気ままなプリマの為すがまま

 年上の女の人とは、もっと余裕にあふれたものなのだと思っていた。落ち着いて、こちらを波立たせるような突拍子もないことは言わない。理路整然とした、理性的なものなのだと思っていたのだ。けれどソファに座る自分の上にはしたなく跨って、計算しているのか知れない上目遣いを駆使するこの女は、そんなものとは縁遠い。

「なまえさん、退いてください」
「やだよ。真太郎くんが構ってくれなくちゃ」

 纏わりつく熱いからだから意識遠ざけるためにわざと溜息をつくと、かたちの整った眉が悲しげに寄せられて、緑間は早くも二度目の溜息をつくことになる。構ってくれなくちゃ、だなんて、よく言えたものだ。読書に勤しんでいた緑間の手から本を奪い取ったと思えばぽいと机へ放って、その行く先を知ろうとする間もなく膝の上へ跨ってくる。そこが本来の置き場であるというように首へ腕を回されては、構う以外の選択肢などなくなってしまうというのに。

「子供みたいなことを言うのはやめたらどうですか。いい大人でしょう」

 緑間がツンと冷たく突き放すと、目の前の眉間のしわが瞬く間に消える。なまえが連れ込んだ沈黙に耐えながら、自分の言動と表情を失くたなまえの様子とを脳内で並べて、一段と深い溜息を吐いた。
 なまえは、『大人』という言葉が嫌いだ。そして特に、緑間の口からなまえへ告げられるその言葉が、一等嫌いだった。それは緑間となまえの間に確かに存在する『年の差』を疎ましく思うからかもしれないし、単に緑間より幾つも上の自分の年齢に触れられたくないからかもしれない。わからないけれど、どちらにしろ緑間にとってそれは大した問題ではないのだから、なまえがそうやって気にすることが理解できなかった。だからこそ思うのだ。――面倒なことになった。

「どうせおばさんだと思ってるんでしょ」
「違います」
「周りにいる若い子のほうがいいって」
「思ってません」
「真太郎くんなんか嫌い」
「違うと言っているのだよ」

 想像した通りの噛み合わない会話の応酬に思わず口調を強めると、なまえは一瞬キョトンとした顔をして、「なのだよー」と意味のわからないことを言いながら首筋に顔を埋めた。くすくすという笑みの振動が伝わって、緑間は不機嫌そうに眉を寄せる。敬語を崩すと、いつもこうだ。口癖をからかわれて、それがなんだかくすぐったくて気分がよくない。
 なまえは緑間が敬語を崩す瞬間が好きだった。自分は年下だからと、頑なに敬語を失くそうとしない緑間が、ふいに素のままの口調になる瞬間が、より一層自分を引き寄せてくれているようでうれしいのだ。そうとは知らない緑間は、思いがけずなまえの機嫌をとったことに気付かずに、からかわれたと顔を顰めている。なまえの含み笑いが甘いものばかりを含んでいて、不機嫌になりきれないことがいちばん腹立たしい。
 彼女のおかげでこちらは眉間に皺を刻んでいるというのに、なまえはすっかり機嫌を良くしたらしく首筋に鼻先を摺り寄せてくる。先程まで『嫌い』などと言っていたくせに、耳の下に近づいたくちびるは小気味いいリップ音を落しながら隙間なく降り注いで、緑間はくらりと揺れる額に手をやった。そんな緑間を尻目に続く、可愛らしくじゃれつくキスがやんだ。その一瞬のあと、ぬらりと這わされた粘膜の感触にからだが過敏な反応を示す。――この女。緑間は奥歯を噛みしめる。

