make (me) up xxx.

「やぎちゃん」

 大学郊内で偶然姿を見かけたなまえは、そんな呼び名で声をかけられていた。苗字とも名前とも、本名にこれっぽっちもかすっていない名前を呼ばれて、当然のように振り返るなまえ。その様子はあまりに自然で、彼女の本名を知る人間以外が見れば気にも止まらないようなありふれたやり取りだったのだ。
 なまえの所属しているゼミは、生徒同士が大層仲が良いことで有名だ。先輩後輩にも堅苦しい垣根はなく、夏にはキャンプに出掛けたり頻繁に飲み会が開催されたり、ほとんどサークルと化しているらしい。そのゼミがどうしたのかと聞かれれば、彼女の『やぎちゃん』というニックネームの域を越えた呼び名は、そこの連中によって付けられたというのだ。摩訶不思議なニックネームにしては理由は単純。彼女がヤギに似ているからだという。人の彼女を捕まえてヤギに似ているとは何事かと思わずにはいられなかったが、なまえが語尾を伸ばすときに喉が震えるところは確かにヤギの鳴き声に似ている。肯定するのはなんとなく悔しいので、絶対に言ってやらないが。
 自分の全く知らないひと達に、聞き覚えのない呼び名で呼ばれるなまえを見るのは、どこか釈然としない。自分とは異なる居場所を見せつけられているような気がして、胃がぐらぐらと煮えたぎる錯覚が身体に良くないことは請け合いだ。後輩らしき男が『やぎちゃん先輩』なんて言ってかわいい後輩を気取っているのを目にしたときには、本当にどうかしてやろうかと思った。彼女は、ヤギでもなければ羊でもない、間違いなくこの黄瀬涼太の恋人であるみょうじなまえだ。勝手に妙な呼び名を命名されるのは気分がよくない。そしてその呼び名が自分の名前であるかのように振る舞い、満更でもない顔をするなまえにふつふつと不満が込み上げてきてしまうのも仕方がないことだった。
 単なるニックネームひとつで目くじらをたてるのも可笑しなことだという自覚はある。半ばネタみたいなニックネームなんて、そこそこの教養はありながらその場のノリだけで呼吸をしている大学生には付き物だ。だからこんな風に心を荒ませる必要などありはしないのに、なまえを特別視してやまない自分には、たったそれだけのことが面白くなくてたまらないのだった。

 他人が紡ぐ彼女の名前ひとつで、オレは矮小でつまらない男に仕立て上げられる。
 これが恋の副作用なのだとしたら、この恋は自分のとんでもなく奥深くまで根を張っているということなのだろう。



「……また飲み会スか」

 質よりもデザイン性を重視したちゃちな造りのガラステーブルにスタンドミラーと化粧品の類を広げるなまえに向かって呟いた声は、慌てて取り消したくなるほどにふて腐れていた。テーブルの上を物色しながら片手間にオレの話を聞くなまえは、鏡から目を離そうとはしない。その態度にますます不満は募り、無意識のうちに突き出したくちびるを隠そうと優しいアイボリーの色をしたクッションを抱き寄せた。んー、と、yesともnoとも取れる曖昧な返事をする声は語尾が震えていて例のニックネームの由来であるヤギの鳴き声のようだったけれど、今の自分にそれは火に油だ。腕に抱いたクッションが二つ折りにされてしまいそうなくらいに込められた力が自分の不機嫌を無言で示している。

「先週もだったじゃん。多くないスか」
「今の時期は仕方ないでしょ。忘年会シーズンだし」
「……同じゼミで何回忘年会すんだよ」

 昨日の夜から今日の夕方まで、それはそれはスバラシイ時間を過ごした。ベッドの上で全く無駄な時間を食いつぶしながら額をすり合わせて、つまらない映画をBGM代わりにしてソファで寄り添うなまえはめずらしくオレを甘やかしてくれたし、冷蔵庫に残っていた野菜と卵とウインナーであり合わせの昼食をとって、自分以外が見ることはそうそうないであろう余計なものをひとつも顔に乗せていない素顔を見せてくれてこれ以上ないくらいの満たされた休日だった。しかし夕方に差し掛かる頃になると、こちらの肩に頭を乗せて甘えていたなまえはひょいと立ちあがってクローゼットを漁りはじめ、先程までの気の抜けた格好からカジュアルで小洒落た格好へと大変身を遂げたのだった。聞けば今日の夜は例のゼミで忘年会が開催されるというのだが、彼女の所属するそこに過剰な警戒心を持つ自分は、彼女がつい先週も同じようなものに参加していたのを覚えている。忘年会とはそう何度も行われるものだっただろうか。そんなはずがない。年を忘れる会が何度もあっていいはずがない。もちろん、忘年会なんて名目上のものであって、酒が飲めると浮かれている大学生にオレの文句が通用するわけもないのだけれど。

