ハリボテ紳士

 『お付き合い』というものが、はじめてだった。自分が男女交際というものをすることについては、いつかは経験してみたいという程度の願望だったにしても想定はしていた。けれどその相手が、極端に存在感が薄く、掴みどころのない人だということは、想定外の出来事だった。もちろんわたしは彼のことが好きだし、お付き合いができていることを幸せに思う。ただそれとは別に、黒子テツヤというひとが、恋愛だとか男女交際だとか、そういうものに興味を持つということがなんとなく意外な気がしていたのだ。曲がりなりにも彼の恋人であるわたしが言うのにはおかしなことだとわかってはいるけれど。
 そんな彼の印象は、傍から見てもわたしと同意見のようで、彼の相棒であるクラスメイトの男の子から、「黒子と付き合うってどんな感じなんだ?」と聞かれたこともあった。その問いにわたしが何と答えたかといえば、「うーん……ふつう? だよ?」とひどく曖昧なものだった。どんな感じかと聞かれても、男女交際自体が初めてのわたしには、誰かと比べてどうであるなんて答えることはできないし、彼と過ごしてきて特別おかしく思ったこともないのだから、わたしの答えた『ふつう』は間違ってはいないのだろう。
 特別ではない代わりに、安心できた。気持ちが安らいだ。けれどわたしの周りにいる女友達は、それでは済ませてくれなかったのだ。

「キスしたり、そういう雰囲気になったこと、ないの?」

 目からうろこ、だった。わたしと彼の名誉のために言っておきたいのだけれど、手を繋いだり、腕の中に入れてくれたり、くちびるを重ねたことは幾度もある。やさしくくちびるを合わせる行為は、気恥かしいけれどとても満たされた気持ちになるし、なによりキスを終えた後の彼の表情がとても好きだった。普段笑うときよりも、さらに細められた瞳で、笑みを噛みしめるようにして微笑む。あまり顔色を変えることのない彼が、このときばかりはかすかに頬を紅色に染めるのだ。それを作り出せる行為にこれ以上ない満足をおぼえていたわたしは、唐突に『その先』を示唆されて思考回路を固めてしまった。
 そしてまたあの疑問に辿り着くのだ。黒子くんは恋愛とか男女交際とか、――そういう行為に興味を持つのだろうか。
 そんなことを考えてしまっていたタイミング。間が、悪かった。

「なまえさん、制服の下に何か着てますか?」

 週に一度だけある部活のない放課後、彼の部屋で課題を片付けていたときのこと。頭の片隅でぼんやりさきほどのことを思案しながら、サインカーブに手をこまねいているとき、投げかけられた問いにサインカーブは思考の彼方へ飛んで行ってしまい、握っていたシャープペンシルすら手からすり抜けてテーブルの上へ転がってしまった。声も出ないまま顔を上げると、ジャックと豆の木の英文訳をしていた先程までと寸分たがわぬ顔色でこちらを見つめている彼の視線とかち合う。なんの焦りや動揺のないその顔を見ていると、今の言葉はわたしの耳が引き起こした空耳なのではと思ってしまう。むしろそうだったらどんなにいいか。けれど彼は、目を限界まで開いただけでなにも言えずにいるわたしへ向かって、もう一度淡い色をしたくちびるで息を吸うのだ。

「まさか、下着だけですか?」

 今度もすぐに声は出なかったけれど、その前に手が動いた。制服であるセーラー服の胸当て部分を握りしめて、無意識のうちに口が開閉する。じんわりと熱を放ちはじめる頬の熱さを感じながら、絞り出すように何とか声を発した。

「……っ、キャミソール、着てる……」
「そうですか。でも、もっと襟の浅いものを着てほしいです」

 続けて、「制服の隙間から何も見えないと、ちょっと、びっくりしてしまいます」と肩を竦められて、胸当ての布を握る手に力がこもる。課題のために机へ向かっているとき、姿勢はどうしても前屈みになってしまう。きっとそのときに広がる胸当ての隙間に目を留められたのだろう。いつも教室で授業を受けているときは他の人と向かい合うことなんてないし、こうして向かい合うことがあるのは大抵は女の子なのだから、指摘されないのも当たり前だ。そんなことを気にさせてしまったことに申し訳なさと気恥かしさ、それから、だらしないと思われてはいないかという不安がたちこめる。