「高校生にはできないようなこと、してあげるね」

 酷く頭が悪そうで尚且つ淫猥なことをのたまいながら、たおやかに伸びる指が緑間の眼鏡へ伸びる。眼鏡が外される感覚を黙って受け入れれば、至極幸せそうに笑うものだから、呆れた言葉も叱咤も出てこなくなってしまう。理由は、文字通りくちびるを塞がれてしまったこととそれから、なまえに抗う術を端から持っていないこと。腰元をなぞり上げる手付きに息を詰まらせながら、緑間は目を閉じる。
 怒ったり悲しんだり笑ったり、忙しい人だ。けれど自分も、この人に振り回されて呆れさせられて、結局絆されるのに忙しいのだから、なにも言えない。そんな風になにも言えない、自分よりいくつも大きなからだの男に跨って、あやすような口付けを繰り返しながら躊躇なくシャツの中に手を突っ込むなんて芸当、確かに自分と同世代の女性には到底できない。その男が思い切り眉間に皺を寄せているならなおさら。

 けれどそんなことを簡単にやってのけてしまうなまえのことを、緑間は単なる『年上の女の人』だけでは片づけられないでいた。事実として、なまえは緑間よりも年が上なのだから、緑間の年上カテゴリーの中になまえは含まれている。でも、それではいけなかった。他にも、『女性』とか『突拍子もない』とか、様々なカテゴリーに彼女は名を連ねてはいたけれど、そんな枠の中に、自分の中のなまえというひとは収まってはくれなかったのだ。こうして恋人同士でいることだって、なまえが『年上の女の人』だからというだけでは片づかない。他の年上の人でもよかったのか?もっと魅力的な人だったら?そんなふうに比較することもままならない。突然現れたイレギュラー。
 指先でひとつひとつ外されていくシャツのボタンと同じように、ほぐされていく自分の『オトコ』の部分にわけのわからない苛立ちが湧く。舌打ちをしたかったのに、その自分の口の中で蠢くなまえの舌に絡め取られて、緑間は心の中でここぞとばかりに悪態をついた。

「キス、じょーずになったね、わたしのおかげ?」
「……うるさい」
「真太郎くんのキスが上手だって、わたし以外の誰にも教えないで」

 自分よりいくつも大人の彼女の、自分よりずっとあからさまな子供染みた独占欲。隠す様子すら見せないストレートな欲望に、目の前がチカチカと瞬いた。こんな風に、こちらを波立たせることばかりして、何がしたい。何を言えばいいのか、分からなくなるだろう。

 緑間は、自分が予期できないことは嫌いだった。きちんと整理整頓して、順序立てられた思考を役に立たなくされて、対処のしようがなくなってしまうから。けれどなまえは違った。することなすこと予想外なことばかりで、せっかくの理屈もぐちゃぐちゃで手に負えない。なのにちっとも手離す気にはならないのだ。悔しいことに、確かに翻弄されている。でもそれは自分がなまえの掌の上で踊らされているのとは違っているように思う。踊っているのは彼女で、自分は見ているだけ。勝手にくるくる回っているのなんて放っておけばいいはずなのに、どうしてかそれが出来ない。悲しい顔をしていないか、どこか違う――自分ではない人のところへよろけたりしないか、しっかりと目を凝らしていなければ休まらないのだ。
 凭れているソファの背から、少しずつ背中がずれ落ちてゆく。肘置きのほうへゆっくりと。キスを繰り返して、シャツを肌蹴させて、やわらかい手でその先の素肌を堪能して、ついには緑間を横たわらせようとするのだ。彼女の腰元へ回しただけの自分の手とは対照的に動き回るなまえの手がベルトへ伸びる。耳をつく金属音に背筋を甘い波が襲った。部屋の照明を背に受けて逆光になりながら、微笑むなまえの表情はとても欲深く美しいおんなの顔をしている。

「きもちいーね?真太郎くん」

 恍惚として告げられる忌々しいくらいの事実に、睨みかえすことでしか肯定できないで。なまえの力をただ需要して、緑間はソファに沈み込んでいった。理性や理屈なんて、ふたりが混じり合うことに不必要なものはなまえの手ですでに握り潰されてしまっている。
 もう、抗う術も、理由もない。緑間は乗りかかる彼女の背に手を滑らせ、目を閉じた。
 幕引き――暗転。この先はもう、ことばにならない。
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