は思案気味に見つめてくるけれど、要領を得ない言葉に何回もそれを反復した。こちらが彼女のからだを気遣っているのなんかお構いなしに、『もっと』と、彼女は今以上を求めてくる。そのうえそれは『もっと』オレを満たしたいという言葉で、たったいま丹念に満たされたばかりのこちらとしては、ぐうの音も出なくなってしまう。今で十分いっぱいいっぱいにされているのに、これ以上どうされてしまうというのだろう。目が回りそうな心地がして、背を丸めた。額を突き合わせるように近づいた、顔と顔。彼女が首を伸びあげればくちびるが触れてしまいそうだ。けれど、キスを期待して見つめるオレに返されたのは、恭しいくちづけではなく、至極真面目そうな眼差しだった。

「ぐぐったりして勉強してるから、もうちょっと待ってて」
「勉強って……」

 どこかズレたところで意気込む彼女は、献身的なのかそれとも意地が悪いのか。二の句が継げずに視線だけを返した。その『勉強』がどんなものなのかは知る由もないが、その後に得られるのはオレを追い詰めて意識を甘く霞ませる方法なのだろう。それらを実践する自分と彼女を無意識に想像してしまって、かすかに腰が疼く。うわ、もう、どうしてくれる。オレは彼女が与えてくれる快感にとことん弱い。
 『待ってて』と言われても、素直に『待ってる』なんて言えるはずもないのだが、からだはこうして正直に反応をする。なまえに今以上に与えられることを自分でも待ち望んでいるのだと、思い知らされてたまらず羞恥が湧きあがった。かーっと顔に血が昇って、耳の先までが熱い。それを見られたくなくて、俯いて前髪をいそいそと掻き集めたというのに、彼女は「顔真っ赤だね」と小鳥がさえずるように笑うのだ。そして無理に顔を覗き込むことはせず、優しく眼前を覆う前髪の上からキスをする。くちびるにはしてはくれないくせに、卑怯だ。でもそんな軽やかな所作ひとつで、いとも簡単に心臓が高鳴ってしまう自分をきっと見透かされている。
 この子はオレを追い詰めるのも上手いけれど、同じくらい甘やかすのも上手い。

「……ていうか、そんなこと思ってくれてるとか、意外っス」
「どうして?」
「いや……なまえっちは、こういうの、仕方なく付き合ってくれてるもんと思ってたから…」

 追い詰めることに献身的だなんて、そもそもが可笑しな話だけれど、事実彼女は『そういう』ふうにしてほしいというオレの欲望を律儀に叶えてくれている。オレはそれで十分満足だったけれど、彼女にとってこれは、『させられている』ことに過ぎないのだと思っていた。ふつうなら女の子は恋人の腕に抱かれて、愛されることを望むのではないのだろうか。与えることが好きだった自分自身の経験則はそう告げるし、しばしばオーソドックスな行為にもつれ込むときも嫌な顔をされたことはないと断言できる。
 だから今みたいに、一方的にオレが尽くされているだけの行為に、彼女の満足は存在しないのだと思っていた。けれど彼女は、一生懸命にオレを満たそうと、文字通りあらゆる手を尽くす。弱弱しく吐き出されるオレの弱音にも、何色にも振り分けられない、あの虹彩を向けるのだ。

「そんなわけないよ。黄瀬くんのこと好きだし、だからわたしがいちばん気持ちよくしてあげたくって、」

 顎を引いて上目気味に見つめる自分の視線と、まっすぐに見つめる彼女の視線をまじり合わせながら、心臓が激しく収縮したのを感じた。行為のときは当り前のように、ただ自分が与えられて、満たされて、彼女以外のことを考える隙をすべて食いつぶされてしまうのに、言葉でだって簡単に翻弄されて、こうしてどうしようもない気持ちにさせられる。
 ――『自分がいちばん気持ちよくしてあげたい』とか、なんなの。鼓膜から入った言葉が全身を廻って、肌が粟立つ。『いちばん』なんて、そんなの。情けなくて恥ずかしいことだとわかっていても、与えてほしがったり好き放題されていたいと願ってしまうのはその相手が彼女だからだ。自分の奥底で燻る欲望を引き出して、晒してしまえるのも、彼女だけだ。オレ自身がいちばんに実感している。震えるくらいの、オレの唯一。

「……なまえっちとするのが、その、イチバン気持ちいい」

 腕を引き上げて彼女のからだをベッドへ移す。自分の掌に馴染んでゆく肌の感触は、与えられるだけでは決して得られないもの。そしてそのからだを腕に抱くだけで、目の奥が熱くなるくらいに満たされるのは、なまえに対して向けられる自分の中のひときわ尊い部分、愛情ってやつの仕業なのだろう。いまオレの全身を廻るのは、自分の燻る熱じゃなく彼女のぬくもりだ。

「だから、……もういっかい、ダメ、っスか」

 彼女に与えられて、満たされるのと同じくらい与えてやりたい。満たしてやりたい。
 組み伏せられているのは彼女で、押さえつけているのはオレのほうだというのに、浮かべられる頬笑みのせいで自分のほうが追い詰められているような心地がした。支配しようと勇むオレを尻目に、軽々とこちらを支配してしまう彼女にこれ以上何も言わせてはならない。それならばくちびるを塞いでしまえ。そして大人しく食べられてはくれないだろうかとくちびるに噛みついた。熱っぽい自分の溜め息と反対に、塞いだくちびるから漏れるのはくすぐったそうな笑みで、どうせ最後にはその微笑みに食べられてしまうのだろうと予見する。食いついても、食らわれても、結局支配されるのは自分だ。――それでも、いい。そんな自分のあられもない被支配欲から目を逸らそうと、きつく瞑った。

 ――ああ、抗えない。
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