「……ご、めんなさい」
「いえ、気を付けてくださいね」

 けれどそれは杞憂だったようで、小さな声で謝ったわたしの頭を、さらりさらりと二度、彼の手が撫でて行った。大きな丸い目がゆったりと細まって、その柔らかさに安心して無意識に深い息を吐いてしまう。そしてやっぱり、と思った。黒子くんがいくら掴みどころがない人だといっても、ごく普通の男の子だ。女の子の際どいところを見てしまえばぎょっとするし、意識してしまうのだろう。今の出来事はとても心臓に悪かったけれど、その相手がわたしで良かったと素直に思う。男の子の生理的な現象だとしても、他の女の子が相手だったなら、やっぱり自分は傷ついてしまうだろうから。
 そんなふうに自分の彼への思いを再確認して、さらにああいったことを優しく指摘できる彼の紳士的な部分を見つけて、少しだけ舞いあがっていた。だから黒子くんの柔らかい頬笑みに笑い返すようにして、思わず言ってしまったのだ。

「黒子くんも、やっぱりそういうの気になるんだね?あんまり興味ないと思ってた」

 安心しきった、間抜けな顔をしているのだろうと自分でも自覚はあった。そんなわたしをよそに、いつもはあまり表情を変えない彼が、二転三転と表情を変える。それまでのやわらかく微笑んだ顔から、まんまるの目を見開いたきょとんとした顔へ、それから一気に表情を失くして、考え込むように口元へ拳を寄せる。そして最後、口角を薄らつり上げて、およそ黒子くんがしそうにない不敵な表情を見せて、今度はわたしのほうの表情が一瞬にしてなくなってしまった。
 彼の瞳には、今まで一度だった見たことのないような、意地の悪い光が瞬いていたのだから。



 きちんと整理整頓された、余計なものがほとんど見当たらない黒子くんらしい部屋。机の上にはふたり分のワークとペンケースがきっちりと鎮座していて、
わたしのシャープペンシルだけがぽいと投げ捨てられたかのように所在なさ気に転がっている。そんなありふれた部屋の一角で、どうしたことかわたしはベッドを背にして追い詰められてしまっていた。かろうじて上半身をベッドに支えられて、ほとんど床に寝そべるような格好をしている。展開に着いていけないわたしは、床に投げ出された両足を跨いで鼻先が触れ合ってしまいそうな距離でこちらを見つめる彼の目を、一瞬だって見れそうになかった。
 どうしてこんなことになってしまったのか、わたしには皆目見当もつかない。

 先程のわたしと言葉を聞いてすごく悪い顔をしたと思えば、彼はその場からすっと立ち上がり、こちらへ詰め寄って来た。その身に纏う、ものを言わせない雰囲気に呑まれて、あれよあれよという間に逃げ場を失くした。そのまま、四つん這いになりながら距離を失くす彼の名前を最後まで呼ぶことなく、呼吸はそのくちびるに奪われたのだ。はにかみを浮かべてしまえるようなキスではなく、くちびるとくちびるの間に熱い吐息をくぐらせるような、キスだった。
 お互いの唾液にまみれたくちびるが重なって、ほとんど合わさったままで向きを変え、強く吸って、文字にするには難しいほどの濡れた音が鳴る。黒子くんのくちびるから零れているとは思えないほどの熱を孕んだ吐息が、微かに離れた隙間から私のくちびるに降りかかるのだ。あたまがまわらない。
 必死に息継ぎを繰り返すわたしを尻目に、彼は「ボクだって、おとこですから」なんて言葉を口にする。そんな少女漫画で使い古された言葉も、彼のくちびるから紡がれたのならそれはすぐに甘い疼きとなって背筋をたちのぼる。ぴとりと吸いつくように触れられた指の冷たさに、からだが跳ねた。

「見くびられてるのかと思って、ちょっとむかっとしました」
「ごめ、そんなつもりじゃなくて、」

 わたしが下手な弁解をする間にも、頬をなぞる彼の冷たい指は顎の輪郭から喉のへこみを通辿って、鎖骨の真ん中のくぼみへ達する。それでもなお、止まらない。

 ――うわ、うそ、

 目の前が激しく瞬くわたしの鼓膜に、今にも暴れ出しそうな心臓をさらに脅かす音が響く。プチ、プチリ。彼の手で、胸当てからセーラー服の前を繋ぐスナップボタンが外されてゆく。火照ったそこが外気に晒されて、黒いキャミソールと皮膚の下で脈打つ心臓がこれ以上ないくらいに収縮をした。相変わらずわたしの肌の上をなぞる人差し指は、キャミソールのU字のいちばん深い部分に指先をひっかけてなお、下がる。おもわず喉が引くつくような声を出してしまったところで、ようやく指が止まった。下着のフロントに触れるか触れないか、というところに指を突き刺したまま、眼前の黒子くんは息を吐き出す。笑みを含んだような吐息だ。