 なまえは「いーじゃん、涼太も来週高校のバスケ部で集まるんでしょ?」と答えながら視線は変えずにただ鏡だけを見つめている。忙しなく動き回る手はミスト状の化粧水(風呂上りにつけるものとは違う少し高級なもの)を吹きかけ、化粧下地の容器を上下に振っていた。むらなく塗りつけられる化粧下地とリキッドファンデーションに白粉でよりすべらかに仕上げられた肌へ、色とりどりの粉が乗せられてゆく。
 まずはアイブロウ。
 こなれた手つきで薄い眉に輪郭をつけていく様を、相変わらずクッションに顔を埋めたまま見つめて溜息した。辛気臭い溜め息を吸わされて身体を折る勢いで抱えられているクッションにはご愁傷様と言うほかないが、それをしているオレの心地は今にも胸を掻き毟りそうに荒んでいるのだからどうか許してほしい。
 前述したように、なまえの所属するゼミは大層仲が良く活動も盛んだ。それに関して文句はないが、文句があるのは彼女の優先順位に関してである。今日のように、どんなにふたりで心地いい時間を過ごしていても、予定の時間がくれば未練などひとつもないというように颯爽と出かけていってしまう。急にモデルの仕事が休みになったから一緒にいられると言っても、ゼミの連中と予定があればそれを曲げることは決してしない。オレなら、もし彼女に「時間が出来たから一緒にいたい」なんて言われたらどんな予定も断ってしまう自信があるし、実際に彼女と過ごした後に仕事に出かけるときはまるで糸でも付いているのではないかと思えるほどに離れがたくなる。
 そこで疑問がひとつ。彼女の恋人であるところの自分は、それほど彼女に重要視されていないのではないか?

 アイメイクへ手順を移したなまえは、目のきわに線を引くだなんて繊細な作業をものの十秒でやってのける。黒いラインが目尻へ鋭く流れて、ミルクチョコレートの色をした眼球がきょろりと揺れた。大きさの違うふたつのチップをうまく使い分けてふんわりと絵を描くようにやわらかいブラウンのグラデーションを作り上げてゆく。きらりと光るラメに彩られた瞼はふっくらとしていて、まばたきの度に現れたり消えたりするミルクチョコレートは小悪魔的だ。一応清純派を気取っているが、ふとちらつく彩りは、なまえに脈拍のストロークや心持ちの機微を預けてしまうような恋をしているオレにとってはたまらないもので、だから余計に気構えてしまう。そんなに着飾って気合を入れてかわいく変身した姿を見せたい相手でもいるのかなんて、頭の可笑しい束縛男みたいなことは言いたくないから黙っておくけれど、なまえの指でタクトよろしく扱われるマスカラのようにオレの機嫌は振り回されるのだから。

 彼女の見せる表情や指先ひとつで、オレは少女みたいに恋に溺れる男に仕立て上げられる。
 自分で実感するほどの矮小さも、つまらない嫉妬も、すべてその結果なのだった。

「……やぎちゃん」

 絶対に言いたくないと思っていた彼女のみょうちくりんなニックネームを呟いてみる。すると今まで鏡の中に釘付けだった視線がこちらを向いて、マスカラを塗りたての長い睫毛がぱちくりとまばたきした。顔立ちは随分と華やかになってしまっていて、そんなに気合いを入れる必要がどこにあるのかという不満に喉が唸る。すっぴんは自分だけが見ることのできる顔だから当然好きだけれど、こうやって色と光を纏うようにして飾った彼女は一層きれいだと思うから、それなりで留めておいてほしいというのが正直なところだ。言ったところでどうせ聞き入れられることはないのだけれど。