「……ここに触りたいって、ずっと思ってるんですよ」

 おそるおそる上げた視線の先にある彼の表情は、とても穏やかだった。一方で、到底穏やかとはいえないわたしの心臓は、収縮するたびにわずかに彼の指を押し上げる。
 黒子くんの言う『ここ』が、いま指を突き立てられているその箇所を指しているのではないということは、いくら頭が混乱しているといったって、わかっていた。わからずにはいられなかった。この指が触れる肌の、キャミソールも下着もないその下の全てへ触れたいのだということは、生まれる熱と、絡む視線と、たたえる笑みだけが十分に告げている。けれどそれを許容してしまえるだけの勇気と覚悟が今のわたしにあるかと問われれば、なにも言えずに黙り込んでしまう。

「……いやですか?」
「いやとかじゃ、なくて、ええと、」

 煮え切らない返事をしてしまって、言ったそばから後悔が始まる。いやなわけではないし、黒子くんが嫌いなわけでもない。そんなことは絶対にないのだけれど、それでも。様々な言い訳をして、「でも」「だけど」を繰り返す。情けないわたしを見て、優しい黒子くんと言えど呆れたり幻滅したり、それどころか悲しんだりしているんじゃないだろうか。そんな不安と、未知の行為への恐怖、踏み込めない不甲斐なさが綯い交ぜになる。ふたたび俯いてしまったわたしのつむじのあたりで、「…っふ、」と笑みを含んだ吐息が零された。それは先程の優しく穏やかなものとは少し違う。やわらかさは同じでも、今度のそれには明らかな『可笑しさ』が含まれていた。
 目を白黒させるわたしの視界から、ゆったりと彼の水色の髪の毛が消える。胸元の肌へ、毛先がくすぐる感覚が降りた。

 ――ちゅ

 今の今まで彼の指先が乗っていた、その部分。その箇所にふんわりとしたついばみがひとつ落ちた。そして突然の戯れに呼吸を止めてしまったわたしの、暴かれた制服の前を黒子くんの手が掻き合わせる。合わされた制服の端と端をわたしの手に握らせて、その上からきゅっと彼の掌が被された。

「もったいないので、また今度にとっておきますね」

 そう言って、握られた手がそっと離される。彼の熱を失い、冷めていく体温を感じながら、黒子くんはわたしに猶予を与えてくれたのだと気付いた。突然の振る舞いへの戸惑いと、気遣わせてしまったという自分への情けなさで、からだを抱くように縮こまったまま、なにも言うことができない。わたしが引き起こした沈黙がふたりの間に落ちて、その沈黙を解きほぐすように彼は言葉を続けた。「……ボクのほうこそ、」釣られるように見上げた先では、目を覆うようにかぶさった前髪の奥で、いつものやわらかい光が垣間見える。

「いつも安心しきった顔をされるので、恋人と思われてないんじゃないかと思ってました」
「うそ、そんなこと……」
「はい。だから、そういう顔が見たかったんです」

 眉を下げて微笑まれては、それ以上言い訳を重ねることはできなかった。彼の言う「そういう顔」がどんな顔なのかも、知る由はない。彼のそばにいることで、自分が安心しきっていたことは事実だった。居心地の良さと大きな包容力に、わたしはすっかり身を任せてしまっていたのだ。抱きしめることも口付けもしているというのに、恋人であるという意識を疑われることには少なからずショックを受けたけれど、いま黒子くんが満足そうな顔をしているのだから、あっさり水に流してしまえる。きっと彼だって、わたしが彼に対して安心安全のレッテルを張り付けてしまったことは水に流してくれているのだろう。
 やわらかく細められた瞳で、頬が微かに紅色に染まっている。わたしのいちばん好きな表情だ。けれどそこにはたしかに、今までには見つけられなかった意地の悪い、こちらを翻弄するような色が滲んでいて、たちまち耳の先までが燃えるように熱くなる。
 極端に存在感の薄い、掴みどころのない人とのごく『ふつうの』お付き合い。そうだったはずなのに、もう胸を張ってふつうだなんて言えなくなってしまった。頬にかかったわたしの髪をそっと耳へかけながら、するりと火照った頬を撫でていってしまうようなこの人のそばで、安心している暇なんてきっとそうそうないのだから。

「もっとボクを意識して、かわいい顔をして見せてくださいね」
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