「涼太にその名前で呼ばれるのはなんかヤダ」

 こちらを向いていたのはほんの一瞬で、そう返事をしながらふたたび鏡へ向き直ってしまった。ヤダと言いながらも満更そうでもなさそうで楽しげな声を上げるので、言われなくても呼ばねーよ、とひとりごちてクッションに顔を埋める。
 なまえはガラステーブルに並べてあるアイテムの中から大きなチークブラシを手にとって、サーモンオレンジの粉を毛束にほんのり含ませる。そのブラシは自分が普段モデルの仕事をする際にヘアメイクスタッフが使うものととてもよく似ていた。たいして化粧が上手いわけでもないくせに、とりあえず形にはこだわってみるところは子供っぽくてかわいい。なまえひとりだけのために取り揃えられた大仰なメイク道具は、本来の用途を完全に遂行することもないままに持て余されているのだろう。それでも、この満足げな表情を生み出すことができるのだ。きっと本望に違いない。一方でそうやって化粧を施してきれいになって着飾って、彼女だけに心を割く自分を放って行ってしまうなまえをオレはちっとも許す気持ちにはなれないままだ。頼まれたって呼びたくはないけれど、他の連中には呼ばせておいてオレには呼ばれたくないというニックネームも、相変わらず気に食わない。

「ゼミのやつは呼ぶのに、オレはダメなの」

 恨み言のつもりだった。恋人を特別扱いすることなく、悲しいくらいに平等ななまえの優先順位。なんともなしにやってのける言動はこちらの不満を募らせて、大人だと言えば聞こえはいいが、どこか冷めた態度に不安を煽られる。
 化粧は最終段階に入ったようで、ビューラーで丁寧に形成された睫毛はなだらかなカーブを描いて上を向いている。そこだけなにも色の乗せられていないくちびるに、まずは透明なリップクリームが乗せられた。次に取り上げたピンクベージュのルージュはイチゴココアを溶かしたようなあまやかな色をしていて、美味しそうだなんて的外れな気持ちが湧いたけれど、次の瞬間、その理由は簡単にわかってしまう。リップスティックにキスをするようにして自らのくちびるを彩ってゆく様と半開きのままツイと尖るくちびるが、なんだかとても魅惑的だったのだ。今にも溶け出してしまいそうに潤んだくちびるに、キスをしたい、と思った。なまえはそんな危なっかしい姿をして酒飲みの席に向かおうというのだから、たった今目を眩まされた自分としてはどこまでも気が遠くなる。自分ばかりが味わっている喉元にこびりつくような焦燥をなまえにも実感させてやりたくて、いざとなれば喧嘩も厭わない覚悟であきらかに嫉妬丸出しの言葉を吐き出した。

 不満と焦りと嫉妬という情けない三拍子を揃えた言葉に反応という反応を返さないまま、なまえは喉が鳴るほど甘そうなくちびるでちいさく息を吸う。

「彼氏にはちゃんとした名前で呼んでほしいじゃない」

 だからヤキモチなんか妬かないで。
 ポーチの中に手早く化粧道具をしまいこんで、ようやく自主的にこちらへ視線を寄越したなまえはそう言って、扇のように広がった睫毛に縁取られたミルクチョコレート色の目を細める。ピンクベージュのくちびるは夢みたいにきれいな弧を描いて、ふわりとサーモンオレンジに色付いた頬が綻んで、それがチークの色だとしたって構わなかった。先程まで熱烈に見つめていた鏡についには背を向け、クッションを抱き潰す勢いで抱えているオレの顔を覗き込むように顔を近付ける。半分埋めていた顔を上げてやると濡れた感触がくちびるを掠め通り、なまえは、涼太のくちびるピンク、と笑うのだった。溶けてしまいそうなあまやかなピンクベージュが溶けるぎりぎりでとどまっているような、思わず喉を鳴らしてしまうくらいに完成されたくちびるを、オレの機嫌を取るために崩してくれる。ほんの少しだけよれたその色を見れば、オレの機嫌なんてそんなものはいくらでも取らせてやりたくなってしまう。

「……はやく帰って来てよ、なまえ」

 ついさっきまであのニックネームが憎たらしくて仕方なかったのに、そんな感情はまるで感情を蓄積する部分をまるごと取り替えたみたいにすっきり浄化されていた。
 負けたようで悔しいから、絶対に呼んでやらないと誓っていたニックネームなんて、そもそも呼ぶ必要がない。黄瀬涼太の恋人であるみょうじなまえを、自分がそう呼ばずに誰が呼ぶというのか。誰でもないただひとり、彼女だけを表す記号をいちばん舌に馴染ませる権利を持つのは自分なのだと、舌の上でなまえの名前を転がすように反復した。

 彼女が口にするたったひとことで、たったひとつのくちづけで、オレはいとも簡単に幸せな男に仕立て上げられる。
 そんな自分を悔しく思いこそすれそれに抗おうとは端から思考にも上らないのだから、口先だけの文句を垂れるこの口を、仕方ないと笑ってとろけるそのくちびるで封じてほしい。
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